20話 彼女と危機
叱られたくらいで泣いていたと思われたくはなくて、急いで顔を洗って、すぐに化粧室から出た。そのまままた第三書庫へ向かって、仕事を再開する。当然だけれど、室長はこちらの方を一度も見ることなく、そしてそこに会話もなかった。
このまま信用を失ったままだなんて絶対にいやだと、そう思った。だけどそれを取り戻すためには、やはり仕事を頑張るしかない。そこにやる気があるということは、きっと言葉ではなく、態度でしか伝わらないだろうから。
それからわたしは今まで以上に仕事をこなした。まだ仕分け途中にあった半分の本のうち、その大半は並べ終えていた。半分意地のようになりながら、でも一心不乱に仕事をこなしていると、やはり時間の感覚は無くなってしまう。そのために、室長から声をかけられるまで、わたしは既に時計が6時をまわっているということに気付かなかったのだ。
「いつまでやってるんだ」という、まだ冷たさを含んだその声は、だけれど先ほどよりも幾分か柔らかいものだった。その表情も凍った雰囲気を纏っていない。まだきっと彼はわたしの失態に怒っているけれど、でも少しくらいは許してもらえただろうか。
「昨日オスカーに怒られちゃったって?」
人懐っこい微笑みを崩さないまま、マーティンさんは言った。今日は午前中、彼が第三書庫にいてくれるそうだ。昨日室長が持っていたのと同じくらいの量の書類を持っている彼を見て、自分も頑張らねばと、そう思えた。
「はい。・・・わたしが全面的に悪いので、こればかりは何も言えません。」
「アリシアちゃんが居眠りするだなんて信じられないこともあるものだね。前日に夜更かしでもしたの?」
「いいえ、全く。朝の目覚めも良かったですし、それに今まで仕事中に眠くなったことなんてないんです。だから自分でもびっくりしていて・・・」
「・・・そう。でもアリシアちゃんなら分かってるでしょう。」
「はい。これからの行動ですよね。」
そういうと、マーティンさんはにっこりと笑ってくれた。きっと彼には、わたしの言ったことは苦し紛れの嘘ではなく、愚痴でもなく、本当のことだと伝わっただろうけれど、でもそんなことよりも、これからを見てもらいたい。絶対に同じことはしないと、そう決めたのだから。しばらく微笑んだままのマーティンさんが、声には決して出していないけれど、見守ってくれているような気がして、とても気持ちが軽くなった。
「ああ、今日も香りがしますね、アリシアさん。」
そう言ったその人の微笑みを見ると、単にエプロンのポケットから、ジャスパーさんにもらったお香を出し忘れただけだとは言えなかった。だけれど素敵な匂いだと思っているし、何よりリラックス効果があるというのも魅力的だから、差し支えはないのだけれど。
「ジャスパーさん、本当にありがとう御座います。何かお礼が出来ればいいのですが・・・。」
「そんなもの要りませんよ。・・・ああ、でも叶うのなら、」
「なんですか?」
「ええ、もし叶うのなら、今度ふたりでどこかに出かけましょう。」
「・・・それは、何のために?」
「・・・・・・釣れないですね、アリシアさん。」
なんてことを呟くジャスパーさんは、心底がっかりしたような表情を浮かべてみせた。だけれど次には今まで見たこともないような真剣な顔をして、こちらへ向かってくる。そのいつものあたたかい彼の雰囲気との違いに驚き、思わず本を持ったまま後ずさりしてしまう。おそらくジャスパーさんもそれに気付いているはずだけど、彼が歩みを止める気配は無い。
「・・・どうして逃げるんですか、アリシアさん。」
「どうしてと言われましても・・・あなたがそうして向かってくるからです。」
「僕は警戒されているということですか・・・悲しいですね。」
そう言う彼はとても悲しそうな顔をするけれど、でもどうしてだかどこか冷たい空気を感じる。だけどそれがどうしてか考える暇など与えさせないように、彼はどんどんと距離をつめてしまう。そしてとうとう背中に硬い本棚の存在を感じると、彼はわたしの顔の両脇に手をついて、行く手を阻んでしまった。そこでついに、体中に緊張が走った。この距離の近さに、わたしを見る彼の目の恐ろしさに。
だけれど次の瞬間、わたしの考えがぼやけ始める。考えを、中断させられ、体の動きが、封じられ、そして視界すら、おそらく勝手に降りてくる瞼のせいで、閉ざされていく。そこで手に持っていた本が地面に叩きつけられた音を聞いて、ごめんなさい、と小さく心の中で呟いたけれど、結局それを拾い上げることも出来ないまま、わたしの意識は途切れた。だけれど確かに途切れる直前に、ああ、まるで仕事中に居眠りしてしまったあのときと同じような感覚だと、そう感じたのである。
「おやすみなさい、アリシアさん。」
夢の中で微笑んだその人は、ひどくやさしい目をしていたけれど、それはどこか、激しい怒りをも抱いているように見えた。