10話 彼女と彼女の多忙
慌てて食堂に足を踏み入れて、そこで働く人の顔を見渡す。しかし、そこにマーガレットの姿はなかった。今日の夕食は当番ではなかったらしい。早く伝えたくてそれでも残り20分となった夕食の時間のために、急いでそれを食べた。
「マーガレット、わたし、アリシアよ?部屋にいる?」
ノックを2回した後にそう告げる。それでも中からは何も聞こえてこなかった。
部屋にはいないのだろうか。もう8時を過ぎようとしている頃なのに。とりあえずもう2回程扉をノックしてみたけれど、やっぱり返事は無くて。仕方なく今日は諦めようと、隣の自分の部屋に戻ったのだった。
次の日の朝、食堂へ向かうと、マーガレットはそこで配給をしていた。やっと報告できる、と小走りに駆け寄る。
「マーガレット、おはよう。昨夜は部屋を空けていたの?ノックをしても返事がなかったから。」
「ええ・・・昨夜は仕事が忙しくて眠ってしまったの。」
「そうだったの。あ、それでね、マーガレット、」
「アリシア、ごめんなさい。わたし、仕事があるわ。」
そう言ったマーガレットの声は、いつもより少しだけ冷たく聞こえた。仕事を邪魔してしまうわけにはいかない。そのまま会話を続けたいのを堪えて、マーガレットが仕事に戻るのを見ていた。それでもそろそろ宿所を出なければならない8時半を過ぎるまでの間にマーガレットがこちらへ戻ってくる様子はなく、今日は忙しいのだろうと、わたしもそのまま仕事へ向かったのだった。
「・・・げ。」
と、そこで思わず声が出ていたことに気付き、慌てて口を押さえた。というのも、またしても王宮に入るかは入らないかのところで、艶のある黒髪に、銀の眼鏡をした、あの、冷徹なオスカー室長と遭遇してしまったのである。どうやら毎朝煙草をふかすのが日課のようだ。
「げ、とは何だ。」
「いえ、何でもありません。おはようございます、室長。」
「・・・君、マーティンからの報告では、昨夜はまた帰りが遅かったようだが。仕事のペースを管理するのも仕事の内だ。」
「はい、分かっております。」
「分かってないだろう。要領が悪いからといって夜遅くまで働いても疲労でどうせろくな効果は得られない。それならその分しっかり休養し、次の日に備えるべきだと言っているんだ。」
「またまたオスカーはそんな言い方ばかりして・・・」
後方から声がして振り向くと、そこにはマーティンさんが立っていた。どこかへお遣いにでも行っていたのだろうか、大量の書類をもっているようだ。
「おはようございます、マーティンさん。」
「おはよう、アリシアちゃん。オスカーのあの言い方を翻訳するとね、‘アリシアちゃんは女の子なんだから、あまり無理に夜遅くまで働きすぎたりしないで、ちゃんと休むことが大切だよ’っていうこと。」
「そんなこと一言も言ってない。」
「はいはい。あ、そうそうアリシアちゃん、今日は第三書庫のお仕事はお休みね。」
「え?どうしてですか?」
「今日は月に一度の名簿確認の日なんだよ。」
そう言いつつマーティンさんは、それがとても大変だと分かるくらい表情を歪ませて、説明してくれた。
王宮の人事統括室では、そこに働く従業員の確認を、毎月一度行っているのだという。月に一度、ひとつの部門に対して調査を行うらしい。なんでも、事前にその部門の従業員に用紙を配り、名前、住所、役職、勤務態度などを書かせた後、それと登録名簿との照合をするというのだ。
というのも、昔全ての部門にいる室長や部門長にそれらの管理を任せていたところ、ひとりの責任者が、従業員が辞職したことを人事に報告せずにその給与を自分のものとし続けていたことが露呈したのがきっかけで始まったらしいのだ。
だからそれ以来、そういった不正を防ぐために月に一度は人事が自ら従業員の確認を行っているのだと、マーティンさんは言った。
「だけれど部門によっては人数がかなり多いところもあるし、記入漏れや判断不可能な書類もたくさん出てくることが多いから、名簿確認にはみんな苦労してるんだ。」
「ということだから今日は、猫の手でも借りたいということだ。」
「・・・わたしは猫の手なんですね。」
「物分りは良いみたいだな。」
どうしても反論したくなるのを一先ず抑え、大人しく人事統括室の空きデスクを借りて、マーティンさんに仕事を教わることにする。
内容はいたって簡単で、王宮勤めを開始するときに提出し、登録された情報と、提出された本人による手書きの情報が一致しているかどうか、確認すればよいのだ。しかし、そう簡単そうに見えても、実際は手書きの文字のためにあまりにも解読が難しかったり、どこかの欄が未記入だったりするものがある。そういったものを見つけたときは、その人物に会い、確認を取らなければならないのだ。
「あ、文字がつぶれてる・・・」
「どれどれ、ああ、本当だね。これは、・・・警備のローランド・タリスか。」
「これ、確認して来れば良いんですよね?わたし行ってきますね。」
マーティンさんの、よろしくね、という声を聞いてから、わたしは王宮の門へと向かった。宿所の隣を通ると、食堂からは良い匂いが漂ってきていた。
門のところまでたどり着いて、そこにローランドさんがいつもと変わらず立っているのにどこか安心して、書類についての確認をした。
「そうか。インクが染みてつぶれてしまったのか。申し訳なかった。」
「いえ、確認をとれてよかったです。」
「ああそうだ、メラーズ殿。先日の質問、女性の好みについて考えてみたのだが、やはり俺にはよく分からない。だが、はきはきとした快活な女性は一緒にいて楽しいだろうと、思う。」
「本当ですか!考えてくださってありがとうございます、それを聞けてとても嬉しいです!」
もう一度頭を下げてから、少し逸るような気持ちで元来た道を戻った。
なんと!ローランドさんが素敵だと思う女性は、わたしから見て、マーガレットにぴったりではないか。早く彼女に伝えたくて、うずうずしていた。
だけれど、人事統括室に戻ったわたしが見たのは、まだ大量に残された書類だった。そして悟ったのだ、ああ、今日はこの書類の前で、この人たちの前で、食事、休憩などという言葉は到底言えないだろう、と。