婚約破棄されたけど、契約書を読んでない殿下に請求書を叩きつけます!
「――この場をもって、君との婚約を破棄する!」
大広間に響いた王太子殿下の声に、空気が凍りついた。
煌びやかなシャンデリアの下、百人を超える貴族たちが列席する夜会の真ん中で、殿下は一歩踏み出し、私の名前を高らかに告げた。
「公爵令嬢リディア・エルフォード。もはや君は、私の隣にふさわしくない」
会場がどよめく。視線が一斉に私へと集まり、冷笑と同情が入り混じる。
けれど私は、表情ひとつ動かさずに一礼した。
「……承知いたしました。それでは、婚約契約の条項に基づき、違約金の請求を開始いたします」
「……は?」
殿下の顔が呆けたように固まる。
◇
「おい、リディア。今、なんと?」
「条項三条。『いかなる理由であれ、当事者による一方的な婚約破棄には、結納金および準備費用の全額を違約金として支払うものとする』」
私は淡々と読み上げ、扇子を軽く打ち鳴らす。
周囲の貴族たちがざわざわと騒ぎ出した。
「確かに……そんな文言があったな」
「いやしかし、実際に請求するのか?」
「まるで訴訟の口上だ……」
殿下の顔が赤くなり、握りしめた拳が震えている。
「ふざけるな! 愛を貫くための決断だ。それを金で計るなど――」
「感情で契約は無効になりません、殿下」
私はすぐに切り返した。声色はあくまで冷静に、けれど一語一語をはっきり響かせる。
◇
「殿下のおっしゃる愛のための決断――その崇高さは理解いたします。ですが、殿下が署名したのは愛の誓いではなく契約書です」
「な、なにを……」
殿下が口ごもったそのとき、殿下の隣に控えていた令嬢が、勝ち誇った笑みで前に出た。
「そんなもの無効に決まっているでしょう! 愛に書面は必要ないわ!」
真っ赤なドレスを翻した彼女――子爵令嬢マリーネが、私を指差す。
「それに、あの契約書なんてただの紙切れよ! 殿下の意思に比べれば、無に等しいわ!」
私は小さくため息をつき、懐から一枚の羊皮紙を取り出す。
「……保証人欄に記載された筆跡、ご自分のものではありませんか?」
会場が一斉にどよめく。
マリーネの顔から血の気が引き、彼女の手が震えた。
「わ、わたしは……」
「あなたが殿下の保証人として署名した以上、連帯責任を負うことになります」
冷然と告げると、周囲の視線が一気にマリーネへと集まった。
◇
「――――」
沈黙のあと、誰かが吹き出すように笑い声をあげた。
「はははっ、殿下も新しい令嬢も、書類も読まずに印を押したのか!」
「契約社会をなめるからこうなる」
「リディア嬢、やるな……」
さざめきは瞬く間に広がり、場の空気は完全に逆転した。
殿下は唇を噛みしめ、マリーネは泣きそうな顔で後ずさる。
私はただ一人、涼やかな微笑を浮かべていた。
「――では、請求項目を読み上げます」
私の言葉に、大広間のざわめきはさらに大きくなった。
王太子殿下の顔は青ざめている。だが私は淡々と、巻物を広げていく。
「まず、婚約披露宴のために予約済みだった《王都ローズガーデンホール》。前金金貨三百枚」
会場がどよめく。
「つ、三百……!」
「公爵家の催しにふさわしい一等会場だが……あれを前金で?」
「リディア嬢の家が全額立て替えていたということか……」
殿下は額に汗を浮かべ、声を震わせた。
「そ、それは……まだ使用していないではないか!」
「契約では、使用の有無にかかわらず予約金は没収と明記されています。条文七をご覧ください」
私は書き写した条項をさらりと示す。
◇
「次に、婚約衣装――ドレスの仕立て代。特注品のため前金払い。金貨百二十枚」
「そ、そんな……!」
「さらに、殿下の燕尾服の仕立ても含まれております」
「なっ……!」
殿下が思わず絶句する。会場の貴族たちがくすくすと笑い出した。
「つまり王太子殿下ご自身の衣装代すら、リディア嬢の家が負担していたと?」
「なんと……情けない話だ」
殿下の顔が怒りに赤く染まる。
◇
「さらに――婚約指輪に使用された宝石代。これは宝石商家からの請求書をもとに換算しております。金貨二百枚」
「指輪……!?」
「いや、それは殿下が自ら選んだはず……」
「まさか代金を払っていなかったのか……?」
周囲のざわめきに殿下は慌てて口を開いた。
「そ、それは……支払いを後日にしていただけだ!」
「後日支払いである以上、その債務は残っています。契約破棄の違約金には、未払い分も当然含まれます」
私が冷静に告げると、殿下は言葉を詰まらせた。
◇
「最後に――これまでの婚約者としての公務出席にかかった経費。馬車代、衣装代、会場費……細かく積算し、総額金貨八百枚」
「ば、ばかな! そんな額、払えるものか!」
殿下が絶叫する。
「ええ、払えないでしょうね」
私は涼しい笑みを浮かべた。
「だからこそ、契約を破棄するには“保証人”が必要なのです」
マリーネが息を呑み、必死に否定する。
「わ、私はそんな金額、聞いてない!」
「契約書を読まずに署名したあなたの過失です」
私の声に、貴族たちは笑いと同情の入り混じった視線を二人へと注ぐ。
◇
「――これは前例となります」
法務卿が重々しく口を開いた。
「王太子殿下が契約を無視なさるのなら、今後、婚約契約そのものの信用が失われる。誰も王家と契約を結ばなくなるでしょう」
場がしんと静まり返る。
殿下の顔から血の気が引き、マリーネは涙目で立ち尽くしていた。
「リディア嬢。あなたはこの国の契約社会を守った。ここにいる誰もが、その毅然とした姿に感服している」
貴族たちの中から、同意の声が次々に上がる。
「さすが公爵令嬢だ」
「王太子殿下よりも、よほど国家の安定に貢献しているではないか」
その評価に、私は小さく頭を下げた。
◇
「――おのれ、リディア!」
殿下が歯ぎしりをし、怒声を放った。
「こんな茶番で私を辱めるなど、許さぬ!」
「茶番ではございません。契約は法に準ずるもの。無視すれば、あなたご自身が“契約違反の前例”を作ることになります」
私の冷然とした声が響き渡ると、再び会場にざわめきが広がった。
「まさか……この国の王太子が“契約破り”の汚名を着るのか?」
「恥さらしもいいところだ」
その囁きに、殿下の瞳が怒りで燃え上がる。
「……必ず見返してやるぞ、リディア!」
その言葉を残し、殿下は会場を飛び出していった。
――そして、この夜会は“公爵令嬢が王太子を論破した日”として、長く語り継がれることになるのだった。
「……証拠を出せと言うのなら、ここにございます」
私は静かに懐から分厚い封筒を取り出した。
封蝋には公爵家の紋章。会場の視線が一斉に注がれる。
「これは、正式に作成された婚約契約書の写しです。王宮の公証役場に保管された原本と同一内容」
ざわり、と人々の間に波紋が走る。
「まさか……まだ手元にあったとは……」
「いや、原本があるなら、内容は確定だ……」
殿下の顔が青ざめ、マリーネが必死に叫んだ。
「そ、それは偽造よ! 殿下を貶めるために仕組んだに違いない!」
◇
私は契約書を開き、滑らかな手つきで頁をめくった。
「ここに殿下の署名と印章。そして――保証人欄に記された、あなたの署名」
私の指が示した箇所を、会場にいた貴族たちが身を乗り出して覗き込む。
たちまちさざめきが広がった。
「確かに……この筆跡は子爵令嬢マリーネのものだ」
「印影も本物に見える」
「これを偽造するのは不可能だ……」
法務卿が前に進み出て、書類を手に取った。
「……確認した。これは正式に受理された契約の写し。署名も印影も、確かに本人のものだ」
その宣告が響いた瞬間、マリーネの膝が崩れ落ちた。
◇
「う、うそ……そんな……! わたしは殿下を愛して……」
「愛と契約は別です。あなたが愛を信じるのは自由ですが、署名した時点で責任は生じます」
私の声は冷徹だったが、感情の熱を孕ませて響く。
殿下が机を叩き、怒鳴り声をあげる。
「ふざけるな! 王太子たる私を告発するつもりか! 王家の権威を冒涜する気か!」
「殿下。契約社会を冒涜しているのは、むしろそちらです」
私が一歩踏み出した瞬間、場の空気は完全に反転した。
◇
「そ、そんなことが……!」
「王家が契約を踏みにじるなら、我らの立場はどうなる?」
「土地貸借も、婚姻契約も、全て無意味になってしまう!」
ざわめきが怒りの波へと変わっていく。
重鎮の一人、伯爵が声を上げた。
「王太子殿下。あなたが契約を守らぬならば、我らは王家と取引を続けられぬ」
「そ、それは脅しか!」
「脅しではなく当然の理屈です」
殿下は狼狽し、マリーネは泣き声をあげていた。
◇
「殿下。これはあなたの名誉を損なうための場ではございません」
私は会場を見渡し、静かに続ける。
「ここで契約を無視すれば、王家全体の信頼が失われるのです」
ざわざわとした空気の中で、誰もがうなずいていた。
「リディア嬢の言う通りだ」
「契約の秩序を守らねば、この国は立ち行かぬ」
その声が広がるにつれて、殿下の表情は追い詰められていく。
「……くっ……」
殿下は悔しげに拳を握り締めた。
◇
私は契約書を高らかに掲げた。
「ここに証拠は揃いました。殿下が一方的に破棄を宣言したこと、保証人であるマリーネ嬢の署名があること、法務卿が正式文書と認めたこと――」
「もう、誰も否定できません」
静まり返った会場に、私の言葉が響き渡る。
そしてその瞬間、空気は完全に変わった。
「リディア嬢の正義は揺るがぬ」
「王太子殿下よりも、彼女の方が信頼に値する……」
人々の評価は一気に私へと傾き、殿下の立場は逆転した。
「――それならば、俺が代わりに責任を負おう」
重苦しい沈黙の中、その声が落ちた瞬間、空気が切り替わった。
低く響く声。人々が振り返ると、会場の奥から一人の青年が姿を現す。
黒い礼服に身を包み、背筋を伸ばしたまま進み出たのは、公爵家の若き当主、カイル・フォン・シュタイン。
冷徹と噂され、寡黙で近寄りがたいと評判の人物だ。
「カ、カイル公爵……!」
「なぜここに……」
ざわめきが広がる。
殿下の顔色がさらに悪くなった。
◇
「……責任を負う、とはどういう意味だ」
殿下が絞り出すように問う。
「単純な話だ」
カイルは冷たい瞳で殿下を見下ろし、淡々と告げる。
「彼女――リディア嬢の新たな契約相手になる。婚姻契約としてな」
その言葉に、場がどよめいた。
「なっ……!」
「婚姻契約……!?」
「あのカイル公爵が……!」
殿下の頬が引きつり、マリーネが悲鳴を上げる。
「嘘よ! そんなのありえない! 彼は女嫌いだって――」
「誰がそんな噂を流した?」
カイルの冷ややかな視線に、マリーネは口をつぐんだ。
◇
「お待ちください」
私は慌てて口を開いた。
「カイル様、なぜそのようなことを……。これは社交の場の戯れではありません」
「戯れで済む話ではないからこそ、俺が出た」
彼はきっぱりと言い切った。
「王太子が契約を踏みにじるならば、俺が新たに結ぶ。それが最も秩序的で、迅速な解決だからだ」
「……しかし……」
私が言葉を失うと、カイルはわずかに視線を落とし、冷ややかな声で囁いた。
「それに――俺は以前から、お前を契約以上の存在として見ていた」
胸がどくんと高鳴る。
けれど彼の表情は相変わらず硬く、冷徹な仮面を崩さない。
◇
「ふざけるな!」
殿下が怒声をあげる。
「俺から婚約者を奪うつもりか!」
「奪う? 違うな」
カイルは冷たく切り返した。
「お前が一方的に捨てたのだ。拾うのは俺の自由だ」
その一言に、会場が一斉にざわついた。
「確かに……」
「王太子殿下の破棄により、リディア嬢は自由の身だ」
「カイル公爵が新たに契約することに、誰も異を唱えられまい」
人々の評価が一気に彼へと傾いていく。
◇
「リディア嬢」
カイルは私の前に立ち、片膝をついた。
その仕草は儀礼的でありながら、真剣そのものだった。
「俺と新たに婚姻契約を結ぶ意思はあるか」
会場の視線が一斉に私に注がれる。
息が詰まりそうになりながらも、私は扇子を握りしめた。
「……突然すぎます」
「突然でなければ意味がない。ここで契約を結ばねば、殿下の違約が放置される」
理路整然とした彼の声に、私の心は揺れる。
◇
「リディア嬢、受けて差し上げなさい」
「彼こそが今、この国に必要な相手だ」
「秩序を守れるのは、もう彼しかいない!」
貴族たちの声が次々と上がる。
その熱に包まれ、私は息をのみ込んだ。
「……もし、私が承諾すれば」
「俺は即刻、王宮に届け出る。お前を俺の伴侶として正式に迎える」
彼の言葉は迷いがなく、確信に満ちていた。
私はそっと目を閉じ、深く息を吸った。
「……承知いたしました」
そう告げた瞬間、会場に大きな拍手が響き渡った。
殿下の顔は絶望に染まり、マリーネは泣き叫んでいる。
けれどその喧噪の中で、私の胸には――妙な安堵と、甘い予感が芽生えていた。
「……こちらが、新たに契約を結ぶにあたっての条件書だ」
翌日。
私はカイル公爵の執務室に招かれていた。
重厚な机の上に並べられた書類――まるで政務と変わらぬ整然さ。
「婚姻契約を正式に提出するには、相互の義務と権利を明確にする必要がある」
彼は淡々とした口調で告げ、ペンを走らせる。
けれど、その横顔はあまりに冷ややかで、私の胸に小さな棘を残した。
◇
「……この項目、“伴侶としての義務は互いに尊重する”……当たり前すぎませんか?」
思わず突っ込むと、カイルの手が止まった。
そして彼はほんのわずかに視線をそらす。
「……契約文書は、曖昧さを残さぬのが鉄則だ」
「曖昧どころか……“お互いに食事を忘れるな”なんて項目まで……」
「……お前は時折、食事を抜く癖があると聞いた」
冷たい声色のまま、しかし言葉の中には妙に細やかな気遣いが潜んでいた。
私は思わず瞬きをする。
◇
「それに、この“休養は十分に確保する”……カイル様、それは……」
「お前は働きすぎる」
即答。
私は言葉を失い、視線を落とした。
「……そのようなことまで気にかけて……」
「契約上の義務だ」
彼はそう言い切ったが、わずかに耳が赤くなっているのを私は見逃さなかった。
◇
「ですが……これは、あくまで形だけの契約です。そう理解しておりましたが?」
私が問いかけると、カイルはしばし沈黙した。
そしてペンを置き、真っ直ぐに私を見た。
「――形だけで終わらせるつもりはない」
「……え?」
「俺は確かに、秩序を守るためにこの契約を選んだ。だが、それだけではない」
彼の声が低く響く。
その奥に、言葉以上の熱があるのを感じ、私は心臓が跳ねるのを止められなかった。
◇
「お前を見てきた。
論理で切り返し、誰にも怯まず、けれど……ときどき、ひどく寂しげに微笑む姿を」
「……!」
胸が熱くなる。
だがカイルはすぐに表情を硬く戻し、淡々と続けた。
「だからこそ、俺は契約という形を借りても、お前を隣に置きたい」
彼の不器用な告白に、私は視線を逸らさずにいられなかった。
◇
「……ですが、私にはまだ気持ちの整理が……」
震える声を出したとき、扉がノックされ、執務官が書類を抱えて入ってきた。
「公爵様、本日の政務書類を……」
「後にしろ」
短い一言で退けるカイル。
その声音は冷たいが、視線は私から一度も外れていなかった。
◇
「……形だけではない、というのなら……」
私は小さく息を吐いた。
「もし本当にそのお気持ちがあるのなら、どうか言葉ではなく態度でお示しください」
挑むようにそう告げると、カイルは一瞬だけ驚いたように目を細め、そして口元をわずかに緩めた。
「……承知した」
彼は机越しに、そっと私の手に触れた。
冷たい指先。けれどそこには、硬い仮面からは想像もつかぬ優しさがあった。
◇
その夜。
私は部屋に戻り、胸の奥のざわめきを抑えきれずにいた。
「……契約のはずなのに」
カイルの言葉と仕草が、どうしても頭から離れない。
冷徹な仮面の裏に覗いた、不器用な温もり。
――溺愛の予兆は、すでに始まっていた。
「――リディア嬢は契約を楯に、王家を脅迫している!」
翌週、社交界を揺るがす噂が駆け巡った。
広間の片隅で耳にした言葉に、私は思わず苦笑する。
言い出しっぺは誰か――考えるまでもない。王太子殿下と、その取り巻きだ。
「まるで逆ですね」
「ええ、殿下ご自身が契約を踏みにじったのに」
友人令嬢たちが小声で囁く。だが、噂の波は確実に広がっていた。
◇
その夜、私はカイル公爵の屋敷に呼ばれた。
執務室で彼は机に新しい報告書を並べていた。
「……殿下は徹底的に根回しをしている。『公爵令嬢が金銭欲に目がくらんで婚約を盾に取った』と」
「随分と幼稚な筋立てですね」
「だが、人は耳障りの良い悪意を信じやすい」
彼の声は冷徹だったが、瞳には怒りの色が宿っていた。
◇
「さらに、こちらをご覧ください」
カイルが差し出したのは一通の書簡。
『リディア嬢に関われば、王家からの庇護を失うことになる』
脅迫まがいの文言。送り主は王太子の取り巻き貴族たち。
「……露骨ですね」
「露骨だからこそ、王家の威光を信じたい者たちに効く」
私は眉を寄せたが、すぐに扇子を打ち鳴らす。
「では、論理で切り返すまでです」
◇
翌日の茶会。
私が姿を見せると、数人の令嬢たちが陰口を叩いているのが耳に入った。
「彼女は金にがめつい」
「契約書に縋るなんて、愛のない証拠よ」
私は微笑を浮かべ、ゆっくりと席に着いた。
「皆さま。愛は素晴らしいものですわ。ですが――王宮の宴の費用は、愛で支払えるのですか?」
一瞬、空気が凍りつく。
誰も反論できず、結局は視線を逸らすだけだった。
◇
だが、殿下の攻撃は止まらない。
次は商人たちを抱き込み、「リディア家は支払いを踏み倒している」という偽の噂を流した。
「……呆れますね」
私は報告を受けて肩をすくめた。
「対策は簡単だ」
カイルが低く告げる。
「実際の帳簿を公開する。お前の家は清廉だ」
「なるほど。透明性で打ち返す、と」
「そうだ。殿下は証拠を示さない。こちらが誠実であれば、世論は動く」
◇
数日後。
私は実際の帳簿を持参し、商人組合の前に立った。
「こちらが支払い済みの証明です。もし殿下の言うことが正しいなら、殿下自ら証拠をお示しください」
商人たちは互いに顔を見合わせ、やがて深く頷いた。
「リディア嬢の取引に偽りなし」
「王太子殿下の言葉の方が怪しい」
その宣言で、噂は一気に逆風となった。
◇
だが――殿下は最後の手段に出た。
公然と広間で声を張り上げる。
「リディア! お前は契約を利用し、俺を失脚させようとしている! これは国家への反逆だ!」
人々が息を呑む。
けれど私は、静かに扇子を開いた。
「殿下。反逆とは、法と秩序を破壊すること。
――契約を踏みにじったのは、どちらでしょう?」
その瞬間、会場にざわめきが走る。
殿下の言葉は、もはや誰の心も掴まなかった。
◇
夜更け。
カイルが私の肩にそっと手を置いた。
「……よくやった」
「いえ。必要なことをしただけです」
「それでも……お前を一人で戦わせたくはない」
その声音には、冷徹を装いきれない温もりがあった。
私は小さく微笑む。
「……では、次は隣に立っていただけますか?」
彼の瞳がわずかに揺れ、静かに頷いた。
「――これより、王家特別審問を開廷する」
荘厳な鐘の音が響き渡り、王宮大広間は裁きの場へと変わった。
王族、重鎮、貴族、法務卿が一堂に会し、壇上には国王陛下の姿。
王太子殿下は緊張に顔を歪め、私はその正面に立っていた。
隣にはカイル公爵。彼の存在が背中を支えている。
◇
「まず、婚約契約の内容を確認する」
法務卿が羊皮紙を広げ、淡々と読み上げる。
「一方的な破棄の場合、違約金を全額支払うこと。署名者は王太子レオンハルト殿下。保証人は子爵令嬢マリーネ」
会場がざわめく。
殿下は立ち上がり、机を叩いた。
「そんなものは強制されたものだ! 父上、私は無理やり署名させられたのだ!」
「では証拠を示せ」
国王の一言は鋭く、会場に沈黙が落ちた。
◇
「証拠など……あるものか!」
「でしたら、あなたの主張は根拠を欠きます」
私は扇子を打ち鳴らし、冷然と告げた。
「この契約書は公証役場に正式に登録されております。無理強いがあったなら、その場で異議を唱えるべきでした」
殿下の顔が赤く染まり、声を荒げる。
「貴様っ……!」
「殿下、ここは法廷です。暴力的な言葉も契約違反に含まれますよ?」
人々がくすりと笑い、殿下はさらに追い詰められていく。
◇
「次に、費用の内訳を提出する」
私は準備していた帳簿を差し出した。
「会場費、衣装代、指輪代、婚約者としての公務経費――すべて領収書付きです」
法務卿が確認し、深く頷く。
「確かに整合している。これでは誰も否定できまい」
マリーネが青ざめ、必死に叫んだ。
「わ、わたしは知らなかったの! 本当にただ署名を頼まれただけで……!」
「知らなかったことは免責理由になりません」
私は淡々と切り捨てた。
◇
「反対尋問を許す」
国王の声に、殿下は必死に立ち上がった。
「リディア! お前は俺を失脚させるために、この契約を利用している! 国家を揺るがす反逆者だ!」
「殿下」
カイルが冷徹に口を開いた。
「反逆とは国家秩序を破壊する行為。契約を守ることが秩序である以上、反逆者はどちらだ?」
その問いに、会場の空気が一気に変わった。
「確かに……」
「殿下こそ、法を踏みにじっている」
殿下の顔が歪み、唇が震える。
◇
「最後に」
私は一歩前へ進み、声を張った。
「私が求めるのは、罰ではありません。契約に基づく正当な支払いと、秩序の保持です」
静まり返った広間に、私の言葉だけが響いた。
国王が深く頷く。
「裁定を下す。王太子レオンハルト、契約違反を認め、違約金を支払え。加えて、王位継承権を停止する」
殿下が絶叫する。
「そ、そんな馬鹿な……!」
だが、誰も同情しなかった。
◇
「――リディア嬢。あなたの毅然とした態度、そして法を守る姿勢は、我が国の誉れである」
国王の言葉に、会場が拍手に包まれる。
私は深く礼をし、カイルと視線を交わした。
「よくやったな」
彼が低く囁く。
「いえ……あなたが隣にいてくださったからです」
短い言葉を交わすだけで、胸が熱くなる。
それはもう、ただの契約のための絆ではなかった。
「――違約金、全額を支払え」
国王陛下の裁定が下った瞬間、広間がざわめきに包まれた。
王太子レオンハルト殿下は青ざめ、マリーネは泣き崩れる。
「ま、待ってください! そんな額、払えるはずが……!」
「保証人として署名した時点で、あなたも責任を負うのです」
法務卿の冷徹な宣告に、マリーネは絶望の声を上げた。
◇
「こんな、こんなはずでは……!」
殿下は膝をつき、わめき散らす。
「愛のために戦ったのに……なぜ誰もわかってくれない!」
その声に、周囲の貴族たちは冷ややかだった。
「愛を口実に契約を破っただけだ」
「王族としての責任を忘れた報いだな」
皮肉と失笑が重なり、殿下の姿はみじめそのものだった。
――ざまぁ、である。
◇
「リディア嬢」
国王が改めて私を見た。
「あなたは毅然と契約を守り、秩序を示した。その功績により、この国は救われたといってよい」
「……過分なお言葉にございます」
私は深く一礼する。
「しかしながら」
国王はゆるりと目を細め、隣に立つカイルへと視線を向けた。
「新たな婚姻契約を結んだと聞く。公に承認する必要があるだろう」
◇
「俺とリディア嬢の契約は既に交わされた」
カイルが一歩進み出て、冷徹な声で告げる。
「だが契約以上のものを、ここで誓う」
彼は私の前に跪き、片膝をついた。
会場が息を呑む。
「リディア・エルフォード。俺は、契約としてではなく、一人の男として、お前を生涯の伴侶とする」
「……!」
胸の奥が熱くなり、息が震える。
「契約……ではなく、愛として……?」
「そうだ。俺は不器用で、言葉も多くはない。だが、お前を守り、支えると誓う」
◇
広間は静まり返っていた。
国王も、貴族たちも、誰一人として声を発しない。
ただ、私の答えを待っていた。
私は扇子を閉じ、深く息を吸った。
「――はい。私もまた、契約以上に、あなたと共に生きたいと願います」
その瞬間、会場に大きな拍手が巻き起こった。
人々の歓声が響き、ざわめきが祝福へと変わっていく。
◇
「リディア……」
カイルが低く囁く。
私は小さく微笑み返した。
「今度は義務ではなく、愛として隣に立ってくださいね」
「ああ。約束する」
彼の手が私の指を包み込む。
冷たい仮面の下から、不器用な優しさが溢れ出していた。
◇
殿下とマリーネは、誰も手を差し伸べることなく会場を追い出された。
社交界に残ったのは、契約を守ることの重み、そして――新たな愛の誓いだった。
こうして私は、公爵夫人として、そして一人の女性として、ようやく本当の未来を掴んだのである。
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