第百十二話 望み
道を間違えたのはいつからだっただろうか…
「………」
その男は世界に希望はないと思った。
中世のフランス、周りから侯爵と呼ばれたその男は、愛情と言うモノを知らなかった。
物心つく前に流行病で家族を全て失くし、自分の周りに残ったのは自分の『侯爵』と言う地位に群がる蠅のみ。
蠅に愛情を抱くことなど、誰が出来ようか…
「…フン」
そして、今日、神が自分を愛していないことを知った。
自分の家族を殺した流行病。
それに自分も冒されていることが分かったのだ。
フランソワと言う人間はもうすぐ死ぬ。
その死体には、さぞ沢山の蠅が集ることだろう。
「………」
絶望はない。
そもそも希望など持ち合わせていない。
この世に期待など、初めからしていない。
ここにいるのは『侯爵』と言う人形だ。
誰もフランソワと言う人格は必要としていない。
故にフランソワも心を持たなかった。
「あの…そこの…貴族様?」
自分の屋敷に帰る途中、声をかけられた。
貧しい恰好の少女だ。
だが、どこか不思議な雰囲気を持つ少女だった。
「何だ?」
フランソワは物乞いに見える少女の言葉に答えた。
少女は迷っているかのように口を閉じると、フランソワの手を握った。
「物乞いか? 別にあげてもいいが、僕には触れない方が良いよ」
流行病を患っているのだ。
物乞いの少女とはいえ、他人も巻き込むのは気が引ける。
そう思って、眺めていると、少女の手が青く光った。
「…! 君、まさか魔女…!」
「違いますけど…似たようなものです」
少女は少し傷付いたような顔をしてから、手を放した。
自分の手を庇うように、少女から距離を取った所で、フランソワは気付いた。
ここ数日悪かった自分の体調が良くなっていることに…
まさか、この少女が…
「病は治っていると思います…それじゃ、私はこれで」
そういうと呆然としているフランソワを余所に、少女は逃げるように、その場を去ろうとした。
フランソワは慌てて、その少女に叫んだ。
「待ってくれ、君の名前を教えてくれ!」
その言葉に、魔女と罵倒される思っていた少女は首を傾げながら呟いた。
「…セレナ」
「フランソワ様! お食事の用意が出来ました!」
「…ああ、そうか。ありがとう」
明るいセレナの言葉に、フランソワは笑みを浮かべて言った。
セレナは以前のような物乞いような服ではなく、清潔な使用人の服を着ている。
セレナに出会った後、フランソワはセレナを屋敷へ招いた。
命を救ってくれたセレナに使用人としての職を与えたのだ。
セレナは最後まで魔女ととして告発されることを恐れていたようだったが、恩人にそんなことをする筈がない。
余程、ここに来るまで酷い目に遭ってきたのだろう。
「それでは、私は屋敷の掃除に取り掛かりますね」
「頼む。今日は掃除が終わったら、後は好きにしていいよ」
「はい!」
元気に返事をしながら、セレナは去って行った。
結局、彼女のあの奇跡が何なのかはフランソワには分からない。
奇跡なのか、魔法なのか、
だが、そんなことは些細なことだ。
彼女は僕を救ってくれた。
それだけで、十分だ。
「こ、こんな高価な物、頂けませんよ…」
「物の価値なんか人それぞれだ。君がそれを気に入ったなら、君が持っていた方が良いだろう」
「で、でも…」
困惑したようにセレナは言う。
その手には見事な髪飾りが握られていた。
服は与えたが、装飾品一つ身に着けようとしないセレナにフランソワが与えたのだ。
女性なのだから、少しは着飾ることを覚えておいた方がいいだろう。
「私…何もフランソワ様へお返しできていないし…」
謙虚な彼女らしい言葉だった。
お返しできていない?
馬鹿なこと言う。
君には、今までの人生で一度も得られなかった物を貰った。
「対価を求めている訳じゃない。これはただの好意だ。好意は素直に受け取るべきだよ?」
「…分かりました。なら、私もいつか同じくらいの好意を返そうと思います!」
そう気負う必要はないのだけど…
フランソワは心の中で呟いた。
実直と言うか、愚直と言うか、
とにかく、濁りのない少女だ。
「…まあ、そこが好ましいのだけどね」
「…ん? フランソワ様、何か仰られましたか?」
呟いた言葉はセレナには届いていないようだった。
「私は生まれつき、よく分からない力を持っていました…そのせいで、色々な人に憎まれてきました」
「………」
「だけど、フランソワ様は私を受け入れてくれました。だから、私は幸せです!」
フランソワは目の前で笑う少女を見つめる。
フランソワを救った力、
あれがこの時代、受け入れられる筈がない。
この少女は、常に魔女と蔑まれてきたのだろう。
誰も信用できず、たった一人で生きてきたのだろう…
「…僕も同じだ」
思わず、フランソワは呟く。
「表に出していなかっただけで、周りの人間は皆、僕を疎ましく思っていた。周りに人はいたが、僕もずっと一人だった」
だからかもしれない。
だから、自分を救ってくれた彼女に惹かれたのかもしれない。
…ああ、そうか。
これが愛情と言うものか…
「フランソワ様、今日は屋敷にいてはなりません」
その日、フランソワの部屋を訪れたセレナは真剣な顔で言った。
初めて見る程、真剣なその表情に、フランソワは首を傾げる。
「どうした? 占いと言うやつか?」
「…ええ、そうです。今日、外出すると幸福が訪れます」
セレナは少し暗い顔をした。
どうしたのだろうか?
そういえば、最近どこか元気がなかった気がする。
「どのみち、少し外に用事があったから出かけるが…セレナはどうする?」
「…私は、屋敷に残ります」
「そうか…」
セレナの様子に違和感を感じたが、フランソワは気付かない振りをして部屋を出た。
気になるが、時期が来ればセレナ自身が教えてくれるだろう。
話したくないことを、無理矢理聞くのは気が進まない。
「行ってらっしゃいませ」
そう声をかけるセレナの顔は悲しい笑みを浮かべていたが、背を向けたフランソワは気付かなかった。
「………」
用事が終わり、もうじき日が暮れるという時刻。
フランソワは屋敷へと向かっていた。
何か胸騒ぎがする。
朝のセレナの様子も気になる。
何か、取り返しのつかないことが起こっているかのような…
その悪い予感は…
「………………………………」
屋敷を見て、確信に変わった。
屋敷が燃えている。
フランソワの屋敷が燃えている。
何故?
フランソワの地位や財産を妬む者の仕業か?
セレナの力に気付いた教会の仕業か?
待て、そんなことはどうでもいい。
あんな屋敷など、蠅が群がるだけの財産など、どうでもいい。
そんなことより、何より、
あの屋敷には、セレナが…
「おい、冗談だろ? 君は僕を救う力を持っていたんじゃ…」
そこまで言って気付いた。
朝のセレナの言葉、
外出しろと言うセレナの言葉。
アレは、屋敷から離れろと言う意味だったのではないか?
彼女はこのことを予期していたのではないか?
「そんな馬鹿な…有り得ない、有り得ない! 僕だけを逃がして、自分は屋敷に残るなど…!」
だが、彼女はそういう人間だった。
魔女と蔑まれても、他人を救わずにはいられない心優しい少女。
僕はまた、彼女に救われたのか…
僕はまた、救われるだけだったのか…
「ああああああああああああああああああああああああああ!」
その後、あの放火はセレナを狙ったものだったことを知った。
どこかでセレナの力を目撃した者が、正義の味方にでもなったつもりで魔女を焼き殺そうとしたようだ。
セレナはそれを知り、自身が死ななければ僕が助からないと思い、自らを犠牲にした。
「………」
焼け落ちた屋敷の中から、セレナの遺体を見つけた。
綺麗だったその顔は焼け焦げ、直視できない程、酷い物だった。
「………………」
後悔と絶望に包まれていると、その死体の傍に小さな箱があることに気付いた。
あの炎の中にあったにも関わらず、焦げ一つもついていない藍色の箱。
「………………………」
それに触れた時、フランソワは全てを悟った。
セレナが救世主と呼ばれる存在であることを…
それによって世界のシナリオを知り、僕を助ける為だけに未来に挑んでいたことを…
「………………………………イヒ」
つまり、こういうことだ。
僕とセレナが出会ったことも、
セレナがこんなにも無残に死んだことも、
全てこいつが元凶。
「……………イヒヒヒ」
シナリオを見る限り、奴はやがて、世界へ君臨しようとしているようだ。
このままでは世界が滅びる。
「…イヒヒヒヒヒヒヒヒ」
ならば、そのシナリオを崩してやればいい。
この世界の未来を変えることで世界を救う。
未来に挑んだ彼女のように、僕は未来へ挑む。
それこそが、僕が生き残った意味。
セレナが死んだ理由。
「…僕は君の死を無駄にはしない。絶対に」
フランソワは、嗤った。
「団結する? 未来を教える? そんなことで人は変わらない。人を変えるのは悲劇。それによる後悔と絶望だ」
セレナの死が自分がここまで影響を与えたように、
人の死は、重い。
世界を揺るがす悲劇で世界を変える。
「絶対に、未来を変えてやる。神なんかに支配されない」
「規模のデカイ悲劇だ。これで世界は大きく変わった。だが、まだだ。まだ足りない」
「より残酷で、より凄惨な悲劇を起こす。それによって世界を変える」
「素晴らしい、最高の悲劇だ。これは影響力も期待できそうです」
「イヒヒヒヒ、気分が良い! 正に悲劇!」
「もっともっと、極上の悲劇を味わせて下さいよ!」
悲劇を楽しむようになったのはいつからだっただろうか?
手段と目的が入れ替わったのはいつからだっただろうか?
道を間違えたのは…いつからだっただろうか?
どうして忘れてしまった?
どこから間違えてしまった?
未来に挑んだんだ。
神に挑んだんだ。
僕は確かに、世界を救う為に戦っていたんだ。
崩壊を続けるフランソワは、虚空へと手を伸ばした。
何かを求めるように、虚空を見つめる。
ぼんやりと見えた少女の幻覚は、悲しげな顔をしていた。
「………………………………………セレ、ナ…」
僕は君のように…
最期にそう呟き、フランソワと言う人間は消滅した。