第百九話 小さな神格
砕けた聖櫃の欠片が融解し、変貌する。
片手で持てる程度のサイズだった塊が、膨張し、巨大化する。
粘り気の強い、藍色の液体。
それが空中で集まり、更に膨張する。
夜空から星が消える。
暗い空に浮かぶ月は、青白く光っていた。
異様な光景だ。
世界の変革を感じさせる、異常な光景。
「答えろ! 何が起こっている! 聖櫃とは何だ!」
変質した世界を見ながら、ヘーレムは叫んだ。
アレはただの聖遺物などではない。
世界にこれ程影響を与えるなど、有り得ない。
「イヒヒ…予定通りだ。藍摩天鼠と神無棺がぶつかり、奇跡が消費されたことが『決定打』となった…」
ヘーレムなど、見えていないかのようにフランソワは一人呟く。
その機嫌は最高だ。
これ程、気分が良いのは数百年ぶり…
「このオレから始まった『イレギュラー』は、遂に世界を揺るがすに至った…これが最後の仕上げです」
「待て!」
ヘーレムに目もくれず、歩き出したフランソワへとヘーレムは攻撃を放つ。
行かせてはならない。
そんな予感がヘーレムを襲う。
「…邪魔ですよ」
だが、ヘーレムの放った全ての攻撃は、フランソワの青い翅によってあっさりと薙ぎ払われた。
信じられない。
今まで足止めしていた攻撃よりも更に苛烈だった筈だ。
どうして、突然効かなくなった?
「言ったでしょ? あの二人を戦わせる必要があったのですよ…手加減してたことにまだ気付かないのですか?」
「ッ!」
瞬間、青い翅がヘーレムを襲った…
「聖櫃が…変形した?」
膨張し続ける聖櫃を前に、棺は呟いた。
状況が理解できない。
アレは何だ?
聖痕使い、人造聖痕使い、聖遺物、悪魔…様々な者達に出会ったが、そのどれともアレは違う。
異質だ。
生物…と言う定義すら正しくない、膨大な奇跡の塊。
「棺、大丈夫ですか!」
状況が飲み込めない棺の下へ、周囲で苦しんでいた者達が集まる。
どうやら、天鼠の力は解除されたようだ。
「ああ、別に近くにいても、気分が悪くなったりはしねえけど…」
「違います、傷のことです!」
駆け寄った衣に言われ、棺は思い出した。
そういえば天鼠に刺されたのだった。
何故、忘れていた?
何故、痛みを感じないんだ?
「…どうやら、アレが治してくれたようだな」
「タウ…どういう意味だ?」
棺が聞いた。
どうしてアレが棺の傷を癒す必要がある?
そもそも、アレは意志を持っているのか?
「僕を殺させる為だよ…」
力のない声が聞こえた。
藍摩天鼠だ。
先程まで圧倒的な力を振るっていた天鼠は、全身を修復し続けることで、辛うじて生きている状態だった。
「君の味方を聖櫃がしたのは、僕から聖櫃を引きはがす為…同様に僕に聖櫃が力を貸したのは、君から聖櫃を引きはがす為…」
「アレに意志があるのか…!」
「あるさ。少なくとも、これ以上人間如きに使われるのは我慢ならないって、思いなら十分に伝わってくる」
聖櫃は膨張を続ける。
その姿は何故か、怒っているように天鼠には見えた。
「…チッ、フランソワめ、僕を利用したな」
自分より遥かに聖櫃を理解しているあの男が、このことを知らなかった筈はない。
聖櫃に意志があったなんて…
これで計画は失敗じゃないか…
天鼠は苛立ちながら、舌打ちをした。
その時、聖櫃が一際大きく膨張し、大きな音を発てて弾けた。
それはまるで、心臓の鼓動のようだった。
「…?」
融解し、藍色の液体となった聖櫃が弾けた後、そこには何もなかった。
てっきり異形の怪物でも現れると思っていた棺は拍子抜けする。
(…いや、違う)
棺は気付いた。
違う、その場に収束された奇跡は変わらず、そこに存在する。
聖痕とか、聖遺物とか、比べ物にならないレベルの奇跡の塊は確かにそこにある。
それは運命や因果と同じ、
ただ、人の目には見えないだけだ。
「………いる」
色はない。
形はない。
尋常じゃない存在感を持つのに、可視的な形では存在しないと言う矛盾。
その違和感が、ソレがいる場所を教えてくれる。
ソレが動く。
見えない為に、移動したという事実しか分からない。
ただ、その存在感は変わらない位置にあるので、大した動作ではなかったのだろう。
それだけで、大地が揺れた。
「なっ…!」
あまりに自然に、あまりに唐突に、
天変地異が起こった。
棺達は思わず、大地に倒れる。
恐らく、これはこの島限定ではない。
同時刻に、世界中でこの地震が起こっていると棺は確信した。
まるで神のように無慈悲に、まるで悪魔のように身勝手に…
「マジかよ…とんでもないな、正しく奇跡ってか?」
タウがふざけたように言う。
タウの言う通りだ。
これは奇跡。
目に見える異能ではなく、本来の不可視的な現象。
世界の全てに影響を与える程の力。
人間とか、聖痕使いとか、そういう『個人』が敵う相手じゃない天災。
「………?」
その時、棺は首を傾げた。
再び天変地異を起こすことを警戒し、ソレから目を離さなかったからこそ、気付くことが出来た。
神のようなソレは、何故か固まったまま動かなくなった。
いや、微かに動いているように感じられるが、脅威を感じられない。
まるで、苦しんでいるかのような…
「イヒヒヒヒヒヒー! 苦しいですか? そうでしょうそうでしょう、人間で言う所の酸素がない星に来てしまったような状態ですからね!」
「フランソワ…!」
笑いながら現れたその人物の名を棺は叫ぶ。
だが、フランソワは棺に目を向けない。
ただ、苦しむソレへと目を向ける。
「神を殺すのは刃じゃない。『世界』だ。かつて君臨していた『あなた』がそんな『隙間』に押し込められてしまったように、世界そのものから干渉してあげれば、あなたは死に絶える」
ソレはかつて誰もが信じ、誰もが認めた君臨者。
時代の経過と共に、人々から拒絶され、小さな箱の隙間へと押し込まれてしまった、小さな小さな存在。
「この世界を望むままに動かし、君臨しようとした偉大さは認めますが…残念、既にこの世界は狂っている」
藍摩の一族を利用し、奇跡をばら撒き、この世界は以前とは異なる世界になった。
ありとあらゆる悲劇を起こし、フランソワを中心に世界は狂っている。
狂った異世界は、ソレを再び拒む。
世界に適応できない者は、ただ滅びるしかない。
フランソワが青い翅を振るう。
この憐れな存在に引導を渡す為に…
「―――――――――――」
それは怨嗟だったのかもしれない。
それは悲鳴だったのかもしれない。
それは嘆きだったのかもしれない。
しかし、今となっては分からない。
ソレはフランソワの翅に貫かれ、消滅した。
「…………イヒ」
…いや、違う。
消滅したのではない。
意志を失っただけだ。
ただの膨大な奇跡の塊となったソレは未だに存在する。
「…イヒヒ」
その持ち主を変えて…
「イヒヒヒヒヒヒヒヒー! アハハハハハハハハー!」
「あの力を…取り込んだ…?」
呆然と天鼠が呟いた。
天変地異すら自在に起こす奇跡を、最悪の人間が手に入れてしまった。
世界の変革…どころではない。
このままでは世界が終わる。
「たった今! 世界は一変した! 異物は世界を歪め狂い、そして、神すらも打ち滅ぼした! イヒヒヒヒヒヒヒー! 今より、新たな神話が刻まれる!」
神の如き力を手に入れたフランソワはそう言い、嗤った。