第五十九話 開戦
「…何だ?」
午後の授業の予鈴がなり、屋上から降りてきた棺は異変に気付いた。
人がいない。
予鈴がなったと言うのに、教室に一人も生徒が残っていなかった。
「これはまさか!」
衣がハッとして言った。
「ああ、見慣れない連中が町にやって来ている…多分始まったのであるよ…」
レイヴが窓から外を眺めながら呟く。
景色だけではなく、何かしらの力で探知しているのだろう。
「大きな大きな戦いが」
「探知機によると、敵の大多数は東西南北に配置した座天使と交戦中。だけど、バラバラの敵が少しと、三十人程の軍団が町に侵入しているようだよ」
色雨が探知機を見ながら支部に集まっている隙間の神に言う。
「軍団が本命でそれ以外は陽動。町に侵入した少数派は偶然侵入したに過ぎないのだろう…町の人間の避難の方は?」
「ギリギリでしたが、敵との接触はなかったようで、無事避難しました」
天士の言葉に祭月は機械を弄りながら返事をした。
「よし、なら本命と思われる軍団の位置に残していた座天使を向かわせよう」
天士はそう言うと、別の場所に待機していた座天使に軍団の位置情報を送る。
「バラバラの方の敵はどうしますか?」
「私が行くよ。巻き込んでしまうとしても、衣達を出来るだけ危険な目には合わせたくない」
祭月の言葉に色雨が立ち上がった。
「気持ちは分かりますが、江枕氏一人では…」
「敵のボスはどこにいると思う?」
祭月が色雨を説得しようとした言葉を今まで黙って座っていた木々が遮る。
「ボス? そりゃあ軍団の中でしょう。ボスが陽動になる訳がない」
「分かったありがとう!」
それだけ言うと木々は支部から出ていった。
「なっ、まさか、軍団に一人で向かったのかね? まずいぞ、別動隊、急いで軍団に向かえ!」
それを見て、慌てて天士が先程位置情報を送った別動隊に連絡を取る。
「はぁ、やれやれ、どいつもこいつも。裏方の身にもなってみて下さいよ」
それぞれが勝手なことを言い出す中、祭月はため息をつき、
「……もしもし、令宮祭月です。ちょっと、頼みたいことがあるのですが…」
助力を期待できる人間に連絡を取った。
『砂染木々さんです。ほらこの間会ったでしょう? あの子はピンチなんです。お願いできませんか?』
「分かった。どのみちもうオレは一般人じゃねえからなあ」
祭月から連絡を受けていたのは棺だった。
そして、一度しか会ったことはないとはいえ、根はお人好しな棺が木々を見殺しに出来るはずもない。
祭月もそれを見越して棺に連絡したのだ。
「って言うか、助力に向かうのはいいんだけどさ、何でオレの携帯の番号を知ってるんだ?」
『それは祭月クオリティです…それでは、よろしくお願いいたします』
「はあ?」
棺は詳しい話を聞こうとしたが、祭月はその前に電話を切ってしまった。
「…まあいいか、それじゃあ行くぞ。柄じゃねえが、悪者退治と行こうぜ」
「了解です!」
「了解である」
「はーい、お分かりいただけたかなー? オレの薬剤耐性は触れた人間を病死させる。そして、お前はオレに触れた」
周囲に死体が転がる中、逸谷不戒が笑顔で目の前にいる男に言った。
「…オレは…オレは…死ぬのか?」
「いや? お前の頑張り次第では、助けてやってもいいぜー?」
青ざめた顔をした男に逸谷は変わらず笑顔で言う。
「…何をさせる気だ」
「ボスの道案内は足りてるから、お前にはちょっとした『遊び』をしてもらおうかなー?」
「遊び?」
男は首を傾げる。
勿論、男にとって楽しい遊びでないことは確かだが、逸谷が何を考えているのか男には分からない。
「そう遊びだ。誰だって、一度はしたことのある『鬼ごっこ』だ。お前は鬼役で隙間の神の連中にタッチすればいいだけ。十人タッチしたら解放してやるよ」
「……!」
男は最初その遊びの意図が分からなかったが、すぐに思い出してしまった。
逸谷不戒の聖痕の性質を。
逸谷が触れた人間に病毒は感染し、更に感染者が触れた人間にも伝染する。
つまり、十人にタッチとは自分の命の為に十人を殺せと言っているのだ。
「あ、ちなみに、タッチされた奴も鬼役になるから、十人のノルマは伝えておいてくれ」
「…お前、それでも人間なのか!」
「ああ。分類上は人類だ。自分でも生まれてくる区分を間違えたと思ってるぜ」
怒りに身を震わせる男に逸谷は平然と言った。
平凡な外見故に中身の異常が際立つ。
「たっく、何だよ。せっかく珍しく、このオレが見逃してやるって、言ってるのに……ん?」
逸谷が言った瞬間、乾いた音が辺りに響いた。
それが銃声だと気付き、辺りを見回すと逸谷は見覚えのある顔を見つけた。
「非道な行いはそれまでにしてもらおうか」
江枕色雨だった。
手にはウリエルとは違い、拳銃のような聖痕装置を握っている。
「…お前かよ。ちょうどいいぜ、おい、鬼さん。獲物が現れたぜ…って、何寝てんだよ」
逸谷が男を利用しようと振り向くと男は地面に伏していた。
「今回の聖痕装置は麻酔銃なんだよ。その男には眠ってもらった」
「素直に殺せばいいのに、優しいねー…ハンッ、なら人質として使わせてもらおうか。こいつの命が惜しければ攻撃するな」
「…小賢しいお前のことだから、そう来ると思った。では、私が人質の命など、気にせずに攻撃したらどうする?」
「人質を殺す」
「出来ないよ。お前にとって人質は一人。敵地のど真ん中で『触れた人間を殺す程度の力しか』持たないお前が人質もなしに行動できる訳がない」
「…何だと?」
「お前は殺すことに慣れているが、殺されることに慣れてはいない。聖痕も持たない弱者を狩るのと、聖痕使い同士の戦いは違う」
色雨はそう言うと、拳銃を握っていない方の腕を逸谷に向ける。
「命を狙われる気分と言うものを、たまには味わってみろ」
「いよいよだ。いよいよ、俺様の復讐が始まる」
鐘神季苑は町を散歩するような気軽さで歩いていた。
手には隙間の神の一人から奪い取った地図を表示する聖痕装置がある。
「この場所に、この支部にあいつがいる…まあ、急ぐこともないだろう。楽しみは後回しにする方がより楽しくなるものだ」
「…見つけた!」
物思いに耽りながら歩く季苑の背後からそう声がかけられた。
支部から一人単独で軍団へ向かった砂染木々だ。
「お前、まさか木々か? 懐かしいな、俺様が隙間の神にいた時以来か?」
「やっぱり生きていたのね…鐘神季苑」
「ククク…俺様があんな雑魚共に殺される訳ねえだろーが」
そう言うと、季苑は馬鹿にするように笑った。
木々の方はそれによって表情が更に固くなった。
「ねえ、その雑魚の中には『あなたを殺そうとした私の兄』も含まれるの?」
感情を押し殺した表情で木々は言った。
しかし、季苑はそれを鼻で笑った。
「当然だろ。だから『返り討ちにしてやった』んだ、お前の兄を」
「…私は絶対にあなたを許さない!」
「月並みな物言いだな……聞き飽きている」
木々の激情に応えるように木々を中心にして風が吹き荒れる。
その風によって吹き飛ばされた物は虚空で静止し、季苑の周囲に浮いている。
「一つ良いニュースを教えてやろう。俺様も聖痕装置を奪い取って見てから気付いたんだが、この場に表示されている軍団は誤りだ。ここにいるのは俺様一人」
季苑が聖痕装置を眺めながら言った。
木々も疑問に思っていたことだった。
三十人程度の軍団がここにいると探知機には表示されていたのに、この場にいるのは季苑一人だった。
物陰に伏兵が隠れているのかと思っていたが、季苑はそれを否定した。
「どうやら『俺様の聖痕の影響が高過ぎて三十人分とカウントされたらしい』…機械ばかりに頼るのも考えものだな」
「………」
木々は思考が停止した。
探知機は優秀だ。
誤作動など、中々起こすことはない。
と言うことは、季苑の言うことが真実だと言うことになる。
つまり、
自分から今から一人で敵対する相手は並の聖痕使い、三十人分の奇跡を自在に引き起こせる相手だと言うことだ。
「安心しただろ? 後ろからの伏兵を心配することはない。目の前の俺様に集中する『だけ』で良いんだからな」