第九十六話 信心
「季苑さん!」
かつてのようにそう呼んだのは、無意識だった。
地に倒れている季苑へ慌てて駆け寄る。
凄い血の量だ。
これほどの酷い傷は見たことがない。
「…木々」
「待って、喋らないで! あなた、自分の身体を…」
「いいから聞け。お前の知りたかったことだ」
季苑は倒れたまま、目だけを木々に向ける。
木々は瀕死とは思えない気迫に負け、口を閉じた。
「薄々気付いているだろうが、二年前のあの時から隙間の神は『膿』に支配されていた…」
「………」
「隙間の神だけじゃない。この世界は裏切りと疑心で満ちている………この世界は暗い、何も信じられないことは…誰だって辛い」
初めて見る季苑の弱い部分に、木々は絶句する。
悩みがない訳ではなかった。
迷いがない訳ではなかった。
誰も信じない生き方…
それが好きだった訳でもなかった。
「『俺』は何かを敵視しなければ生きていけなかった。隙間の神の膿を敵とすることで、何とか苦痛を誤魔化してきただけだった」
境遇。
力。
組織。
悪意。
様々な物に振り回されて生きてきた男は言った。
そこに力強さなどはなく、年相応の姿がそこにあった。
「何一つ認められることなどない。お前の兄を殺したのも『俺』がただ、満足する為…お前の復讐は正当だ」
自分を殺す行為を認めるように、季苑は言った。
復讐を建前に自己満足を繰り返した男の末路だ。
復讐で終わるのも悪くない。
「…だったら、何故、幹のことを私に教えなかったの?」
知っていたら、復讐に走ることはなかった。
知っていたら、憧れの人に裏切られたと人間不信に陥ることもなかった。
知っていたら、もしかしたら…
昔みたいに一緒に…
「…お前には、変わって欲しくなかったからだ」
静かに季苑は言った。
砂染幹は変わってしまった。
鐘神季苑はもう人間を信用することは出来ない…
だが、何も知らない彼女なら、変わることはないかもしれない。
この醜い世界に気付かなければ、変わらずにいてくれるかもしれない。
「…それも、意味はなかったが」
「…あ」
季苑の言葉に木々の青い瞳を思い出した。
今の自分は何だ?
季苑に復讐する為に、訳のわからない実験で力を強化し、全てを捨て去った。
そんな変わり果てた自分を見て、季苑はどう思ったのだろう。
「あ…ああああ…」
思えば、最初に再会した時は、突き放すように、一蹴されてしまった。
あれは自分を引き返そうと思っての行動だったのか。
二度目に再会した時、自分を倒した後、殺さずに近くおいた。
それは暴走する自分に真実を隠すのは逆効果だと判断したからなのか。
私は…今まで何を…
「…気にするな…師匠というものは、勝手な期待を抱くものだ…それを守れないことに罪はない」
「…ッ!」
確かに季苑の言う通りかもしれない。
何も伝えず、勝手な期待を抱いていたのは季苑だ。
だが、初めてされた期待に、出来れば木々は答えたかった。
「…どうした? 早く殺せ。早くしないとチャンスを永久に失うぞ?」
「…殺せる訳ないじゃないですか」
「…何?」
季苑の顔に雫が落ちた。
これは…涙だ。
「あなたは復讐の対象で! 嫉妬の対象で! 憧れの対象で! とにかく、私にとって、誰よりも必要な人なんです! 死なれたら困るんですよ!」
涙を流しながら、木々は叫ぶ。
(…ああ、これだ)
季苑は思った。
この嘘偽り無い剥き出しの姿に、かつて惹かれた。
この世の全てを信じないと決めていた筈なのに、信じてみたくなった。
だからこそ、不器用なりにそれを守りたいと思ったのだ。
その時だった。
「素晴らしい! これ程、他人の心に残る死も珍しい。これぞオレの求めた悲劇です! イヒヒヒヒ!」
悪魔のような笑い声が響いた。
現れたのは黒いパーティーハットを被った、レインコートを着た少年。
かつての季苑の部下、オーミー・氷咲の外見をした『人形』だ。
一瞬、見間違えそうになったが、その歪んだ笑みを見て、別人であることが季苑には分かった。
「お前…は…」
「おっと、辛いなら喋らないで、そうですね。あなたに会った時は令宮祭月でしたっけ?」
「!」
令宮祭月。
二年前に季苑を唆した男。
恐らく、堕天使と深く関わっている男。
最悪だ。
「おっと、オレに構わず逃げろ…なんて臭い台詞は吐かせませんから」
そういう、オーミーの姿をした人形の背後から、人影が現れる。
令宮祭月。
遊悪。
ベルゼブブ。
その他、様々なデプラの犠牲となった者達…
無数の人形が二人を取り囲む。
「寂しくありませんよ。一人きりでいるのは少しの間だけですから。すぐに向こうで一緒になれます。イヒヒ!」
人形達は同時に笑みを浮かべた。
操っている人間の性格の悪さが伝わる、嫌な笑みだ。
「く、そ…」
「それでは、パーティーの…」
開催…と人形が言いかけた。
その瞬間、
巨人にでも踏みしめられたかのように、地面が陥没した。
その上に立っていた人形達も、ただではすまない。
拉げたり、潰れたり、その大半が戦闘不能となった。
「出遅れたか?」
赤い髪、赤い瞳、赤い服装をした少年が呟く。
辺りの状況を見回し、最後にオーミーの人形へ目を向けた。
「ギリギリセーフだよな?」
そう、神無棺は言った。