第四十六話 橋上にて
「ベルフェゴール…か。場を掻き乱すだけ掻き乱して帰って行きやがったな」
「結果的にはそれが良かったのかもしれないね…あの毒使いの方も現在、力天使が追っているし…」
棺のため息混じりの言葉に色雨は言う。
「ふん…それで、まだ色々とやることが残ってんじゃねえの?」
レイヴの方を見ながら棺が色雨に言う。
まだ、この騒動の始めたレイヴに対する対処を聞いていない。
逸谷やベルフェゴールのせいであやふやになっていたがレイヴが隙間の神を傷付けたことに違いはない。
「そのことか…利用されようとしていた訳だから情状酌量…だけど、聖遺物…だしな………祭月君はどう思うかな?」
聖遺物は回収。
しかし、生きていて、しかもその行動には悪意は込められていなくて…
特殊過ぎるケースに色雨が頭を悩ませて近くにいた祭月に聞く。
「私ですか? …そうですね。聖遺物として処理するなら回収して解析、もしくは封印。聖痕使いとして処理するなら今回のはギリギリセーフで拘束はなしってところでしょうかね」
隙間の神の定める法は人を傷付けることなどは勿論のこと、聖痕を秘匿しないことも重罪になる。
その点だけで言えば、聖痕使いのみを人の少ない所で狙い、必要以上に聖痕を使わなかったレイヴは罪には問われないのだ。
人を傷付けた点でも人質を取られていた(厳密には取られる前に暴走した訳だが)ことを考えればそれほど重い罪ではない。
問題はレイヴを『物』と見るか『者』と見るかだ。
色雨個人の判断としては、レイヴを者として見たいところだが、この場には祭月など別の隙間の神もいる。
「いいんじゃないですか」
それをどうするか…と色雨が悩んでいた時に祭月が呟いた。
「別に、いいんじゃないですか? そこの…レイ…?さんを拘束しなくても」
「何故?」
「放置しても危険そうには見えないですし、何より、拘束するには骨が折れそうなんでな。私が上には適当に報告しときますよ…」
欠伸をしながら祭月は色雨に言った。
善意…と言うよりはただ、単純に職務熱心ではないだけのようだ。
「では、よろしく頼むよ、祭月君」
「はいはーい、江枕氏……んん?」
祭月がそう言いかけた時にその横を小さな人影が通っていった。
「あれ? 何でレイヴさんがここにいるんですか? それに棺、さっきの黒い人は隙間の神ではなかったんですか? 色々と事情を説明して下さい!」
色雨のせいですっかり蚊帳の外にいた衣だった。
棺達に少し怒りながら説明を求めている。
「私の妹だよ。少し危なっかしい所が不安だけどね」
祭月が衣を見ているのに気付いた色雨が言う。
「んんー? どこかで見たことがあるような…」
首を傾げながら祭月は独り言のように呟く。
「衣はこの町を離れたことはないはずだけど…この町に来たことが?」
「いや、この町に来たことはないのですが…他人の空似ですかね?」
そう言うと祭月はもう興味は失ったかのように歩き出した。
「一件落着か…」
「そうであるな…一先ず、私はあの子の無事を確かめてくるである」
いつのまにか山羊のような角を引っ込めたレイヴが棺に言う。
「そうか、まあ、何か必要だったらオレを呼べ」
「分かったであるよ」
レイヴは棺に言うが、何故か中々病院に向かって歩き出さない。
言葉を選ぶように無言になりながら棺を見ている。
「どうした?」
「今日の出来事で、私の評価が五段階上がって友達から親友になったであるよ」
いつもとは違う穏やかな笑顔でレイヴは言って歩いていった。
「何だそりゃ…」
呆れたような顔をした後に棺も歩き出す。
「あれ? 棺もどこか行くんですか?」
それを見ていた衣が棺に聞いた。
「ちょっとな…」
衣達と別れた後に棺は川に来ていた。
この町に唯一ある川だが、流れが速く、深いことで、遊泳禁止になっており橋が先日老朽化して壊れてしまってからは近付く人はかなり減ってしまった。
だが、棺の目の前にある川には何故か元の木で出来た橋ではなく、石橋が架かっていた。
その石の手すりにベルフェゴールが座っていた。
「どう? この橋、僕が直したんだよ」
「知るか、原形留めてねえじゃねえか」
橋の上を歩きながら棺がベルフェゴールを睨む。
「僕なりのアレンジだよ。僕は水が大嫌いでね、木の橋なんて恐ろしくて渡れないよ。烏の行水…とは少し違うか」
「ふん。傷を負うのも死ぬのも怖くない…みたいな感じだったくせに水が怖いのかよ」
先程怪我を負っても顔色一つ変えずに治したことを思い出しながら言う棺。
「それは誤解だよ。僕だって死ぬのは怖い。あれは死なないのが分かっていたから冷静だっただけさ」
薄い笑みを浮かべながらベルフェゴールは言う。
「死ぬのが怖くない人間なんていない。死を恐れないと叫ぶ強者は、ただ単に死ににくくなったから、傷に恐怖を感じなくなっただけだよ。死を恐れなくなった訳ではないんだ」
死を恐れない人間はいない…繰り返してベルフェゴールは言った。
「実体験でもあったかのように話すな…」
「うん。まあ、それは置いておこう。そんなことより君は僕に聞きたいことでもあるんじゃない?」
「そうだな。なら聞くぜ。お前、何を知っていて、何をする気なんだ?」
「質問は考えてした方がいいよ。そんなの、今現在何も分かってないって言っているようなものじゃない」
ベルフェゴールが馬鹿にしたように笑う。
「質問が曖昧すぎてどう答えればいいのか分からないけど…まあ、聖遺物や聖痕を含む全ての奇跡については誰よりも詳しい自信はあるよ」
「そうか。なら教えろ」
「別に教えてもいいんだけどさ…ここは教えない方が黒幕っぽくていいかなぁ…なんて」
「そうか。ならボコる」
棺は極めて簡潔に言うと、ベルフェゴールに向かって走り出す。
「…ええー、何そのエゴイズム。ちょっとやめてよ。僕の戦闘力、兄妹の中で下から数えた方が早いんだからさ」
そう言いながら、ベルフェゴールは黒いポンチョのような服の中に両腕を隠す。
「…ッ!」
瞬時に棺は走るのをやめて後ろに下がった。
考えて動いたのではなく、ほとんど反射だった。
棺の視界に不吉な黒い物が映ったのだ。
その行動は正解だった。
棺がさっきまで立っていた場所には黒い凶器が転がっていた。
「外れちゃったか…僕は臆病者でね。こうした物を使わないと人と戦うことが出来ないんだ」
ベルフェゴールはいつのまにか両手に凶器を握り締めていた。
黒一色の短剣だ。
右手と左手に一本ずつ。
先程、棺へ投擲した物も合わせれば三本か…
「チッ」
ベルフェゴールが右手に持っていた方の短剣を棺に投擲する。
接近戦に自信がないのか、ベルフェゴールは棺を近付けないつもりだ。
「君は自分を完璧だと思うかい?」
「何?」
唐突にベルフェゴールが言った言葉に棺が足を止める。
「人間は欠陥がある。どんな優れた人間にでも人間である限り、欠陥がある……それは死ぬことだ」
「………」
「人間は死から逃れることが出来ない。その欠陥故に…だから、人間は完璧じゃないんだ」
ベルフェゴールは癒しの奇跡を持っている。
例えどんな欠損だろうが修復することがベルフェゴールには可能だろう。
だが、それ故に死に抗うことが出来ない自分の力を欠陥品だと思ってしまう。
「僕は怠惰な性格だけど、完璧主義者でね。妥協や諦めが嫌いなんだ」
「…それで? 死を超越した超人にでも進化するつもりか?」
「超人じゃない。人間を超えたい訳じゃない。アスクレーピオスのように神に嫌われる存在に『人間から外れた存在』になりたいだけなんだよ」
「…知るかよ」
どうでも良さそうに呟き、棺は再び走り出す。
接近戦に持ち込めば何とかなる。
ベルフェゴールは左手の短剣をぶらぶらと揺らしながら、それを眺めていた。
「そんなに走って落ちたらどうするの? 下は流れの速い川だ。着衣水泳したら溺れるかもよ?」
「オレは空を飛ぶことができるからな。落ちることなんて最初から考えなくていいんだよ」
「空を飛ぶ…癒しと同様にそれもまた有名な奇跡の内の一つ…だね!」
ベルフェゴールは手に残った唯一の短剣を投擲した。
狙うは、首。
「当たるかよ!」
棺はそれを頭を横に逸らすだけで躱した。
これで、ベルフェゴールに凶器はない…!
棺は速度を落とさずにベルフェゴールに接近する。
その時、
「グッ…」
鈍い痛みを感じて棺が呻くような声を上げた。
見ると、棺の脇腹に『四本目の黒い短剣』が突き刺さっていた。
懐から新たに取り出す隙は与えなかった。
最初から手に収まっていたかのように、ベルフェゴールの手に新たな短剣が出現した。
まるで、奇跡のように…
「油断は禁物だよ…まあ、ただの高校生にそれは少し厳しかったかな?」
ベルフェゴールが短剣を引き抜きながら棺に言う。
「ク…」
痛みはある。
しかし、出血も傷もない。
やはり、あの短剣も聖痕で作り出した物なのだろう。
「死にはしない。僕、殺しは苦手でね。僕の武器は痛みを与えるだけで絶対に人を死なせないんだ」
短剣を手で遊びながらベルフェゴールは脇腹を押さえながら膝をついている棺に言った。
「痛みも癒してあげるよ。ほら…」
ベルフェゴールは優しくそう言うと棺に向けて手を翳した。
自身が傷付けた人間を癒すだけだが、その仕草はまるで救世主のように神聖なものだった。
だが、
「…ふざけんな、そんな施しなんか受けるかよ!」
その翳した手を棺は掴んでやめさせた。
もう片方の手は痛む脇腹を押さえながらも、ベルフェゴールを睨み付ける。
「変わってるね、癒しを拒否すると?」
「ああ、いらねえ。癒しだとか、治してやるだとか、『余計なお世話』だって言ってるんだよ!」
棺は片腕だけでベルフェゴールを突き飛ばした。
「やれやれ、なら、もう少し痛め付けて……あれ?」
再び短剣を投擲しようとしてベルフェゴールは異変に気付いた。
『身体が浮いている』
「しまった…さっき手に触れた時に…」
「自由自在に空を飛ばせてやるよ」
立ち上がり、宙に浮いているベルフェゴールを棺は蹴飛ばした。
重さが存在しないベルフェゴールは風船のように弾かれて橋の外へふわふわと飛んでいく。
下は流れの速い川。
「ちょっ、ちょっと待ってよ棺君! さっき言ったでしょう、僕は水が嫌いなんだって! 泳げないの! 金ヅチなんだよ!」
必死に空中でもがきながらベルフェゴールが言うが、棺は表情を変えない。
「そうか。なら溺死しろ」
棺は聖痕を解除した。
「恨むよ! 絶対に化けてでるよ! 覚えてろよぉぉぉぉぉぉ……………あ」
ベルフェゴールは大声で叫びながら川の中へと沈んでいった。
「…それで? 川に突き落とされたって? 聖痕使いって言っても相手はただの高校生だろ?」
「情けないわね、お兄様…でもそんな情けない所も好きよ」
棺のいた橋からかなり離れた所にベルフェゴールは倒れていた。
何とか川から引き上げてもらったようだが、割りと長い距離を流されてしまったらしい。
「…久しぶりに死を覚悟したよ。いやホントに」
ベルフェゴールは引き上げてくれた二人の人物に顔色悪いまま言う。
「顔色悪いけど、大丈夫お兄様? 人工呼吸してあげましょうか?」
飴の包み紙のような派手で可愛らしいリボンをつけた女が言う。
このリボンの女は元々は不治の病で入院していたところをベルフェゴールに助けられ、『家族』に迎え入れられた人間で、ベルフェゴールに好意を抱いていた。
「いや、必要ないよ、アスモデウス。さっきは助けてくれてありがとう」
にこにこと笑顔を向けてくるリボンの女、アスモデウスに少し辟易しながらベルフェゴールが言う。
「いえいえ、好きな人に尽くすのを辛いと思う女はいないわ」
「んなことはどーでもいいんだよ! 問題はこのバカ兄貴が、隙間の…なんとかですらねえ奴に負けたってことだろ!」
アスモデウスを押し退けて乱暴な口調の十代後半くらいの少女が言う。
服を破ったような露出度の高いが色気のない服を着ている。
「サタン。君は落ち着きが足りない。勝敗に拘るなんてゲームの世界の話だ。現実では生きていれば負けたっていいんだ」
「死にかけたくせに…」
「うっ…」
サタンの鋭い一言がベルフェゴールに突き刺さった。
だが、何とか気を取り直してサタンの小さな頭に手を乗せる。
「相変わらず心配性だな、サタンは。大丈夫、僕は死なない。前にそう約束したからね」
「し、心配してねえよ! 雑魚兄貴! 弱いんだから私を頼れって言ってんだよバカ!」
「ざ、雑魚…」
赤面しながらサタンが叫んだ言葉にベルフェゴールがまた傷つく。
「まあ、お兄様は家でワーストツーよね…一番古株だけど」
「………もういいや。もう研究所に帰ろう」
アスモデウスの言葉に更に傷つきながら、ベルフェゴールが言った。
悪魔の偽名を持つ三人の聖痕使い。
年齢、性別など外見はバラバラの、この三人には共通点があった。
それは三人共に『瞳が青い』ことだった。