12話 彼女と彼女の気持ち
その朝は、ひどく体調が悪かった。いや、体の調子はいつもと変わらず良いはずだった。だけれど、それを動かすのがひどく億劫で、だるさを感じた。全てその元となる、心に問題があるということは分かっていた。
今の時刻は、朝7時半。いつの間にか寝てしまったわたしは、寝過ごすことなく朝を迎えてしまった。もしこのまま寝過ごしてみたら、あの元気な声が扉の向こうから聞こえるのではないか、とそんな期待をするけれど、それはあり得ないことだと、すぐに思い直した。
「だってわたしは、嫌われているんだもの・・・」
そう呟いて、またひとつ心に重たいものがのしかかるのが分かった。
今日はとてもじゃないけれど食堂に行ってご飯を食べるなんて出来そうになかった。それに食欲もあまり無いのだ。
「何だその顔は。蜂にでも刺されたのか。」
ああ、いつもは会いたくないと考えていたこの人のことも、今はあまり考えられない。反抗するのにも力が入らず、「おはようございます」とだけ呟いて第三書庫へ向かった。「おい、大丈夫か。」という声が聞こえたけれど、初めて室長に心配されているような言葉を貰っているとは感じたが、それもすぐにどこかへ消えてしまった。
今日の仕事の目標は決めていたから、とりあえずそれに集中することを考えた。それでもいつもより身が入っていないことに、気付かざるを得なかった。
そうして今日何回目かの溜息をついたあと、第三書庫の扉が開いたことに気付いた。
「・・・・・・殿下。」
「久しぶりだな。調子は、・・・あまり良くなさそうだな。その腫れた目はどうしたんだ?」
そこに立つのは、週に何度かここを訪れる、ハウエル王太子殿下だった。今日もここで読むつもりだったのだろう本を数冊抱えている。
「いえ、何でも御座いません。ただ、夜更かしをしただけで。」
「そのような嘘はつかなくて良い。お前のことは、俺を助けてくれた友人だと思っている。だからお前に何か悩みがあるのなら、友人である俺に出来ることは何でもする。」
「・・・ゆう、じん、ですか。」
「ああ。」
「・・・その友人は、簡単にそうでなくなったり、嫌ったり、出来るものですか?」
「・・・誰かと仲違いをしたのか?」
頷かなくとも、彼にはわかってしまったらしい。そこでしばらく黙ったあと、彼は、言った。
「友人でなくなる前にはまず、その人はお前の友人でなければならない。そして友人を嫌う前にはまず、その友人を好きになっていなければならない。友人と仲違いするということは、お前とその友人の関係の終わりとも考えられるが、それをまた確かなものとするための始まりにもなるんじゃないか?」
そしてどちらになるかは、お前の努力次第だと、俺は思う
しばらくその言葉を頭の中で何度も繰り返した。殿下の言った意味を、何度もかみ締めるように。それが意味するものを、自分のものにするために。
「おい、・・・おい、・・・・・・おい!」
そうして聞き覚えのある、低い低い声に呼びかけられるまで、わたしは殿下がすでに第三書庫から去っていたことにも、自分が床にうずくまるようにして座っていたことにも、気付かなかった。腕を掴まれている感覚に、頭を上げると、その声の覚えの通り、オスカー室長がわたしを見下ろしていた。
「顔色がひどく悪い。仕事が出来ないんなら、すぐに宿所に戻って休め。・・・全く、気分が悪いのならすぐに報告するべきだろう。」
「・・・・・・・・・。」
「・・・いつもみたいに反論も出来ないほど調子が悪いのか?」
言いながら身を屈めて顔を覗き込んできた室長に、いつもより眼鏡の奥の冷たさを感じなかった。いつも不機嫌そうにしている表情も、今目の前にあるそれは何だか戸惑っているようにも見えた。
「持ち前の生意気さはどうしたんだ?体調が悪い、気分が悪い、だからといってそんなものでへたり込むような弱虫だとは思ってなかったが。俺の見込み違いだったのか?」
わたしは、弱虫じゃ、ない
そう言われたとき、ああそうか、と思った。
まだ、何もしていなかった。わたし、マーガレットに伝えたいことだって、あった。聞きたいことも、たくさんあった。それでも彼女にもっと嫌われるのが怖くて、自分らしくもなく弱虫みたいに逃げ回っていたのだ。傷ついているのは自分だと、まるで被害者のようなふりをして。
「・・・わたしは、生意気ですか?」
「ああ、頑固で、すぐに突っかかってきて、すぐに反抗して、だけどまあ、打たれ強いところだけは認めてやろう。」
「打たれ、強い・・・」
殿下は、言った。わたしの努力次第だと。
室長は、言った。わたしは打たれ強いのだと。
その言葉に、自分を見出せた気がした。
「室長、わたし、今初めて、室長に心から感謝しています・・・。」
「・・・・・・・・・そういうところが生意気だって言ってるんだ。」
不機嫌そうな声が聞こえて、だけれど今はそれすらもわたしの背中を押しているように思えた。ようやく、向き合える気がした。その予感を期待することで胸がいっぱいで、そのときわたしは、誰かの手が、わたしの頭を撫ぜていたことには気付かなかった。まるでそれが、頑張れ、と言っているように、とても優しいものだったことにも。