第一章 第一話 始まりの他愛無い
簡素、質素といった言葉を大言したような部屋。昼過ぎの刺すような日の光が差し込む、見渡す限りの緑々とした森を一望出来る大きな窓、白いシーツの敷かれたシングルベッドと収納用のクローゼットが一つずつ、奥へと続く磨りガラス製の戸が一つという、何か物足りない飾り気のない、見るものに寂しい印象を与える部屋である。
その部屋の出入口である木製の扉が、鍵を開ける音も無く開かれた。現れたのは先程まで木の下で昼寝をしていた少年であり、荒々しく扉を足で閉めた少年は磨りガラスの戸に一直線に歩み寄る。
くそっ……酷い目にあった、と少年は舌打ちをしつつ、歩みを止めずに着ていた無地のTシャツをベッドに脱ぎ捨て、黒いジーンズ一丁でガラス戸を乱暴に押し開けた。
中は小さなバスタブとシャワー、座席タイプの水洗トイレに洗面器が一括りに設置されているユニットバス形式の個室。洗面器の前に立った少年は蛇口の栓を軽く捻る。キュッという小粋な音と共に少量の水がそこから吐き出され始める。少年はそれで手を濡らし、脇に置かれていた石鹸を手に取って泡立て、もう何も付いてはいない顔に塗りたくっていく。特に右頬は重点的に掻き毟る様に泡を染み込ませながら。
五分程、泡を水で洗い流し、また塗って洗い流すという作業を繰り返し続けた少年は、ようやく満足したのかしたのか壁に吊るしてあった手拭いで顔をごしごしと擦り、ふと、正面の壁に付いている鏡を一瞥。
毛の細い、長くもなければ短いという訳でもない黒髪、顔の擦り過ぎで多少赤くなっているが、はっきりとした目鼻立ちの精悍な自身の顔が映し出されるも、つまんねぇ顔、と小さな溜め息を吐き、少年は手拭いを取っ手のある元の位置に吊り、開いたままだったガラス戸を抜け、手で丁寧に戸を閉めた。
「あぁ……疲れた。明日からまた仕事か」
たまの休みぐらいゆっくりと休みたかったな、と、大きな欠伸をしながら両手を上げて背を伸ばし、そのままベッドへと倒れ込んだ少年。余程精神的に疲れたのであろう、少年はピクリとも動かなくなり、少し経つと耳を澄まさないと聞こえない程度の寝息が、静かな部屋へと染み込んでいく。
数時間後、部屋の外が数え切れない程の人の声や物音でガヤガヤと賑わい始めたが、少年は慣れているのか全く起きる気配なく眠り続ける。
早朝。
窓から見えるのは薄紫色の夜と朝の境目。少年が眠り始めた時はまだ南の空高くにあった太陽も、今は見当たらない。
その様な朝早い時分、部屋に響く『コンコン』という控えめなノック音。だが、少年は起きない。自身の顔面を枕に埋めたまま相変わらずの静かな寝息を立て続けている。
しばらく規則正しいテンポでノックは続いていたが、三〇秒程度経ったあたりで不意に鳴り止む。諦めたのだろうか、部屋には再び、ノックを無視して熟睡している少年の口から漏れる「スー…」だけが音源の静寂に包まれる。
ーーしかし、来訪者はそれだけで諦めるほど甘くは無かった。
突然の衝撃音。木製の扉が外れても不思議ではない程に大きくしなる。過度な攻撃、とも言えるようなノックの音に当然、少年は寝続けられるはずもなく、
「ぶぉわっ! な、何だ!?」
敵襲か!? と、少年がうつ伏せの状態から背中をしならせて飛び起きた。のと同時に、支えの為に伸ばした手を踏み外してベッドから転げ落ちた。「ゴフッ」と短い呻き声。頭から落ちた少年はそのまま床に顔面を強打、暫し「ぐもももも」と顔面を両手で押さえ付けて悶絶。そんな痛々しい少年の声が聞こえたらしく、激しいノックの音は止まった。扉には鍵が掛かっていなかったらしくカチャリ、と乾いた音を立ててノブが回り、ゆっくりと開かれる。
部屋の中へ、綺麗に磨き上げられて光沢のある黒いブーツが踏み入る。
「お目覚めですか、メイト・ヴァルター中尉」
長く艶やかな金髪を両耳の後ろで二つに分けてゴムで縛るだけのシンプルなツインテール、若干まだ幼さが残っている顔立ちの少女が、うずくまる少年の前に立って呼び掛ける。普通ならば可愛らしい少女といった印象を持つ所だが、纏う服装がそれを許さない。
薄く紺の混ざる黒い軍服。上着にはポケットが至る所に備え付けられており、胸の位置には仰々しい何かの葉を模した金の刺繍に紅い林檎の様な物が描かれているエンブレムが入っている。ズボンにはこれといった特徴は無く、ゆったりとして動き易そうな作りをしているが、腰の両側には革製のホルスターが吊るされていて、それ等を着せられている感無しにビシッと着こなしている少女の様は可愛い印象ではなく、凛々しさがある。
「コ、コリー……曹長にもなって……もっと普通に起こせねぇのか」
メイトと呼ばれた少年は右手で鼻を押さえながら立ち上がった。少女と並ぶとメイトの方が頭一つ分高く、見上げる形でコリーはメイトに含みのある笑いをかける。
「普通にしましたよ、三四秒くらい。ですが起きる気配が無かったので」
嘘付け、とメイトは頭の中で悪態を附いたが口には出さないで、何気なく視線をコリーから窓へと移す。
窓から見える景色は、まだ夜なのか朝なのかはっきりと判断のし難いものであり、メイトはコリーの脇を抜け、クローゼットの戸を開いた。中は部屋の様子とは違い、ハンガーでコリーの物と似たタイプの軍服も掛けられていたり少年物の漫画や良く分からない物等、多種多様な物が詰め込まれている。その中から据え置き型の小さな時計を取り出し、時刻を確認。長短針は午前四時ちょうどを示している。
「はぁ……? まだこんな時間じゃねぇか」
「惚けてるんですか? 今日は月例総会ですよ」
月例総会という単語を聞いたメイトは「あぁ」と、思い出したように手で自分の頭を軽く叩き、用の済んだ時計をベッドの上へと放り投げて、
「すまんすまん、忘れてた」
「もう少し、自分の立場を良く考えるべきですよ。私も階級が曹長になったのであまり世話を見切れません。大体――」
「あー、分かった分かった。とりあえず着替えるから廊下で待っててくれ」
「全く」
これ以上は勘弁してくれ、といった様子で手を振るメイトを見て、呆れたように額を掌で押さえながらコリーは扉の方へ歩き、部屋から出て扉を閉めようとしたコリーの手を、メイトの「あ」という声が止める。
「どうかしましたか?」
「覗くなよ?」
「……撃ち殺しますよ」
バタン、と大きな音を立てて扉が閉まる。災難続きの扉であった。
俺の補佐なら、もっと気楽にして欲しいもんだ。
メイトは頬を掻きながら軍服の掛かったハンガーをクローゼットから取り出し、戸を閉める。そこで初めて自分が上半身裸のまま眠っていた事に気付き、寝ている間にベッドの上から床に落ちていたTシャツを開いた方の手で拾い上げ、更にある事に気付く。
「あいつ、俺が半裸だったのに普通に接してたのか」
何ともまぁ、と苦笑を浮かべながらベッドの上に軍服を置き、Tシャツを丁寧に畳んでベッドの脇に置く。閉めた戸をもう一度開け、中にある収納棚から黒一色の長袖のシャツを取り出し、それを着る。昨日から履きっぱなしだったジーンズにも皺が出来ており、床に脱いでからTシャツと同様に慣れた手付きで丁寧に畳んでいく。
「遅いですよ、もうすぐ始まります」
「悪い悪い、じゃま、遅れないように行くか」
結局、色々と整理していたメイトが部屋から出たのはコリーを廊下で待たせてから十分ほど経ってからだった。メイトはコリーと同様の、しかしコリーのとは違い、上着のポケットは腰の位置に2つしか付いておらず体のラインに合わせてややキツめに作られている。ズボンも幅にあまり余裕の無い作りで右腰には刃渡り一メートル程の剣を収める鞘が据えられている。
「全く……少しは自身の階級に応じた行動を取って下さいよ」
「あ~、もう良い。次からは気を付ける」
「いつもそう言ってますけど」
横幅5メートル以上はあるであろう廊下、それだけで建物の大きさは相当なものと計り知れる。廊下には二人と同じ軍服を着る者で溢れており、老若男女様々。皆一様にメイト達と同じ方向へ進む。中にはメイトの顔を見てヒソヒソと何かを話している二人よりも更に若い女性も居るが、メイトは全く気にしていない。
「ほら、まだこんなに人が居るじゃないか」
「尉官以上の人なんて居ませんよ」
「いや、ぜってーイオスとかはまだだぞ」
メイトは誰かを探す様にキョロキョロと首を振り、向こう側の廊下を見るも、探し人は見付からないようだ。
廊下はカーブを描いて続く。建物はその線に添って必然的に巨大な円筒型になっており、廊下は手すりで区切られているだけで、建物の中心は開放的な空洞となって各階に繋がっている螺旋階段が目立つ。当然、反対側の面にある廊下にも人は溢れていて、その数は千やそこ等では済まない。
「では、尉官以下は下層階なので。最上階へどうぞ」
「はいはい」
螺旋階段に差し掛かった時、コリーはメイトにそう告げて下へと向かい、メイトは手をひらひらと振りながら上へ。先程までメイト達の周りには人が群れていたが、上に向かうのはメイトだけのようだ。
「あぁ、ほんとうに」
その光景にうっすらと苦笑いを浮かべたメイトは多少焦るように一階、また一階と歩を進める。しかし、最上階まではもう何十階とある。
「歩くのが億劫になりますね」
「やっぱりお前もか」
背後から掛けられた声、それにメイトは振り返る事無く応える。
「えぇ、生憎、私には問題児を起こす仕事が有りますからね」
「言い訳お疲れさん、イオス=サビルーク大尉?」
茶化す様に言うメイトに、「心外ですね」と乾いた笑い声を上げながら隣に並んだのは、型口まである真っ直ぐな青い髪に赤い瞳という、髪と目の色が違うという変わった男。イオスと呼ばれた男はメイトと大した歳の差は無いだろうが、落ち着いた口調と物腰が彼を大人らしく見せる。軍服はメイトやコリーのよりかなりゆったりとした作りでありロングコートの様に足元まで続いていて、その裾からチラチラとズボンが見えるものの、それもかなり余幅がある。背丈はメイトとほとんど変わらない、一七〇中盤。
「にしても熱ぃな……」
「えぇ、もう少ししたら夏が来ますからね。空調設備が恋しい」
階段を上るメイトとイオスの足が徐々に重くなっていくが、止まる訳にもいかないので歩き続ける。メイトの額に一筋の汗が流れたのを見たイオスは軍服から取り出したハンカチを差し出したが、メイトはそれを手で制す。
「せっかく良いの付いてんのに、金欠じゃぁしゃーねぇわな」
「今年度の求人は見送るらしいですよ。一五〇年前、独立軍発足際は舞うように依頼が来ていたここも、今は落ち目。少ない依頼の中でも来るのは国家が手を出さないような難易度の高いものか低いものばかり、下手な人選は出来ないときたもんです。辛い時期ですねぇ」
多少芝居掛かった大袈裟な身振りでそう言うイオス。だが話自体は決して大袈裟なものでは無いらしく、メイトも「はぁ」と溜息を吐くだけ。
「もう減給でも良いから職場の設備をだな……」
「ははは、気にしなくても今年から減給ですよ。職場の設備は変わらないですけど」
転職するべきか? と、冗談っぽく笑うメイトに、軽く突っ込みを入れてイオスは足を止めた。
「ふぅ、貴方と話していたらこの階段も早くて助かりますねぇ」
「こっちもだ」
二人は足を止め、前を向く。
階段の終わり、横幅一〇メートルはあるであろう赤い絨毯の敷かれている通路の先にあるのは、先程からの二人の話では想像もできないような……一目で高級材木と分かる威風堂々とした大きな扉が聳え立つ。
二人は話すのを止め、静かにそこを歩き扉の前へ。メイトは片手を扉に当て、軽くそこを押すと力に全く逆らう事無く、むしろ二人を歓迎する様に開いた。
「ほとんど揃っているようだな」
「ほとんど、というよりは私達が最後の様ですね」
薄暗い、大ホールのような造りの部屋。二人の先には緩やかな半円状の床に椅子が何百脚と並べられており、そこには既に軍服を纏った者達が着席していた。その前方は筒状に上下に向かう空間があり、遥か下まで続くその先には何百何千といった豆粒のように見える軍人が立っているのが分かる。少し上にいくと狭い突起のような場所があり、二人がくぐった扉と同様の高級そうな木で作られた演説台と、少数の椅子が並べられている。
「では、私はこちらなので」
「あぁ、またな」
小さな、二人の間でしか聞こえない程度の小さな声で別れを告げたイオスは右へ、メイトは左へと向かう。
椅子は余裕を持って並べられており、メイトの足が誰かにぶつかったりする様な事は無い。列の最前列にたった一つだけポツンと空いた空席、メイトはそこに座った。
コリーは……うん、分からん。メイトは少しだけ身を乗り出して下の階にいるはずのコリーの姿を探すが、何分人が多い為に誰が誰だか分からない。
多少の騒めきのあった空間は時間が経つに連れて静寂に包まれていく。いよいよとなって、完全な沈黙と化した空間に『キィィィィ……』という扉の開く音が鳴り響く。メイト達の座る階の上階からである。
同時に、数十名の物と思われる靴音がホールにいる全員の耳に届いた。
メイト達とは違う紅蓮色の軍服を身に纏い現れたのは、足音通り三一名の人間……いや、純粋な人間ばかりではない。
耳に動物の様な毛並を持ち、臀部から尻尾の垂れている者。通常の物より長く尖った耳を持つ者や。
それはメイトの周りも同じであり、歳こそはバラバラなものの普通の人間の中に上記のような人間も大量に混ざっている。
現れたその三〇人は各々予め定められているのか、すぐさま席に着き、黄土色の長髪を後ろ首の位置で縛っている四〇代中盤程の、多少顔に皺の刻まれている男が一人、演説台の前に立った。だが、その男よりも一番後ろの左端の席に座った、黄褐色の翼を持つ少女が目立つ。
一四、五に見えるが此処は軍……何故年端のいかない少女がいるのだろうか。彼女はボサボサに乱れた長い白髪、金の瞳もしており、その瞳を心の底から眠そうに微睡ませ、退屈そうに欠伸をしていおり、辛うじて眠っていない様な状態だ。彼女の臀部から生える、爬虫類の物に似た太ましい尻尾は椅子の裏でぶらぶらと力無く揺れている。
『只今から私、ガレウス・リョウ元帥の元、第一四六二回ヴァーメイルフルーツ独立軍月例総会を執り行う』
演説台に置かれたマイクから、目立たない様にホールに取り付けられている複数のスピーカーにより拡声された声がホール中に響き渡る。今まで座っていたメイト達、そして翼を持つ少女の周りの者達は一斉に立ち上がり、ガレウスの真後ろの壁に貼り付けられているエンブレムと同じ大きな旗に向かい敬礼を行う。下のホールに居る者達も同様に、位置的には死角で見えないはずだが声の方向に敬礼。
『いい、楽にしてくれて構わない』
声と揃えてメイト達は再び席に着く。意外にもメイトは面倒そうにする事無く、ガレウスに敬意を持った眼差しを向けて規則正しくそれを行っていた。イオスは何の感情も抱かずに作業としてそれを行っている様子、下の階で多くの人数の中心辺りに立っていたコリーは何を考えているのか分からなく、少女は……最前提の行為そのものを行ってはいない。
『今回の案件は、昨今の資金不足、それによる減給及び求人の見合わせに付いてだ』
……さっきイオスから聞いたな。
いくらガレウスに敬意があると言っても、話自体には興味がないらしく話が始まるや否や、メイトは瞼を閉じる。いつも通り、耳を澄ませても聞こえるか怪しい程の小さな寝息を立て始めるのには大した時間を要さなかった。