第七十七話 嫉妬
「妙だな」
季苑は対峙する木々を見つめながら呟く。
目の前にいる木々は以前の木々とはどこか違っていた。
外見の変化は瞳が変色したことぐらいだが、それとは別に目に見えない変化があった。
聖痕で扉を切り裂いたことだ。
風で直接的な攻撃を行うなど、かつての木々には出来なかったこと…
これはおかしなことだ。
聖痕は本来、人間に備わっていた力ではない。
拾っただけの預かり物の力だ。
故に、努力によって成長することはない。
応用や、身体能力の向上はあるかも知れないが、聖痕自体が変化することは有り得ない。
季苑自身が強力な力を持っているのも、元からそのような聖痕だったからに過ぎない。
それなのに…
「不思議そうな顔をしているね。私が強くなったのがそんなに不満?」
「強くなったんじゃない…お前は『変わった』んだ」
これは力の増大ではない。
聖痕の根本が変化している…と聖痕使い、鐘神季苑は確信した。
明らかに普通の聖痕使いとは『異なる』
「そう変わった。私は嫉妬を推奨する悪魔となった」
「悪魔?」
「別に…コードネームみたいなものよ」
そう言って木々は軽く右手を振った。
それに合わせて部屋に巨大な傷跡が刻まれる。
「この力と一緒についてきた、つまらないおまけ」
「…逸谷、お前は邪魔だ」
それを眺めながら季苑は冷静に告げた。
季苑の傍に呆然と立っていた逸谷はその言葉で全て理解し、部屋の外へと駆け出す。
木々も季苑にしか用がないので逸谷が出ていくのを見逃した。
「部下を先に逃がすなんて変わったわね」
「本当にそうだと思うか?」
季苑が呟くと同時に部屋にあった家具が全て浮かび上がる。
いや、家具だけに留まらず、部屋自体が振動している。
「邪魔だっただけだ。俺様の聖痕の対象外である生物はいるだけで障害だからな」
「…前言撤回。やっぱりあなたは変わらないね!」
部屋の家具が木々へと襲い掛かる。
弾丸のような速度だったにも関わらず、木々はそれを全て切断して防いだ。
「私の今の下降噴流は風を起こすのみならず、大気を固めて刃を生むことも出来る!」
ヒュッと軽い音が季苑の耳に届いた。
それは、季苑の頬を見えない刃が掠めた音だった。
「鎌鼬のようにね」
木々は自慢げな顔をしながら言った。
風のように速く、鎌のように鋭く、大気のように見えない刃。
これは厄介だ…と季苑は警戒を強めた。
その様子に木々は満足そうに笑った。
「漸くこれで対等ね。今の私は、あなたと同じく触れずに人を殺すことが出来る…」
「………」
「命が軽い…これがあなたが常に感じていた感覚か…」
季苑を見つめながら木々は言った。
季苑は何も答えなかった。
「…だけど、それを理解した上であなたは許せない」
季苑にとって殺人がどれだけ軽いことかを理解した上で木々は言う。
敵意の込もった青い目で季苑を見つめる。
「…だろうな。お前にとって俺様は家族を殺した仇なのだから」
木々の気持ちが季苑にはよく分かった。
復讐。
季苑にとって、それは何よりも身近にあったものだ。
両親を殺されたことに対する復讐、失望したことに対する復讐、
そして、裏切られたことに対する復讐…
復讐に突き動かされ、今まで生きてきた。
「あなたを…殺す」
「出来るのか? 人を殺したことなど、ないのだろう?」
「問題ない。敵を倒したことは今までに沢山ある…要は手加減しなければそのまま死ぬ」
敵意を殺意に変えて、木々は季苑を睨みつける。
ナイフも持てない子供ではないのだ。
人間、ハサミを扱えるようになった時から、人を殺すことは出来るのだ。
問題はその覚悟。
「違うな、倒すことと殺すことは違う。殺すということは命を奪うということだ」
「そんなことは分かり切っている!」
家族を殺した張本人に命の大切さを教わる…
木々が逆上したのは当然だった。
だが、季苑は命の大切さを語った訳ではない。
「他人の人生を自身の目的の為に奪い取る。命を足蹴にする! 貶める! ただ自身の欲望の為に! その覚悟があるかと聞いている!」
「!」
「覚悟なければ後悔するだけだ。そうなれば身を滅ぼすだろう…それでは命を踏み台に使われた者達も浮かばれないな」
季苑は命を軽んじる。
だが、無価値なものだと思ったことはない。
自身の目的の踏み台になったと考えているのだ。
それは意味のある死だと…
傲慢にも、自分の為に犠牲になったと。
その揺るぎない自己で…
「…あなたの足下には無数の死体が転がっている…なのに、あなたは何一つ悔いないと言うの!」
「ああ、お前の兄の死にも意味があった。俺様に復讐の決意を促す必要な犠牲だった…」
言葉の途中で季苑の腕を鎌鼬が切り裂いた。
放った主の激情を表すように…
「決意は固まった。私はあなたを殺す。何の躊躇もなく、何の後悔もなく!」
鎌鼬が複数放たれる。
季苑は衝撃波を放ったが、大気を操り受け流された。
ならばと家具を操ったが、それも全て切り裂かれる。
「クッ…」
「私はあなたより強い!」
木々が勝ち誇ったように告げた。
季苑は口を歪める。
「これならどうだ?」
季苑は地面に向かって衝撃波を放った。
地面は破壊され、かけらや砂埃が巻き上げられる。
「こんなの、風を操れば…」
木々は瞬時に突風で視界をクリアにする。
季苑が目の前にナイフを持ち、迫ってきていた。
「なっ」
季苑が接近戦をするなど、予想外だった。
それ故に反応がやや遅れてしまう。
「ッ…」
ナイフは木々の腕を斬りつける。
深く斬られたのか、割と血が出ているが、その程度だ。
まずは季苑の武器を何とか…
「いや違う…!」
煙が晴れてから季苑に集中していたので気付かなかった。
木々の背後に幾つものナイフが空中で浮遊していた。
季苑がナイフを振りかぶると同時にナイフが一斉に木々へ襲い掛かる。
季苑から距離を…いや、背後のナイフを吹き飛ばして…いや、
「前!」
木々は決意をし、背後から迫るナイフを無視して、季苑に鎌鼬を放った。
「ハッ…いい覚悟だ…」
季苑は血塗れで立っていた。
肩から脇腹まで鎌鼬で切り裂かれ、更にその首筋には木々の手が添えられている。
数秒と経てずに首を両断できる位置だが、木々も無傷ではない。
捨て身の特攻の代償に、幾つものナイフが背中に刺さっている。
その痛みに顔を顰めながらも、木々は季苑を見つめた。
「油断するからよ。最初から地震でも起こして建物ごと壊せばよかったのに」
「簡単に言ってくれるな。病み上がりで行うにはあれは少々ハードだ」
季苑は苦笑した。
木々に命を握られていると言うのに、慌てる様子はなかった。
「…命乞いとかしないの?」
「ククク…して欲しいのか? 生憎、性に合わん」
「でしょうね」
木々も苦笑した。
季苑が命乞いをする姿など、想像もできない。
聖痕もそうだが、この季苑と言う人間の強いさは何より揺らがないことにあるのだから…
だからこそ、
「あなたが羨ましかった。強く迷いのないあなたに嫉妬した。初めて超えたいと思った憧れだった」
木々は言いながら、季苑の首筋から手を離した。
見逃した…訳ではない。
鎌鼬を生む為に離しただけだ。
「でも、それも終わり。これで私はあなたを…」
「俺様は屈しない」
木々の言葉を遮って、季苑は手を向けた。
衝撃波だ。
だが、今更そんなものは効かない。
木々は大気を操りながら、同時に鎌鼬を生む。
季苑は衝撃波を放った。
木々にではなく、『自分自身へ』
「なっ!」
当然、生身である季苑は衝撃で飛ばされる。
木々の鎌鼬の届かない場所まで。
「ゴホッ…意外と効くな。だが、必死になるというのも悪くない!」
季苑は血を吐きながら笑った。
季苑は強力な聖痕使いだが、身体は並の人間と変わらない。
にも関わらず、
「悪いが俺様はまだ死ねない。隙間の神を操る本当の敵を見つけ出すまでな」
「あなたは…私が殺す」
木々は再確認するように呟いた。
そうしなければ、認めてしまいそうだったからだ。
季苑には勝てないと…
「憧れとして、まだ超えられる訳にもいかねえな」
部屋中を奇怪な音が響き渡る。
季苑からだけではない。
部屋中にスピーカーを置いたかのような、
どの方向から音が聞こえるのかすらわからない。
部屋中を音が支配する。
「な、何?」
「反響って知ってるか? 音は壁にぶつかると反射する。山彦と同じ原理だ」
季苑の言葉に木々は辺りを見回した。
出入り口は一つしかない部屋。
周囲を壁に囲まれた環境。
そして、季苑の聖痕…
「全方位からの衝撃波だ。自分の目標の高さを、思い知れ」
轟音が響き渡り、木々の音は消えた。
「派手に壊しましたね…ボス」
粉々になったアジトを見て、逸谷は呟いた。
敵を倒す為とはいえ、またアジトを一つ駄目にしてしまった。
とりあえず、必要な物だけ集めて別のアジトへ向かおうと、他の部下達に指示を出す。
「ん? ボス、そいつどうするおつもりですかー?」
逸谷は季苑が襲撃者の少女を抱えているのを見て、尋ねた。
生きているようだが、そんなものを拾ってどうするつもりだろうか?
「…さあな。どうなるかは分からん」
「はぁ?」
「俺様を殺すのはこいつだ。故にここで死なせる訳にはいかん」
そういい、季苑は笑みを浮かべた。
逸谷は更に首を傾げた。
「ボスの考えることはよく分かりませんー」
「それに、これはエゴだが…」
季苑は気絶している木々の顔を見下ろした。
「こいつにも真実を知る権利があると俺様は思っている」