第八十八話 臆病者
「ここが…」
棺は建物の前に立ち、呟いた。
灰色一色の倉庫のような場所。
表向きは研究施設となっている隙間の神本部だ。
その実態は奇跡を秘匿する為に数多の聖痕使いが所属し、そして聖痕の研究も行っている組織。
更にその裏では、人間を聖痕使いに変える実験など、非人道的な研究も秘密裏に行われていた。
正直、様々な真実を知った今となっては、あまり良い印象を棺は抱けなかった。
赤い実験と言われたアレは、隙間の神の一部が暴走した結果だったのか、
それとも、組織の全てが共謀しているのか、
棺には判断できない。
だからこそ、ここへやってきた。
「…実は悪の秘密組織だったら、どうしよう…やっぱ、お兄ちゃんについてきて貰えばよかったか」
「子供ですか! それにあのお兄さんを連れて来たら問題でしょう…」
家族には甘いが、基本的に自分本意な兄(仮)を思い出す。
人に従うことも、人に従う者も嫌うあの男が組織を見て、良い印象を抱く筈がない。
そもそも、あの男は一級の犯罪者だ。
「危険人物ではねえが、厄介者ではあるな。しかも、少し世話焼きな一面もある」
「はあ、どうして私の義理の兄は皆、過保護なのでしょうか…」
もう一人の兄を思い出しながら、衣はため息をついた。
奇妙なことに、衣には血の繋がらない兄が二人も出来てしまった。
色々と事情があり、二人の仲は良くないが…
と言うか、殺しあった仲だが…
「っていうか、タウの家族の定義で言えば、オレもお前の兄になるのか?」
「…忘れているようですが、私と棺は同い年ですよ?」
「いや、外見的にお前は年下だろ? どのみち、オレ達の本当の歳なんて分からねえんだし、うん、決定だ」
「勝手に決めないで下さい…」
拗ねたように衣が言う。
それに棺は笑みを浮かべた。
最初は少し緊張していたようだが、今の会話でいい感じに解れたようだ。
「…おや、そこにいるのは」
本部に足を踏み入れようとしていた二人に声がかけられた。
調子の軽い、明るい男の声…
これは…
「散瀬…」
「いかにも、白垣散瀬な訳よ」
サンタっぽい恰好の男、白垣散瀬だった。
「…それは本当か? マモン」
「ああ、言い訳するつもりはねえが、ベルゼブブは自我を持ち、オレの手から逃げ出した」
「………」
ソロモンはタウの話を聞いて考え込んだ。
ベルゼブブをタウが勝手に持ち出し、失くしたと聞いた時、研究材料を失った怒りよりも疑問の方が先行した。
ベルゼブブは最高傑作だ。
完全とは言い難いものの、今までで一番、聖遺物を再現した個体だった。
だが、その代償に自我…いや、人としての意識を失った。
永遠に眠り続け、従順な道具となる筈だったベルゼブブが自分から逃げ出した?
正直、タウが壊してしまい、言い訳をしているようにしか思えない。
しかし、この男のことだ、壊したら壊したで堂々と告げることだろう。
「報告は以上だ。悪かったな盟友。何か頼みごとがあったら、無償で引き受けてもいいぜ」
いつもより律儀にタウは言ったが、ソロモンは聞いていなかった。
近くにあった机の引き出しを開け、中身を取り出す。
それは研究日誌のような物だった。
古ぼけたそれをパラパラとソロモンは捲る。
そして、ようやく探していた個所に辿り着いた。
「…最初の研究サンプル。コード名『全的堕落』」
悪魔の最初の基礎となった存在だ。
初代ソロモン、アイマテンソは自身の特殊な血を使い、この全的堕落を参考に、最初の悪魔を作ったらしい。
この全的堕落は後に離反し、アイマテンソと同士討ちしたと言われている。
その後、アイマテンソの特殊な血を使い、悪魔を生み出す研究は歴代ソロモンに受け継がれている訳だが…
どの資料を見ても、この『全的堕落の死体がどうなったのか記述がない』
これは…
「ソロモン様!」
ソロモンの部屋の扉が荒々しく開けられる。
慌てたように入ってきた白衣の男は、少し興奮した様子でソロモンに近づいた。
この男もインテリジェント・デザインの研究者の一人。
ソロモンの助手の一人だ。
「どうした、結果は分かったか?」
「はい! あのモヌケと言う少女の遺伝子は、アイマテンソとほぼ同じ反応を示しました! 彼女もまた、特殊な血の持ち主かと…」
「そうか」
ベルフェゴールの連れてきた者だから、また悪魔候補かと思えば、検査の際に奇妙な反応があった。
結果として、アイマテンソと血縁関係にある人物であることが分かったのだ。
アイマテンソに子供がいたとは聞いたことがないので、直接の血縁ではないかもしれないが、どのみち特殊な血筋であることに変わりはない。
彼女を調査すれば、更に奇跡に対する理解が深まるだろう。
「なる程…ね。知ってしまった訳か」
本部の近くの喫茶店で散瀬、棺、衣の三人は座っていた。
紅茶を飲みながら散瀬は顔をしかめている。
「…その口ぶりだと知っていたんですね? あの実験のこと、遊悪のこと」
衣がそう聞くと、散瀬は重いため息をついた。
「十年前…いや、九年前だったかな…探女と言う女が、一人の男を『熾天使』に推薦した。その男の名は遊悪。それ程目立つ才能のない、能天使の一人だった」
「能天使…?」
「そう、まだ聖痕装置もない当時、雑務だけを行っていた能天使の遊悪…彼は九年前、唐突にその異才を発揮し、聖痕装置を初めとした様々な技術で隙間の神に貢献した…誰もが彼を熾天使と認めた」
九年前まで非才だった遊悪。
それが熾天使になる直前になって、天才的な技術を発揮した。
それはつまり…
「九年前、『本当の遊悪』と『アイツ』はすり替わった」
信用と人望を得る為に…
遊悪とは、本来あの男の名前ではないのか…
「その通りだよ。遊悪の殻を被った『あの男』は隙間の神へ様々な技術と知識を授け、誰からも認められていた…だが、オレはアイツと会った時の感覚が忘れられない」
散瀬は無表情で言う。
棺にはそれが僅かに、震えているように見えた。
「当時、二つの聖痕を持っていることが発覚したばかりだったオレに、アイツは興味を持った…正直、怖かったよ。人間じゃない何かが自分に狙いを定めているような気分だった」
「………」
「アイツは熾天使になって好き勝手やった。数多の非人道的な実験を行った。その結果は君の知っての通りな訳よ」
あの男は秘密裏に作り出した研究所で赤い実験を行っていた。
そして、予想外に起きた棺の暴走によって研究所は崩壊…
非人道的な行いは明るみとなり、あの男は追放されることとなった。
「…つまり、今の隙間の神に非人道的な人間はいないということですか?」
自身の願望も込めた言葉を衣は言う。
それに、無念そうに散瀬は首を横に振った。
「アイツは去った。だが、アイツの部下は隙間の神に残った。そして、奴らは堕天使と名前を変え、今もどこかで実験を続けている」
「なっ!」
散瀬の言葉に衣は絶句した。
あの男は去ったが、あの男が残した負の遺産は今も残っている。
棺は睨むように散瀬を見た。
「どうしてそこまで分かっていて、何もしない?」
「…堕天使は今、熾天使よりも力をつけているから………いや、これは言い訳だね」
自嘲するような顔を散瀬はした。
何かを後悔しているようにも見えた。
「オレは勇者じゃない…臆病者な訳よ。アイツの影に怯えて逃げ出したんだ。幼馴染の子を置き去りにしてね」
救われない少女を各地で拾ったのは、罪滅ぼしだったのかもしれない。
いや、罪滅ぼしともいえない、その間も天之原天士は苦しんでいたのだから…
ただの、自己満足だ。
「…そうか」
二つも聖痕と言う希少な才能を持つには、あまりにも弱かった男を棺は責めなかった。
全く無関係の棺が口を出す問題じゃない。
人間を見捨てた人間を責めることが許されるのは、見捨てられた人間のみだ。
「さて、準備は終了した。問題はどのようにあの少女に実験に協力してもらうか」
ソロモンは機械に表示された文字を見ながら、呟いた。
ヘーレムと言う少年は強力な力を持っているようだが、モヌケには関心が薄いようだ。
取引を持ちかければ、了承してくれることだろう。
桐羽由来と言う、もう一人の少年は…どうだろうか?
交渉が上手くいかなかったら、騙すことも頭に入れておこう。
「『古着』にそんな興味を持つなんて…乞食ですか?」
慇懃無礼な声がソロモンの背後から聞こえた。
背後に立っていたのは、見覚えのある顔で…されど、見覚えのない表情をしている人物。
「ベルゼブブ…?」
「その通りだけど、残念。『中の人』は前とは別人ですよ。イヒヒ!」
ソレは嗤う。
嫌な笑みだ…とソロモンは思った。
ただ、笑みを浮かべているだけなのに、悪意が直接伝わってくる。
「自己紹介をしよう、何代目かのソロモン。オレは暴食を推奨する悪魔、ベルゼブブ。そして、全的堕落だ」