第八十六話 思惑
「………」
公園で一人、棺は呆けた顔で考えていた。
ロザリオ。
ただの人間を聖痕使い…いや、聖痕使い以上の化け物に変える実験。
その地獄での日々…
そして、全ての混乱の元凶であり、今は自分が保持している聖櫃。
様々なことが起こっている。
しかも、自分はその殆どの出来事に関わっているのだ。
もう、巻き込まれた一般人ではない。
自分が聖痕に目覚めたことも、隙間の神に接触したのも、衣と出会ったことも、様々な人間に関わることになったのも全て必然だった。
自分の全てはあの男の操り人形に過ぎなかった。
聖櫃…救世主とはどういう意味なのか、
「棺…ここにいたのですか」
「…衣か」
今、一番会いたくなかった。
謝ればいいのか、懐かしめばいいのか、何と言っていいか分からない。
あの研究所での件は誰も悪くなかった。
人間の悪意によって、引き起こされた事故だった。
「…棺、あの時私達はどうすればよかったのか…それは私も分からないけれど」
「………」
「私達は生きている。なら、進まなければならないんです。私達が生き残ったことには、何か意味がある筈だから」
衣は決意の込もった目で棺を見つめた。
そうだ。
記憶を求めていたが、過去だけに拘っていてはならない。
棺達が生きているのは今なのだ。
「立ち止まる訳にはいかない…目を逸らす訳にはいかない…か」
過去に拘るのではない。
前に進む為に、過去と向き合うのだ。
その為には…
「隙間の神、本部へ行くぞ」
棺は一つ、決意をした。
「ベルフェゴール!」
研究所の廊下、ルシファーは叫んだ。
呼び止められた相手、ベルフェゴールは不思議そうな顔でルシファーの顔を見つめる。
「どうしたの? ルシファー?」
「貴様、一体何を考えている! 聖遺物化とは何だ!」
ルシファーが幾つかの資料をベルフェゴールに叩き付ける。
それは悪魔の聖遺物化に関する資料だった。
先日、マモンと戦った時、マモンの言っていた言葉が気になったルシファーは独自に調べていたのだ。
悪魔とは何か、この研究所は本来何の為の機関なのか…
結果として分かったことは、このインテリジェント・デザインの目的は奇跡を人工的に生み出すこと。
創世、人類誕生などの『この世の神秘の全てを人間の手で行うことが出来ると証明する』と言う命題に取り付かれた集団であること。
そして、悪魔とは、その為の材料でしかないことを知った。
「ああ、アレか。マモンとソロモンが勝手にやってるやつでしょ。大丈夫だよ。それから身を守る為に僕は悪魔の証明を作ったんだ」
ベルフェゴールは笑顔で言った。
命の危険など、何もないと安心させる為に…
しかし、ルシファーは更に鋭い目でベルフェゴールを睨みつけた。
「騙されると思うか?」
「やれやれ…疑心暗鬼になっているようだね」
無理もないとベルフェゴールは思った。
自分の命が危ういというのに、人を信じられる訳がないだろう。
そんな風に困ったように笑うベルフェゴールの右腕が吹き飛んだ。
「猫被るのはよせ…『ベルゼブブを人体実験送り』にしたのは、貴様ではないか」
「………」
ベルフェゴールは答えない。
微動だにしないベルフェゴールの欠けた右腕だけが、独りでに修復されていく。
噴き出した黒い煙霧が右腕を形成し、十秒と経たずに、元の形に戻る。
それは初めて見る光景ではなかった。
何度も見てきた光景だ。
だが、今はそれがかなり異質な物に見えた。
「…必要なことだった。『ベルフェゴールの探求』には必要なことなんだ」
ベルフェゴールの探求。
それは本来、有り得ないとされる計画を皮肉る際に用いられる言葉だ。
「どういう意味だ。ベルフェゴールの探求とは何だ?」
「ベルフェゴールの探求の意味は『不可能』…口に出したところで否定される机上の空論さ」
はぐらかすように言うベルフェゴールの態度にルシファーは苛立つ。
脅すように、近くの壁を爆破した。
「さっさと答えろ、お前の目的は何だ。私達を利用して、何を企んでいる!」
「…そうだな」
感情の読めない目をルシファーに向けながら、ベルフェゴールは言った。
「ありがちな表現で言えば『不可能を可能にすること』…かな?」
「………」
丁度、同じ頃、サタンも研究所の一室にいた。
その場所は墓所。
墓所と言っても、死亡した悪魔をただ、破棄するだけの場所であり、墓石どころか、どこに誰が埋まっているのかすら分からないゴミ捨て場だった。
しかし、それでもここに眠るのはサタンと同じ、実験の犠牲になった者達である。
悪魔の中では珍しい程、仲間意識が強いサタンはここで誰とも知れぬ者に黙祷するのが、日課だった。
「………」
サタンは現在、人生最大のピンチを迎えていた。
理由は目の前にいる、この男。
「お前は…前にどこかで会ったか?」
約二メートルと言う無駄に馬鹿でかいこの赤髪の男に出会ってしまったからだ。
何でこんなとこに!…心の中でサタンは悲鳴を上げる。
サタンはこの男、タウが苦手だった。
苦手と言うか、むしろ天敵だった。
先日、ルシファーを殺しかけたこともそうだが、それ以前にもこの男が危険なところは何度も見ている。
この男は自分達を素材程度にしか見ていない。
この男とソロモンが共謀した実験で、何人の同胞が犠牲になったか…
「ここは墓か。墓参りにでも来ていたのか?」
「あ、ああ…それじゃあ、マモン。私はこれで…」
サタンはタウと目を合わさずに言い、さっさと部屋から出ようとする。
目を合わせると、悲鳴を上げてしまいそうだからだ。
「まあ、待て」
タウに肩を掴まれた。
サタンは心臓が止まるかと思った。
「ちょっと、盟友の大切な物を失くしてしまってな、少々会いづらい。少し暇つぶしに付き合え」
「………」
ギャー!…と、サタンは心中で叫んだ。
暇つぶしと言うが、言葉通りの意味とは限らない。
軽い冗談のような調子でルシファーを殺そうとした男だ。
正直、ルシファー程の実力のない、サタンでは生きていられる自身がない。
「こ、ここここここ…」
「ん? 鶏の真似か?」
奇声を上げるサタンの肩を掴んだまま、タウが首を傾げた。
サタンは軽く、涙目になりながら、肩に乗せられた手を掴んだ。
「こ、凍れぇ!」
瞬間、タウの手が凍結した。
いや、手だけに留まらない、
タウを包むように発生した霧に触れた部分から、凍りついていく。
「お? おお?」
「ど、どうだ! 私の聖痕、『接触凍結』の威力は…」
接触凍結は物体に接触した瞬間に氷に姿を変える冷水を操る力だ。
サタンに直接触れた者、霧状になった冷水に触れた者を瞬時に冷凍する。
ルシファーのような火力はないが、強力な聖痕の一つである。
だが、
「おいおい、ご挨拶だな」
突然、凍りついたタウの身体を白い炎が包み込んだ。
聖痕使いのみを燃やすその白い炎は、サタンの生み出した氷のみを焼き払い、タウには火傷一つ負わせない。
これはタウの力ではなく、ロンギヌスの力なのだが、それを知らないサタンの恐怖心は更に膨らむ。
「ヒッ!」
タウにサタンの力が効かない。
それを理解したサタンは霧で自身を包み隠す。
とにかく、逃げる時間を稼がなければならない。
墓所の出口にダッシュしようとした瞬間、サタンは何かに躓いてしまった。
慌て過ぎて、足が縺れてしまったのか…急がなければならないのに…!
そう思い、立ち上がると…目の前の地面からタウが現れた。
ホラー映画のように、ズルズルと、水中から顔を出すように…
「悪いが、オレに目くらましは効かん。同化する力の応用で、どこに生物が立っているのかは、目を閉じていても分かる」
目に付けたゴーグルを触りながら、タウは言った。
「………」
「ん?」
「…………キュウ~」
そこで、サタンの精神は許容値をを超えた。
あまりの恐怖に気絶してしまったのだ。
「………オレが悪いのか?」
首を傾げて、タウが呟いた。