第5話:定時退社と、小悪魔な後輩・三浦美咲の甘いからかい
この日、あのクソ上司は外出先から直帰した。
監視する人間がいない職場が、これほどまでに快適だとは。おかげで俺は、奇跡的に定時で退社するチャンスを手に入れた。
「また明日ね、日向くん」
橘先輩がデスクから笑顔で手を振ってくれる。
今朝、神社で先輩と距離を縮められたこともあり、俺の足取りは驚くほど軽かった。
これだ。これこそが俺の思い描いていた、理想のオフィスライフじゃないか!
俺は一人で足早に会社を出た。
「待ってくださいよぉ、先~輩~」
背後から、ひどく甘ったるくて、同時に今の俺が一番聞きたくない声が追いかけてきた。
振り返ると、25歳くらいの小柄な少女が小走りで近づいてくる。
彼女の名前は三浦 美咲。
少し広めのおでこを長めの前髪で隠し、後ろ髪を短いポニーテールにまとめている。スーツ姿なのに、襟元には見覚えのあるマスコットキャラクターのピンバッジをつけている。上司から何度も「派手すぎる」と注意されているのに、一向に外す気配がない強心臓の持ち主だ。
「駅まで、一緒に帰りましょ?」
美咲は俺に追いつくと、少し乱れた息を整えながら、極めて自然な動作でウインクを決めてみせた。
社内の若手男性社員の8割を撃沈させるという、破壊力抜群の『あざとい』ウインク。しかし、俺はかつて彼女の教育係だったこともあり、この手口にはすっかり慣れきっていた。心拍数だって全く上がっていない……はずだ。
三浦は昨年入社してきた新人で、俺が仕事を教えていたこともあり、他の社員に比べて俺との距離が異様に近い。
最初は「場を和ませるのが上手な元気っ子」だと思っていた。やたらと懐いてくる彼女を見て、「もしかして、俺にもついにモテ期が到来したのでは!?」と勘違いしそうになったこともある。
だが、付き合いが長くなるにつれ、彼女の本性が分かってきた。
三浦は、自分の『可愛さ』を完全に自覚しているのだ。俺が勝手に勘違いしてドギマギする様子を見るのが大好きで、からかっては後で腹を抱えて笑うような、タチの悪い小悪魔なのである。
ただ、社内の連中はその本性を知らないため、男たちの間では「橘先輩と三浦、付き合うならどっちか」という不毛な論争が絶えず繰り広げられている。
「遠慮しとく。どうせ乗る電車の方向、真逆だろ?」
俺が冷たくあしらっても、三浦はぴったりと横に引っ付いてきた。
「えー、可愛い後輩になんて冷たいんですか?」
わざとらしく頬を膨らませてみせる。まるで俺が悪者みたいじゃないか。
「あ、分かりました! 橘先輩に見られて誤解されるのが怖いんですね?」
「はぁっ!?」
図星を突かれた俺は顔を真っ赤にし、交通整理のおじさんのように両手をバタバタと振った。
「な、なにバカなこと言ってんだよ!」
俺の慌てふためく様子を見て、三浦は「してやったり」という小悪魔の笑みを浮かべた。
「珍しいじゃないですか。先輩ヘタレだから、橘先輩には絶対にアタックしないと思ってましたよ」
「そんなことあるか!」
心の中に少しばかりの下心があるため、俺の反論はどうしても弱々しくなってしまう。
「今朝、二人が一緒にオフィスに入ってきた時から、絶対なんか怪しいって思ってたんですよね~」
三浦は名探偵のように、右手の人差し指をビシッと俺に突きつけた。
「それに、今日の橘先輩、先輩を見る目が普段とぜんっぜん違いましたよ」
「ほ、本当か!?」
社内一のコミュ強である三浦がそう言うなら、もしかして本当に脈アリなのでは!?
「ぷっ……それは橘先輩に直接聞いてくださいよ」
三浦は吹き出すと、そのまま突き出した人差し指で、俺の頬をツンと突いた。
くそっ、またからかわれた!
冷静に考えれば、もし本当に脈アリなら、今朝の神社で橘先輩から「ただのお世辞」なんて切り捨てられるはずがないのだ。
「出社前に絶対何かありましたよね? 吐いてくださいよ!」
「絶対に言わない! だいたい、俺は誰かをアタックする気なんて……」
「本当ですかぁ? もし先輩に好きな人がいないなら……私のことも、候補に入れてみませんか?」
三浦が急に距離を詰め、媚びるような甘い声で上目遣いをしてきた。橘先輩の柑橘系とは違う、クチナシの甘い香りが鼻腔をくすぐる。
だが残念だったな。その『嘘告白』のパターンは、もう何度も味わってきたんだよ。
「絶対にお断りします」
俺は即座に切り捨てた。
「うぅ……ひどいですぅ……」
三浦は捨てられた子猫のように、喉の奥で悲しそうな声を漏らした。
「お前がいつもからかってばかりいるからだろ……」
いくら嘘だと分かっていても、繊細な女の子の顔をあんなにバッサリと斬り捨てるのは、少しデリカシーに欠けていたかもしれない。俺は急に罪悪感を覚え、少し気まずくなってしまった。
「――なーんてねっ! あははははっ!」
次の瞬間、三浦はケロッとした顔で大爆笑し始めた。さっきの泣きそうな顔は、すべて演技だったのだ。
俺は深く溜め息をついた。だからこいつとは、極力関わりたくないんだ。
そんなやり取りをしているうちに、俺たちは駅の改札に到着した。乗る路線が真逆のため、ここで三浦との漫才も終了だ。
「でも、もし先輩が本気で橘先輩を落とすつもりなら、私も協力してあげますよ!」
三浦は小走りで改札を抜けると、くるりと振り返り、とびっきりの笑顔で手を振った。
「また明日ねっ、日~向~く~ん♪」
わざと橘先輩の別れ際のセリフを真似て、声のトーンまで似せてきやがった。
結局、最後までからかわれっぱなしじゃないか。
こいつ、本当に全く可愛くない。
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