第一章 第七話 重なる憎悪
「いてぇ……」
朝日差し込む木造建築、窓からは小鳥の鳴き声が微かに聞こえてくる。
首元に丸い痣を作ったメイトは苦しげに呻いて体を起こした。
ただ、メイトが言ったのは首から来る痛みに対してではない。
外から、小鳥の鳴き声より遥かに大きな泣き声が、メイトの耳を突き刺す。
「何歳になって、あんなに泣いてるんだよ」
ランジリーの、まるで遠吠えのような大きな泣き声が家に、丘に、麓の村にまでこだまする。
「……ほんと、いてぇ」
メイトの頬に、何筋もの滴がボロボロと、ボロボロと流れては、胡坐を掻いた股に落ちていく。
思い出すほどに色濃く二人の心に積もった母との思い出。優しく二人に笑い掛け、厳しく二人に木刀を振るい、明るく愛してくれた義理の母。
本当の親との思い出が殆ど無い二人にとって、ディルティーは紛う事無き、義理ではなく本心の母親。
孤児院に入った時から、幼心にも絶望の気配を知り、明るく振る舞うも心の底では諦めていた親の愛。
止めようなく流れ落ちる二人の涙はその愛の重さを如実に語る。
それは昼前になっても止む事はなかった。
だが、時は無情にも二人の涙を枯れ果てさせ、時は無情にも二人の空腹を煽る。
二人とも、昨日の昼飯から丸一日、何も食べていないのだから当然といえば当然である。
「…………」
「…………」
無言で食卓を挟むランジリーとメイト。
一メートル四方の机上には丸パン、ミルク、大金。
「何……これ」
泣き過ぎで掠れた声のランジリーが、気怠そうに頬杖を突いてメイトに聞いた。
「これ、一緒にあった」
普段通り、だがそこはかとない沈んだ調子でランジリーに一枚の便箋を手渡す。
受け取ったランジリーは、眼に垂れかかる揉みくしゃの赤髪を左右に払い、目を落とした。紙には手書きながらも整った綺麗な明朝体でこう書かれていた。
――お玉で倒せるお手軽な、私の子供達へ。
本当はもっと真っ当な別れをしたかったんですが、このような形になってしまい、私は貴方達の母親失格ですね。
自惚れの多い愛娘ランジリー、剣の腕は振るわれる度、私に才能の片鱗を見せてくれていました。でも、調子乗り過ぎ〝はあと〟。どんなに溢れる才能を持とうとも、研鑽を積まなければ腐ります、えぇそれはもうアッサリと。貴方は私に付いて来てくれると言いましたね、でも、そんな雑魚はお母さんには要りません。貴方はもっと強くなって、もっと綺麗になって、もっと魅力的になれると、母さんは信じています。だから、連れてはいけませんでした。分かってくれるよね。
優しさ溢れる自慢の息子メイト、色々と成長期の貴方の成長は剣の腕のみならず、本当に多種多様なものに溢れていました。毎朝、さり気無くランジリーの分まで木刀を磨いていたのを私は知っています。毎昼、見えないように外庭の手入れをしていたことも、毎晩、厳しい稽古の後、ランジリーが寝てからも一人で素振りをしていたのも知っています。昨日、本当は付いて行くと言いたかった貴方の気持ちも分かっています。自分で迷惑になると判断していたのですね、確かに昨日の話では駄目でしたが、もう少し自分の我儘を押し付けてくれた方が母さんは嬉しく思います。これからの長い人生、決してその優しい心で我を押し殺すことなく、生きていくように。
本当は口で言いたかったし、文を書くのは苦手なので全く書き切れていないのですが、まぁ、私の伝えたいことは一つです。
愛しています。また、会いましょう。
PS,机の上に当面の資金を置いておきました。ただ生きるだけならば、二人で五年位は軽く保つはずです。自分のなりたいものを見付け、それで安定した収入を得れるまで使ってあげてください。無駄遣いしちゃ滅ッだぞ?
「何が滅ッ、よ」
読み終えたランジリーは手紙を、パンの乗った皿を置くスペースが見付からなかった程に紙幣や硬貨の敷き詰められた卓上に置いた。紙には真新しい染みが新しく出来ていたが、メイトはそれに気付かないふりをして、
「このお金、全部騎士団からの報酬……だよな。こんなにいらないっての」
とランジリーに話を振るも、「だね」と短く返されて二の句が継げず、微妙な沈黙が食卓を支配した。
お互いに気まずく思う沈黙、二人の手は自然とパンへと伸びた。
乾いた喉をミルクで潤し、パンを千切って口に運び、もそもそと咀嚼して飲み込む。
単調な、食事と言えるかすら微妙な作業。二人の脳には昨日までの楽しい食卓の記憶が反芻される。
「今年、不作らしいよ。ユーシア村」
ふと、ミルクの潤いで少し色の戻った声で、急に麓の村の話を持ちかけるランジリー。メイトは目線だけを話し手に向ける。
「不作、いや大凶作も良いとこらしい。大変だね農家って。このパンも作るの大変になってるらしいよ」
「うん」
「でね、もしメイトが良いなら……どうせこんなに使わないし、このお金――」
――ランジリーの言葉の続きは、蹴破るように開け放たれた扉から流れ込む、大量の足音に掻き消された。
*
鋭い金属の摩擦音が鳴り響く。
空を舞い踊るランジリーの赤毛は、激しい風圧に流される。
「やっと、その気になったのか」
「あぁ」
メイトの白刃は、振り上げられた戦斧によって阻まれたのだ。
刃と刃が擦れ合う瞬間に起こった火花。それが燃え尽きて消えるのと同時にメイトは数歩後ろに飛び退いた。
「後悔するよ、メイト」
「誰に言ってるんだ? 溢れる才能を持つ姉貴様?」
それまでの男勝りな口調とは違う、仄かの女性の質を含んだ語尾にメイトは思わず口角を上げた。それはまるで遊び相手を見つけた子供みたいな、苦労して仕掛けた悪戯に誰かが引っ掛かったのを見たときのような微笑。
「アタイは、ユーシアの糞ったれどもを許さない。一生掛けて後悔させてやる。そして、逃げたお前も許さない。殺す」
「……一方的な復讐が実を結んだ結果が姉弟の対決、か」
「うるさいウルサイ煩い五月蠅い!! 尻尾を巻いて逃げたお前もその原因の一つだろ!」
哀れむ瞳を向けるメイトに、ランジリーは走った。……違う、跳躍した。
「痺れはもう良いのかよ!」
舌打ちをしたメイトは迎撃するために中段に剣を構え直す。
だが、それよりもランジリーは早かった。戦斧ではなく木の棒でも持っているかの如き疾駆。戦斧の基本形である縦斬りがメイトに襲い掛かる。
「ッグ!」
グィン、という鉄が撓る音。カウンターを諦めたメイトは剣を上に構え、峯を片手の平で支える堅牢な防御の姿勢を取ったが、一撃で腕の芯にまで振動が伝わり、骨が悲鳴をあげる。ランジリーの全体重がかけられた一閃に、メイトの革靴が地面にめり込む。
「っ……! おうらぁ!」
メイトにしては似合わない、喉の奥から野太い声を出して戦斧ごとランジリーを振り払う。
「甘いよ、ついでに斬り付けも加えるくらいしないと」
左に飛ばされた体の体勢を即座に立て直し、ランジリーは戦斧ごと体を廻す、遠心力を最大限に活用した斬撃を放つ。
「真っ二つにする気かよ」
自分の胴体が下半身とサヨナラをする図を思い浮かべたメイトはそれをしゃがんで避ける。頭頂の髪の毛が何本かが、その豪風に引き裂かれた。
「禿たらどうすんだよ!」
怒声を上げたメイトはランジリーの足目掛けて横薙ぎに剣を振るう。
「よっ」
その攻撃を、斧を投げ捨てる事で身軽になったランジリーが縄跳びの要領で小さくジャンプして回避。重々しい音を鳴らして地面をザックリと削る戦斧。
「なに!?」
武器の放棄に呆気を取られるメイト。その右頬に、まだ宙に足の付いていないランジリーの蹴りが叩き込まれた。
何とか右腕でガードしたメイトは再び剣を一閃。無理な体勢からやけくそ気味に放たれた刃は僅かに届かず、虚空を斬る。
「吹っ飛べこんちくしょー!」
掬い上げ、掬い上げ、吹っ飛ばす。
地面に対して垂直に上がる爪先に顎を蹴り上げられたメイトは声にもならない呻きを上げて再び掌底の時と同様、地面を転がる。
「はい、意識が飛んでゲームセット。見事姉は弟に勝ち……」
振り上げた足を両腕で抱え込む蹴りの姿勢を解いたランジリーは全く動く気配のないメイトに向かって言い、投げ捨てた戦斧に歩み寄り、ゆっくりとした動作で地面から引き抜く。
そしてメイトの元へ、無防備に戦斧を引き摺りながら近付く。
決着か。
「姉に勝てると調子に乗ったその弟を……殺すのでした」
「おや、メイトさんが倒れてますね」
「ッ――! 誰だ!?」
自分以外に誰も居ないと思っていた所に現れた、自記憶に無い落ち着いた物腰の高くもなく低いもない声に驚き、ランジリーは勢いよく戦斧を構えつつ振り向いた。
「あぁ、すみません。良い所を邪魔してしまって。私はVF(ヴァ―メイルフルーツ)独立軍所属現大尉のイオス=サビルークと申します」
「メイトの味方……か」
慇懃な態度で名乗る軍服姿のイオスを見て警戒心を上げるランジリー。
「どうする? いや、聞くのもおかしいくらい当たり前だろうけど、メイトを助ける?」
ランジリーは戦斧を握る手の力を強めて、相手の強さを見極めようとする。
――階級は大尉か……、疲れてるけどいけない事も無さそうだな。
イオスを見てそう判断し、よく見ても分からない程に微々、少しずつ距離を詰める。
「いいえ? 助けませんよ?」
「へっ?」
予想外過ぎる答えに、ランジリーは拍子抜けして戦斧を落としそうになるが何とか堪えた。
「見た所、浅からぬ因縁があるみたいですし……何より、手を出したら後で私が殺されかねません」
「い……良いのか? もうこいつに意識は無いんだぞ?」
思わず、弟であるメイトの友好関係を不安に思うランジリーはイオスに問い掛けた。
「貴方は彼の修業を知りませんからねぇ」
「修業……?」
「えぇ、独立軍に入ってから彼は……まぁとある変な師匠を付けて修業しているんですよ」
「……?」
――師匠と修業に、この状況と何の関係があるんだ?
ランジリーは思考するも、完全に意識を失っている状況からの打開なんて思いも付かない。
「ぶぇっくしょぉぉい!」
大きなクシャミをし、でろーん、と鼻水を鼻から垂らしたラソキララは手近にあったティッシュで豪快に鼻をかむ。鼻をかむ度に、竜翼が背筋から一直線に張られるのが何とも愛らしいようでもある。
「ふむ、風邪かね?」
「うーむ、わっちは風邪なぞひいたこともないのじゃが」
脚の低い木製の木彫り机の上に置かれたオセロ盤、圧倒的に黒が有利な状況だ。
ラソキララの向かいに座るガレウスが珍しい物をみるようにラソキララに聞くが、当のラソキララも首を傾げる。
「せめて儂かわっちか、一人称を統一させませんか……? っと」
「迷い中じゃのーっと」
ガレウスが白のパネルを置くのとほぼ同時に、ラソキララは黒を置いた。
「……意味の分からない奴」
結局、ランジリーは答えの出せないまま、気に留めずにメイトへと向き直った。
――気絶したら終わりだろう。
ランジリーはメイトの前に立ち、戦斧を振り上げた。
血が噴き出す。
「なっ……んだって?」
ランジリーの剥き出しの腹部……寸前、メイトの手の動きに無意識的に体を反応させて後ろに身を反らせたランジリーだったが、引ききれなかったそこへ薄く剣が這った。