第五十三話 五年前の事件
「…やれやれ。空気の読めない発言でしたね」
病院を出た祭月は呟いた。
五年前の事件。
江枕衣にとってはトラウマになっている事件。
それについて今更思い出させたのは流石にまずかったと祭月は思う。
だが、祭月もただ好奇心で尋ねたのではなかった。
「…江枕氏にも言うべきですか…私、血を見るのは嫌いですし」
「………」
棺はぼんやりと窓の外を見ながら先程のことを思い出した。
祭月に言われた言葉に衣は動揺し、レイヴは棺と濁里と祭月に部屋を出るように言った。
女同士の方が落ち着かせ易いのだろう…と棺は思っていた。
濁里と祭月は既に帰っていった。
棺だけは廊下で衣が落ち着くのを待っていた。
「五年前の事件か…」
この町で起きた事件らしいが棺の記憶にはない。
恐らく、聖痕絡みの事件だった為に隙間の神によって秘匿されたのだろう。
棺の記憶にはないその事件によって衣は保護者を失ったらしい。
保護者…と言う言い方を祭月がしていた為に、父親なのか母親なのかも分からないが、大切な家族だったのは衣の様子でわかった。
「…棺」
棺がそう考えていると、病室の扉が開き、衣が声をかけた。
「棺に話しておきたいことがあります。少し外に行きませんか?」
「もう大丈夫なのか?」
「ええ、まあ…」
二人は病院の屋上へと来ていた。
広い屋上を見渡して衣が薄く笑った。
「誰もいないようでよかったです」
衣はすぐに本題に入らず、いつもとは違う儚げな笑顔で屋上から見える景色をしばらく眺めていた。
棺も催促するようなことはせず、黙ってそれを見守っていた。
「棺…」
「何だ?」
いつもの元気が失われた目で衣は棺を見つめた。
棺は出来るだけいつもの調子で言葉を返した。
「私には…名前がないんですよ」
そう衣は言った。
(重い過去を衣は持っていそうだったである…)
名残と二人きりになった病室でレイヴは思う。
自分もそれなりに暗い過去があるからこそ、衣にも暗い過去があると分かる。
動揺した衣をレイヴは必死に落ち着かせようとした。
会話出来る程度に落ち着かせることはできたが、それは鎮静剤を打つようなもの…レイヴには衣の傷は癒せない。
「大丈夫…かな?」
不安げに名残がレイヴを見て言った。
「大丈夫であるよ。棺はなんと言っても私の親友であるのだから」
暴走した一件がなければここまでの信頼は棺に抱かなかっただろう…とレイヴは思う。
前も親しかったが、あくまで日常の中の友人であり、悩みを打ち明けたり、衣の傷を任せたりはしなかっただろう。
あの一件を終えて棺とは親友になったのだ。
拒絶されるのを恐れて正体を隠していた自分の悩みを晴らしてくれた瞬間から…
(棺なら…)
「名前がない? 一体どういう意味だ?」
衣の言葉に棺は首を傾げていた。
名前がない。
では、棺の目の前にいる少女は誰なのか?
江枕衣だろう。
「私には本当の名前がないんです。隙間の神に拾われた孤児なんです」
「孤児…お前も…」
「江枕、この名字は兄さんに貰いました。衣、この名前は柔木理念と言う人に拾われた時に貰いました」
『柔木理念』と言う名前を呼ぶ時に衣は少し悲しげな表情をしていた。
恐らく、その人物が衣の失った家族なのだろう。
「柔木理念さんは身寄りのなかった私にとって、姉であり、母であり、唯一無二の親友でした…」
屋上へ来てからずっと悲しげな表情だった衣が穏やかな顔をした。
「そして、兄さんの恋人でした」
衣は五年前の出来事を語り出した。
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五年前のある日、隙間の神第185支部には、三人の聖痕使いがいた。
「それで、色雨は紅茶と珈琲はどちらが好きだったかしら?」
一人は自然な茶髪と人畜無害な顔が特徴的である女『柔木理念』
「どっちかって言うと珈琲かな? まあ、どちらも好きだが…」
一人は男にしては長めの髪を一括りに纏め、現在よりも勝ち気な目が特徴的である少年『江枕色雨』
「私は紅茶。砂糖多めにしてね」
一人は柔らかそうな栗色の髪をした優しそうな目をした少女『衣』
支部の『権天使』である柔木理念に、その見習い隊士である江枕色雨、そして数年前に柔木理念に引き取られた衣。
柔木理念は少し前からこの支部の『権天使』として働いており、聖痕使いであることに偶然気付いた衣を保護したのは数年前だ。
その後、江枕色雨と言う少年が隙間の神に気付き、自分を売り込んできたのだ。
聖痕使いであることから、理念は支部で見習いとして働かせている。
支部には他にも隙間の神がいるのだが、今はこの二人以外の隙間の神は丁度本部に行っていて誰もいない。
新型聖痕装置の動作テストらしい。
(…ハッ! ここはそっと私が退出すれば二人きりにしてあげられるのでは!)
衣は紅茶を飲んでから顔を上げた。
色雨と理念の二人が相思相愛なのは衣の目から見ても明らかだった。
正式に恋人同士になっているのか、どうかは不明だったが、衣は空気を読んで退出するつもりだ。
自分の姉兼親友である理念を誰かに取られるのは少し寂しかったが、相手は自分が兄のように慕っている色雨なので、二人が幸せになるのは衣も嬉しかった。
(よし!)
決断し、衣が口を開こうとした瞬間、
「師匠ー! ここにいたのですかー!」
セーラー服を着た少女が支部に駆け込んできた。
「…扉は静かに開けろよ。あと、いい加減に師匠はやめろ、炬深」
「学校が終わりました! ご指導よろしくお願いします師匠!」
「聞いてねーし」
セーラー服を着た少女『繰上炬深は色雨の言葉に聞く耳持たなかった。
彼女は隙間の神に入る以前からの色雨の友人らしく、色雨が隙間の神に入ってからは自分も入ると言って聞かなかった。
しかし、聖痕使いである色雨とは違い、聖痕を持っていなかった為に色雨に弟子入りして聖痕以外の戦闘手段を学んでいた。
「炬深、前々から言ってると思うが、オレの聖痕以外の武術は護身術だ。教わったところで隙間の神で戦うことは出来ねえぞ」
色雨は聖痕以外にも武術を身に付けていたが、それはあくまで聖痕と共に使って違法聖痕使いを倒す為のものであり、武術のみで聖痕を使う違法聖痕使いを倒せるとは思っていなかった。
「それでも、私の師匠は色雨師匠のみです! 貴方の武術もそうですが、『視界に入る誰もを救いたい』と言う貴方の理想に感動して私は貴方に弟子入りしたのです!」
「そんな恥ずかしいことを何度も言うなよ。全く」
色雨は疲れたようにため息をついた。
「ふふ、理想って少し子供っぽいくらい純粋な方がいいんじゃない?」
「………」
理念が色雨にそう言ったが色雨はムスッとした表情をやめなかった。
「…ん? あ、衣ちゃん。久しぶりだね?」
「あ、うん。久しぶり。炬深お姉ちゃん」
衣に気付いた炬深が声をかけて、衣が笑顔で返す。
「どう? 衣ちゃん、好きな男の子でも出来た?」
「ええ! い、いや、私はその…」
炬深の質問に衣は後退る。
「この馬鹿弟子。衣はまだ十二歳だぞ。そんなことある訳ないだろ?」
呆れたように色雨が炬深に向かって言う。
「それはどうかしら。女の子は早熟だから、もしかしたら彼氏とか…」
ニコニコと笑いながら理念が言う。
「何、そうなのか! 衣、異性に興味を持つなとは言わないが、健全な付き合いをだな…」
「…師匠、何を本気になっておられるんですか。冗談に決まっているじゃないですか?」
「え?」
「色雨さん、私は彼氏どころか男友達すらいないよ」
「と言うか師匠、過保護過ぎます」
「………」
衣と炬深の言葉に完全に凍結する色雨。
理念はそれを見ながら笑っていた。
「加えて言うと、おじさん臭い…」
「そうそう、それから色雨って頭も固くて…」
「貴様らー!」
「うわっ! 何で師匠怒ってるんですか!」
「逃げろ逃げろー!」
遂にキレた色雨が炬深と理念を追い回し、炬深と理念は慌てて逃げ出す。
「あはは…」
それを見て衣も思わず笑っていた。
楽しい一時だった。
「さてと、夜の見回りを始めるか」
数時間後、外が段々と暗くなってきた頃に色雨が理念と衣に言った。
町に異常がないか支部の人間で調査するのだ。
「師匠! 私もついて行きます!」
「お前は隙間の神ではないから駄目だ。家に帰れ」
炬深は挙手して主張したが即座に却下された。
「そんな、衣はいいのに、何で私は駄目なんですか」
「本当は衣も置いていきたいんだが…」
「嫌だ! 今日という今日は絶対に一人きりで留守番は嫌だ!」
衣はただをこねるように言った。
衣は理念と二人暮らしなので理念が見回りの日はいつも家で一人きりなのだ。
本当の両親がいない為か、やや寂しがり屋に育った衣にとってそれはとても苦痛だった。
それを見かねた理念が今日だけ衣も一緒に連れて行くように色雨に言ったのだ。
理念と同様に衣には過保護な色雨がそれを断れる訳もなく、見回りだけなら特に危険もないだろうと許可したのだった。
「それでは行くか。ついでに炬深も家へ送っていってやるよ」
「つ、ついで…」
「暗い…」
「怖くなったか? だから家で待っていた方がいいと言ったんだ」
「意地悪しないの、色雨」
炬深を家へ送った後、三人は見回りを続けた。
「家で一人きりなのも結構怖い…」
「やれやれ」
色雨はため息をついた。
「だけど、こうして三人で歩いていると私達家族みたいね」
理念が自分と色雨、衣を指差して言う。
「みたいじゃなくて、理念と衣は実際家族だろう? 娘と母親で」
「姉妹と言いなさい。私はまだ二十代よ」
色雨の言葉に少し怒りながら理念が言った。
「それじゃあ、色雨さんは私の兄さん?」
「はは…それもいいかもしれないな。オレもお前と同じで家族がいないんだよ。妹が出来るのは大歓迎だ」
衣の頭を撫でながら色雨は笑っていた。
「…色雨。それさ、言葉の意味をちゃんと理解して言ってる?」
「何だ? 何か問題があったか?」
「…まあいいわ。鈍感め」
何か言いたいことがありそうだったが、理念は黙り込んだ。
「?」
「ふぁ〜」
色雨は首を傾げて理念の言葉を考えていると、衣が欠伸をした。
まだ十二歳の衣に夜更かしは辛かったようだ。
「眠そうだな、衣。異常も無さそうだし、もう今日は引き上げるか?」
「私もそれに賛成ー。もう疲れたわー」
「私も…賛成…」
色雨の言葉に二人が同意するが、衣は既に目を閉じていた。
それに苦笑し、色雨が衣をおんぶしようと、背中を衣に向けた。
「皆さん、つれないね。夜はまだまだこれからじゃないですか」
馬鹿丁寧な声が夜闇に響き渡った。
無造作に垂らしたくすんだ金髪、右が青、左が赤の瞳をした青年が立っていた。
歳は二十代後半ぐらいで色雨達よりは年上に見えた。
「誰だ?」
「こういう者ですよ」
男が自分の右頬を軽く手で撫でた。
すると、右頬に刺青のような傷痕のようなものが浮かび上がった。
「聖痕…聖痕使いか!」
そう色雨は言ったが、男の聖痕には違和感があった。
普通の聖痕は腕に浮かび上がるが、右頬に浮かび上がっていた。
しかも、聖痕は青く光るものだが、男の聖痕は赤く光っていた。
「違法聖痕使い『遊悪』と申します」
「ッ…やっぱりそうか」
後ろの二人を気にしながら色雨が舌打ちをする。
「いやぁ、今日はいい夜ですよ。獲物は三人も手に入った。どちらから殺しますかね? やはりここは女性からですか?」
笑みを浮かながら遊悪は理念達を指差した。
色雨はこれほど悪意に満ちた笑みを初めてみた。
この男は人を笑いながら殺せる。
そう確信した。
「女性を殺す時はね。まず首を斬るのですよ。女性の断末魔の悲鳴は甲高くて耳障りですから。先に喉を潰せば、驚く程静かに女性を殺せ…」
「後ろの二人には手を出させないぞ!」
「…今、人が話している途中でしょうが、全く最近の若者は礼儀がなってないですね」
遊悪はそう言うとため息をついた。
「それで、何? 守るべき者の為にオレは戦うって? きゃあ、格好いいですね…イヒヒ!」
「テメエ…」
「怒ってるんですか? おお、怖い。怖いので、そこの二人は殺さずにあなたとは全く無関係な人を殺すとしましょう…」
「待ちやがれ!」
遊悪が色雨を挑発しながら逃げ出し、色雨もそれを追いかけていった。
「色雨! 待って!」
理念は色雨に叫んだが、色雨には届かなかった。
「色雨さんを、追いかけないと!」
「…分かった。走るわよ、衣!」
理念は衣がいることで少し迷ったが、色雨を追いかけることにした。
「…見失ったわね」
理念が覇気のない声で思わず呟いた。
衣の手を引きながら走る理念では、色雨達に追い付くことは出来なかった。
既に色雨の姿が見えなくなってからかなり時間が経っている。
(…色雨は無事かしら)
何の連絡も無いところを見ると、未だに追跡中か、もしくは交戦中か、
最悪の場合は…
「…ん。そんなことを考えてはダメね」
嫌な想像を頭を振って理念は消した。
「色雨さんは…」
「大丈夫よ、衣。すぐに帰ってくるわ。私達は色雨を信じて待っていましょう」
笑顔で衣の頭を撫でながら理念は言った。
不安だが、自分は衣の家族なのだ。
衣を不安にさせることは出来ない。
そう自分に言い聞かせ衣に笑顔を見せる理念。
色雨は敵を倒した。
だけど、携帯電話が壊れてしまい、連絡を取ることが出来ないのだ。
そんな想像を信じていた。
「何を信じて待っているのですか?」
だが、その想像はすぐに壊されてしまった。
「な…何で…」
「人間は目に見えないものを信じるものです。信頼、友情、愛情なんかを。信じるのは勝手ですよ。だけどそれは目に見える真実ですぐに覆る」
「…色雨は、色雨はどうしたの!」
「見て分かりませんか? 分かるでしょう? 目に見える真実がほぉら、こんなにたくさん…」
遊悪は自分の服に着いた赤い液体を触りながら理念に言った。
「あなたの目には見えないんですか? ほらほら赤いでしょう? まるで血のようでしょう? イヒヒヒヒヒ!」
「そんな…まさか…」
理念は絶望したような力のない言葉を言った。
それを見て更に遊悪は笑う。
楽しくて仕方がないと言うような笑みだ。
「さて、あなたは覚えていますか?」
「…何を?」
「女性の殺し方を」
「うあ…ああ…」
衣は言葉も発せずに震えていた。
周囲を埋め尽くすのは『赤』
赤い地面、赤い壁、赤い血に塗れた男。
首から血を流す理念は既に生きていない。
「思ったより手こずりましたね。そう言えば、彼女も聖痕使いでした。どうやら戦闘経験が少なかったようでしたが…」
「ああ…ああ…」
「それでは、仕上げといきますか」
遊悪はそう言うと、衣の方を向いて近付いてきた。
衣の震える足では歩くことすら出来ない。
それを見て、更に笑みを浮かべる遊悪。
その時、
「待て!」
鋭い声が投げ掛けられて遊悪は足を止めた。
「おや、意外ですね。生きてましたか」
遊悪を笑みを浮かべながら意外そうに色雨に言う。
色雨の服は赤くない所を探す方が困難なほどに血まみれであり、息も乱れ、顔色も死人のようだった。
だが、それでも色雨は殺気を込めて遊悪を睨んだ。
「答えろ! 理念を…理念をどうした!」
「どうしたって、見て分かりませんか? 全く、あなたといい、彼女といい、見てわかることを人に聞かないで下さいよ」
やれやれと呆れたように遊悪はため息をついた。
すると、急に目映い光が色雨の側に集まりだした。
「またそれですか。確か、光を屈折させて集束して放つ聖痕『光波屈折』でしたっけ? あなたによくあった単純な聖痕だと思いますが、夜に太陽は出ないんですよ」
「夜に光はないと? ハッ月の光だろうが、電灯の光だろうが、お前を殺す為に全て利用してやる」
更に集束の速度が上がる。
「…ふむ。ただ集束するだけではなく、自力で生み出すこともできるのですか」
集束された光でもう姿が見えなくなった色雨を遊悪は見つめながら言う。
「ッ!」
そして、色雨はその光を解放した。
放ったのではなく、解放してしまった。
解放された光は霧散する。
普段の色雨なら大丈夫だっただろうが、今の色雨の身体で聖痕を使うのは無理だったのだ。
「イヒヒ! 何ですか、その様! せっかく少年漫画みたいでゾクゾクしてきたのに」
「………」
不発とはいえ、聖痕を発動した反動で動けない色雨を遊悪は嘲笑う。
「ほらほらほらほら、愛しのヒロインが無惨にも虐殺されたんですよ! 悲劇を糧にパワーアップしてみて下さいよ! ほぉら、奇跡を起こして下さいよ!」
「く…そ…」
遊悪は煽るように言うが、色雨は立ち上がることすらできない。
「…駄目だこりゃ。すっかり萎えました。見逃してあげますから、せいぜいこの気まぐれと、自分の無様さに感謝して下さい」
遊悪は色雨に背を向けた。
もはや、色雨に対する興味は失せたとばかりに…
「それでは!」
殺意を覚えるほどの悪意に満ちた笑みを浮かべて遊悪は去った。
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