18話 彼女と言葉足らず
先ほどから、長く続いている沈黙がとても重たい。いや、勤務時間なのだから、静かなのは当たり前なのだけれど。どうにも一言でも喋ったら絶対に許さない、とでもいうような雰囲気が第三書庫を漂っている。
そしてその雰囲気を作り上げているのは、第二書庫の整理係をしているライナス・クィルターさんである。例によって彼もまた第三書庫にて仕事をしてくれているのだけれど、挨拶として名前を名乗った以外に会話はしていない。お礼と謝罪の言葉を告げようとしたのだけれど、すぐにわたしの隣をすり抜けて、木製の椅子に座り、分厚い本を読み始めてしまった。
それ以降、その本にかなり没頭している様子で、本を仕分けしていく際の僅かな物音でさえ、立てたら怒られるのではないかとびくびくしているのだ。
ライナスさんは、見た目だけを見れば、小動物のようだった。焦げ茶の髪は、目にかかっているくらい長くて、でもその隙間から見える目は大きくはないけれど綺麗でぱっちりとしていた。身長もわたしとさほど変わらなくて、その体も細身だった。だけれどそんな外見とは正反対で、その目つきはまるで優しくなかった。あまり人と接することに積極的ではないのだろうけれど、本のことはとても好きなようだ。それは本をめくる手つきがとても丁寧なことから分かった。大切に大切にしているのだろう。
「・・・・・・・・・飯だ。」
そう男性にしては少し高めの声で呟いたのは、間違いなくライナスさんだ。本当に小さな呟きだったから、思わず取りこぼしてしまいそうだったけれど。思わずそちらを見ると、彼は持っていた本をぱたん、と閉じて、それを脇に抱えて第三書庫から出て行った。時計の針が昼の12時を指したのは、それから3秒後だった。
先ほどまで本にあんなに夢中だったから時計なんて見れなかっただろうに、彼の体内時計はよほど正確らしい。近寄りがたいと思っていたライナスさんが、少しだけ、そうではないのではと感じた。
「・・・・・・・・・昼、・・・行けば?」
30分ほどしてから第三書庫に戻ってきた彼は、こちらに目線を向けずにそう言った。
ああそういえばわたしもお腹が空いている。「ありがとう御座います」と、そう一言告げてから、予想通り返事は聞こえなかったけれど、そのまま食堂へ向かった。
「へえ、今日は第二書庫のライナスさんだったの。」
「そう。マーガレット、ライナスさんのこと知ってるの?」
「ごくたまにここの食堂にも来るのよ。普段は王宮内の自分のオフィスで済ませてるらしいけれど。ここの食堂の先輩たちがよく騒いでるの。ほら、ライナスさんって可愛らしい顔してるじゃない?・・・でも、ちょっと性格はとっつきにくいって感じよね。」
「・・・だけれど、同じ書庫の整理係としては、ちゃんと話せるようになりたいわ。」
そう言うと、あなたも大変ね、と彼女は苦笑したけれど、最後には頑張って、と言ってくれた。
思えば他の書庫がどんな風なのか、整理係がどのように仕事をしているのか、全くといって知らなかった。自分の仕事に手一杯だったとはいえ、これはこれで問題である。そう考えると、この機会はジャスパーさんやライナスさんからいろいろ教えてもらえるチャンスかもしれない。
昼食を終えてから、しばらく彼に話しかけるタイミングを探っていたけれど、なかなか文字を追う目線と先を望む指先は止まってくれなかった。だからおそらく区切りの良いところが来たのだろう、一瞬だけ肩の力を抜いて、小さくため息を零したときに、思い切って仕事について尋ねてみることにした。
「・・・・・・仕事?」
「はい。整理係として知っておくべきこととか、やっておくべきこととかを教えて頂ければと思いまして。」
「・・・そんなの知らない。・・・・・・あんたの仕事は掃除でしょ?」
そう言って彼はすぐに、読書を再開させてしまった。
掃除以外にお前の仕事があるのか。といったような、どこか馬鹿にされたように思うのは、きっと気のせいじゃないはずだ。それでも、それに意見は出来なかった。自分でも分かっていたからだ。ここで仕事をするにあたって、わたしにそれほど期待なんて寄せられていないことくらい。
「要するに、早く綺麗にして、早く本たちの情報を得れば良いんですよね。」
「・・・・・・・・・一体、何を要約したらそういう結論になるの。」
「誰からも必要とされない仕事なら、自分から誰かに必要とされるように頑張れば良いって、そういう風に聞こえたんです。」
そう言うと、彼は心底面倒臭そうに、けれど確かに本から目を離して、わたしの方を向いた。その目と初めて視線が合う。だけれどそれはすぐに外されて、また本を読もうと頭を下げたために前髪で隠されてしまった。
「・・・・・・・・・・・・ずいぶん都合の良い耳だな。」
それに対して「ありがとうございます」と、皮肉を込めてお礼を言ってみると、彼はまた顔を上げて反論しようとしたらしいけれど、それを途中でやめて、再び本の世界に没頭し始めた。
きっと、言葉が足りないだけなんだろう。そしてそのことも、彼自身はちっとも気にしていない。だけど、そんなライナスさんと少しでも言葉を交わせたことが嬉しくて、そして改めて自分の仕事に対してのやる気がみなぎってきたことが嬉しくて、思わず頬が緩んだ。
そしてそのあとまた、「飯だ」という彼の呟きが聞こえて、直後に6時を指す時計が、その日の仕事は終わりを告げていた。