15話 彼女と第三書庫
「マーティンさん、先日はありがとう御座いました。」
マーガレットと仲直りしてから、体調が悪かったことがまるで嘘のように、わたしはすこぶる元気が良かった。心が参ってしまうと、やはり体に出るものなのだと立証出来たから良いとするか。
後々マーガレットに聞いた話だと、倒れたわたしをマーティンさんが運んでくれたのだという。彼女は、その人は名前を言わずにただ‘上司’とだけ名乗っていたと言っていたが、現在わたしの上司にあたる人物は2人だけ。その内ひとりは絶対にわたしを運ぶ、というか人を助けるだなんていう光景が全くもって想像出来なかったから、きっと、いや確実にマーティンさんだろうと思い、感謝の気持ちを伝える。
「・・・はて、俺が何かしたかな?」
「わたしが倒れたときに、マーティンさんが運んでくださったと、友人に聞いたものですから。」
「え!?アリシアちゃん、倒れたの?」
「・・・え?」
「マーティン、物忘れが激しいんじゃないか?」
「いや、オスカー、」
「それから君、仕事の時間だろう。すぐに行きなさい。」
「・・・分かっています。ただ誰かとは違って、優しい優しい上司にお礼を言いたかっただけです。」
「君は本当に生意気だな。」
‘生意気’。この間はこの言葉にどれだけ力を貰ったか知れないが、今は聞くだけで室長への苛立ちが募る。わたしが生意気だというのなら、あなたは大人気ないです、と言いたいところを我慢するのがとても辛い。
それでもやはり仕事がもう少しで始まる時間だというのは本当なので、とりあえずはそのまま退室した。なんだかマーティンさんに誠意ある感謝の気持ちを伝えきれていない気もするけれど、それはまた今度にしよう。
体調が悪かった日と休日が重なって、仕事をするのは一週間近くぶりだった。まだ清掃段階から抜け出せていない仕事内容は、また今日も同じになりそうだ。休んでいた分、今日は力がみなぎっているし、予定以上に仕事が進めばいい。と、そう思いながら第三書庫の扉を開けた。
「・・・・・・なによこれは・・・。」
目の前にあったのは、1週間前、最後にここを見たときとは違った姿の第三書庫だった。読書や調べ物をするためのスペースとして、古い木の長机が30程並んでいて、100以上もの本棚があって、書庫の壁にも本が敷き詰められている、はずの第三書庫。以前までに14つの棚を清掃し、本の情報や状態などもちゃんと記録し終えていたはずだった。だから少しは最初にここへ足を踏み入れたときよりも居心地良い場所となっていたのに。
なぜこんなにも、本が乱雑に散らばり、棚がいくつか倒れ、長机も脚を折られている状態になっているのだろうか。溜まりに溜まった埃もきっと空を舞った後、書庫の全体を覆うようにして膜を張っている。これでは、綺麗に整頓されていた本がどこにあるのかさえも分からない。作業が一からやり直し、いや、一からやるよりも困難な状況になっていた。
「どうしてこんなことに・・・」
そう呟いてみるけれど、王宮にいる誰かが故意にやったのは明らかだった。地震があったのなら王宮の敷地内に住んでいるわたしだって気がつくし、外部から泥棒が入れるはずもない。
今までの苦労はなんだったのかと、肩が落ちる。だけれどそう嘆いていても仕方ない。まずはオスカー室長にこの事実を報告しなければならない。
「これはまた酷い有様だな。」
とりあえず付いてきて下さいと、嫌そうな顔をしたオスカー室長を引っ張ってきた。この現状を見るが早いと、そういうことである。
一言呟いた彼は、少しだけ考える素振りを見せる。
「・・・犯人に心当たりは?」
「全くもってありません。」
「ここをよく利用していたのは?」
「こんな状態で利用する人などいませんでした。あ、時々ですが殿下はいらしてました。でも他にここに入った人はオスカー室長かマーティンさんかわたしだけだと思いますけど・・・。」
「殿下や俺たちが荒らしたということはまずない。それにここは基本的に開放されているから、誰でも利用しようと思えば出来る。君の勤務時間以外に誰かが侵入したんだろう。目的は、全くもって分からないが。」
そう、目的が分からない。
ここ第三書庫は、わたしが来る前まで全くもっと利用されていなかったはずだ。殿下がケペル語を調べる以外に。それに利用している形跡があればわたしだって気がつくはずだ。掃除する前は、足跡すらくっきりと浮かび上がるほど汚れていたのだから。
「とりあえず、目的が分からないのに犯人が分かるはずがない。君の仕事はこれをもう一度元通りにすることだな。しばらくは誰が来ても第三書庫への入室を断るように。」
そう言って室長は、もう一度書庫の中を見渡した後、彼の仕事へと戻っていった。これを隠密に解決するのか、それとも大事にするのか、そういった決断は彼に任せる他ないだろう。
わたしの仕事は、ここの整理係というだけなのだ。
「もともと10分の1しか終わってなかった仕事だし、もう一度やり直すっていうことは、より一層頭に情報が染み付くってことだわ。」
そうやって自分に良い風に考えるようにする。
そうしないと、どこか愛着がわき始めていたこの第三書庫の、こんな有様に、思わず心が痛んでしまいそうだったから。