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婚約破棄されたけど、契約書を読んでない殿下に請求書を叩きつけます!

作者: 百鬼清風

「――この場をもって、君との婚約を破棄する!」


 大広間に響いた王太子殿下の声に、空気が凍りついた。

 煌びやかなシャンデリアの下、百人を超える貴族たちが列席する夜会の真ん中で、殿下は一歩踏み出し、私の名前を高らかに告げた。


「公爵令嬢リディア・エルフォード。もはや君は、私の隣にふさわしくない」


 会場がどよめく。視線が一斉に私へと集まり、冷笑と同情が入り混じる。

 けれど私は、表情ひとつ動かさずに一礼した。


「……承知いたしました。それでは、婚約契約の条項に基づき、違約金の請求を開始いたします」


「……は?」


 殿下の顔が呆けたように固まる。



「おい、リディア。今、なんと?」

「条項三条。『いかなる理由であれ、当事者による一方的な婚約破棄には、結納金および準備費用の全額を違約金として支払うものとする』」


 私は淡々と読み上げ、扇子を軽く打ち鳴らす。

 周囲の貴族たちがざわざわと騒ぎ出した。


「確かに……そんな文言があったな」

「いやしかし、実際に請求するのか?」

「まるで訴訟の口上だ……」


 殿下の顔が赤くなり、握りしめた拳が震えている。


「ふざけるな! 愛を貫くための決断だ。それを金で計るなど――」

「感情で契約は無効になりません、殿下」


 私はすぐに切り返した。声色はあくまで冷静に、けれど一語一語をはっきり響かせる。



「殿下のおっしゃる愛のための決断――その崇高さは理解いたします。ですが、殿下が署名したのは愛の誓いではなく契約書です」


「な、なにを……」


 殿下が口ごもったそのとき、殿下の隣に控えていた令嬢が、勝ち誇った笑みで前に出た。


「そんなもの無効に決まっているでしょう! 愛に書面は必要ないわ!」


 真っ赤なドレスを翻した彼女――子爵令嬢マリーネが、私を指差す。


「それに、あの契約書なんてただの紙切れよ! 殿下の意思に比べれば、無に等しいわ!」


 私は小さくため息をつき、懐から一枚の羊皮紙を取り出す。


「……保証人欄に記載された筆跡、ご自分のものではありませんか?」


 会場が一斉にどよめく。

 マリーネの顔から血の気が引き、彼女の手が震えた。


「わ、わたしは……」


「あなたが殿下の保証人として署名した以上、連帯責任を負うことになります」


 冷然と告げると、周囲の視線が一気にマリーネへと集まった。



「――――」


 沈黙のあと、誰かが吹き出すように笑い声をあげた。


「はははっ、殿下も新しい令嬢も、書類も読まずに印を押したのか!」

「契約社会をなめるからこうなる」

「リディア嬢、やるな……」


 さざめきは瞬く間に広がり、場の空気は完全に逆転した。

 殿下は唇を噛みしめ、マリーネは泣きそうな顔で後ずさる。

 私はただ一人、涼やかな微笑を浮かべていた。


「――では、請求項目を読み上げます」


 私の言葉に、大広間のざわめきはさらに大きくなった。

 王太子殿下の顔は青ざめている。だが私は淡々と、巻物を広げていく。


「まず、婚約披露宴のために予約済みだった《王都ローズガーデンホール》。前金金貨三百枚」


 会場がどよめく。


「つ、三百……!」

「公爵家の催しにふさわしい一等会場だが……あれを前金で?」

「リディア嬢の家が全額立て替えていたということか……」


 殿下は額に汗を浮かべ、声を震わせた。


「そ、それは……まだ使用していないではないか!」


「契約では、使用の有無にかかわらず予約金は没収と明記されています。条文七をご覧ください」


 私は書き写した条項をさらりと示す。



「次に、婚約衣装――ドレスの仕立て代。特注品のため前金払い。金貨百二十枚」


「そ、そんな……!」

「さらに、殿下の燕尾服の仕立ても含まれております」


「なっ……!」


 殿下が思わず絶句する。会場の貴族たちがくすくすと笑い出した。


「つまり王太子殿下ご自身の衣装代すら、リディア嬢の家が負担していたと?」

「なんと……情けない話だ」


 殿下の顔が怒りに赤く染まる。



「さらに――婚約指輪に使用された宝石代。これは宝石商家からの請求書をもとに換算しております。金貨二百枚」


「指輪……!?」

「いや、それは殿下が自ら選んだはず……」

「まさか代金を払っていなかったのか……?」


 周囲のざわめきに殿下は慌てて口を開いた。


「そ、それは……支払いを後日にしていただけだ!」


「後日支払いである以上、その債務は残っています。契約破棄の違約金には、未払い分も当然含まれます」


 私が冷静に告げると、殿下は言葉を詰まらせた。



「最後に――これまでの婚約者としての公務出席にかかった経費。馬車代、衣装代、会場費……細かく積算し、総額金貨八百枚」


「ば、ばかな! そんな額、払えるものか!」


 殿下が絶叫する。


「ええ、払えないでしょうね」

 私は涼しい笑みを浮かべた。

「だからこそ、契約を破棄するには“保証人”が必要なのです」


 マリーネが息を呑み、必死に否定する。


「わ、私はそんな金額、聞いてない!」


「契約書を読まずに署名したあなたの過失です」


 私の声に、貴族たちは笑いと同情の入り混じった視線を二人へと注ぐ。



「――これは前例となります」


 法務卿が重々しく口を開いた。


「王太子殿下が契約を無視なさるのなら、今後、婚約契約そのものの信用が失われる。誰も王家と契約を結ばなくなるでしょう」


 場がしんと静まり返る。

 殿下の顔から血の気が引き、マリーネは涙目で立ち尽くしていた。


「リディア嬢。あなたはこの国の契約社会を守った。ここにいる誰もが、その毅然とした姿に感服している」


 貴族たちの中から、同意の声が次々に上がる。


「さすが公爵令嬢だ」

「王太子殿下よりも、よほど国家の安定に貢献しているではないか」


 その評価に、私は小さく頭を下げた。



「――おのれ、リディア!」


 殿下が歯ぎしりをし、怒声を放った。


「こんな茶番で私を辱めるなど、許さぬ!」


「茶番ではございません。契約は法に準ずるもの。無視すれば、あなたご自身が“契約違反の前例”を作ることになります」


 私の冷然とした声が響き渡ると、再び会場にざわめきが広がった。


「まさか……この国の王太子が“契約破り”の汚名を着るのか?」

「恥さらしもいいところだ」


 その囁きに、殿下の瞳が怒りで燃え上がる。


「……必ず見返してやるぞ、リディア!」


 その言葉を残し、殿下は会場を飛び出していった。


――そして、この夜会は“公爵令嬢が王太子を論破した日”として、長く語り継がれることになるのだった。


「……証拠を出せと言うのなら、ここにございます」


 私は静かに懐から分厚い封筒を取り出した。

 封蝋には公爵家の紋章。会場の視線が一斉に注がれる。


「これは、正式に作成された婚約契約書の写しです。王宮の公証役場に保管された原本と同一内容」


 ざわり、と人々の間に波紋が走る。


「まさか……まだ手元にあったとは……」

「いや、原本があるなら、内容は確定だ……」


 殿下の顔が青ざめ、マリーネが必死に叫んだ。


「そ、それは偽造よ! 殿下を貶めるために仕組んだに違いない!」



 私は契約書を開き、滑らかな手つきで頁をめくった。


「ここに殿下の署名と印章。そして――保証人欄に記された、あなたの署名」


 私の指が示した箇所を、会場にいた貴族たちが身を乗り出して覗き込む。

 たちまちさざめきが広がった。


「確かに……この筆跡は子爵令嬢マリーネのものだ」

「印影も本物に見える」

「これを偽造するのは不可能だ……」


 法務卿が前に進み出て、書類を手に取った。


「……確認した。これは正式に受理された契約の写し。署名も印影も、確かに本人のものだ」


 その宣告が響いた瞬間、マリーネの膝が崩れ落ちた。



「う、うそ……そんな……! わたしは殿下を愛して……」


「愛と契約は別です。あなたが愛を信じるのは自由ですが、署名した時点で責任は生じます」


 私の声は冷徹だったが、感情の熱を孕ませて響く。


 殿下が机を叩き、怒鳴り声をあげる。


「ふざけるな! 王太子たる私を告発するつもりか! 王家の権威を冒涜する気か!」


「殿下。契約社会を冒涜しているのは、むしろそちらです」


 私が一歩踏み出した瞬間、場の空気は完全に反転した。



「そ、そんなことが……!」

「王家が契約を踏みにじるなら、我らの立場はどうなる?」

「土地貸借も、婚姻契約も、全て無意味になってしまう!」


 ざわめきが怒りの波へと変わっていく。

 重鎮の一人、伯爵が声を上げた。


「王太子殿下。あなたが契約を守らぬならば、我らは王家と取引を続けられぬ」


「そ、それは脅しか!」


「脅しではなく当然の理屈です」


 殿下は狼狽し、マリーネは泣き声をあげていた。



「殿下。これはあなたの名誉を損なうための場ではございません」

 私は会場を見渡し、静かに続ける。

「ここで契約を無視すれば、王家全体の信頼が失われるのです」


 ざわざわとした空気の中で、誰もがうなずいていた。


「リディア嬢の言う通りだ」

「契約の秩序を守らねば、この国は立ち行かぬ」


 その声が広がるにつれて、殿下の表情は追い詰められていく。


「……くっ……」


 殿下は悔しげに拳を握り締めた。



 私は契約書を高らかに掲げた。


「ここに証拠は揃いました。殿下が一方的に破棄を宣言したこと、保証人であるマリーネ嬢の署名があること、法務卿が正式文書と認めたこと――」


「もう、誰も否定できません」


 静まり返った会場に、私の言葉が響き渡る。


 そしてその瞬間、空気は完全に変わった。


「リディア嬢の正義は揺るがぬ」

「王太子殿下よりも、彼女の方が信頼に値する……」


 人々の評価は一気に私へと傾き、殿下の立場は逆転した。


「――それならば、俺が代わりに責任を負おう」


 重苦しい沈黙の中、その声が落ちた瞬間、空気が切り替わった。

 低く響く声。人々が振り返ると、会場の奥から一人の青年が姿を現す。


 黒い礼服に身を包み、背筋を伸ばしたまま進み出たのは、公爵家の若き当主、カイル・フォン・シュタイン。

 冷徹と噂され、寡黙で近寄りがたいと評判の人物だ。


「カ、カイル公爵……!」

「なぜここに……」


 ざわめきが広がる。

 殿下の顔色がさらに悪くなった。



「……責任を負う、とはどういう意味だ」

 殿下が絞り出すように問う。


「単純な話だ」

 カイルは冷たい瞳で殿下を見下ろし、淡々と告げる。

「彼女――リディア嬢の新たな契約相手になる。婚姻契約としてな」


 その言葉に、場がどよめいた。


「なっ……!」

「婚姻契約……!?」

「あのカイル公爵が……!」


 殿下の頬が引きつり、マリーネが悲鳴を上げる。


「嘘よ! そんなのありえない! 彼は女嫌いだって――」


「誰がそんな噂を流した?」

 カイルの冷ややかな視線に、マリーネは口をつぐんだ。



「お待ちください」

 私は慌てて口を開いた。

「カイル様、なぜそのようなことを……。これは社交の場の戯れではありません」


「戯れで済む話ではないからこそ、俺が出た」

 彼はきっぱりと言い切った。

「王太子が契約を踏みにじるならば、俺が新たに結ぶ。それが最も秩序的で、迅速な解決だからだ」


「……しかし……」


 私が言葉を失うと、カイルはわずかに視線を落とし、冷ややかな声で囁いた。


「それに――俺は以前から、お前を契約以上の存在として見ていた」


 胸がどくんと高鳴る。

 けれど彼の表情は相変わらず硬く、冷徹な仮面を崩さない。



「ふざけるな!」

 殿下が怒声をあげる。

「俺から婚約者を奪うつもりか!」


「奪う? 違うな」

 カイルは冷たく切り返した。

「お前が一方的に捨てたのだ。拾うのは俺の自由だ」


 その一言に、会場が一斉にざわついた。


「確かに……」

「王太子殿下の破棄により、リディア嬢は自由の身だ」

「カイル公爵が新たに契約することに、誰も異を唱えられまい」


 人々の評価が一気に彼へと傾いていく。



「リディア嬢」

 カイルは私の前に立ち、片膝をついた。

 その仕草は儀礼的でありながら、真剣そのものだった。


「俺と新たに婚姻契約を結ぶ意思はあるか」


 会場の視線が一斉に私に注がれる。

 息が詰まりそうになりながらも、私は扇子を握りしめた。


「……突然すぎます」


「突然でなければ意味がない。ここで契約を結ばねば、殿下の違約が放置される」


 理路整然とした彼の声に、私の心は揺れる。



「リディア嬢、受けて差し上げなさい」

「彼こそが今、この国に必要な相手だ」

「秩序を守れるのは、もう彼しかいない!」


 貴族たちの声が次々と上がる。

 その熱に包まれ、私は息をのみ込んだ。


「……もし、私が承諾すれば」

「俺は即刻、王宮に届け出る。お前を俺の伴侶として正式に迎える」


 彼の言葉は迷いがなく、確信に満ちていた。


 私はそっと目を閉じ、深く息を吸った。


「……承知いたしました」


 そう告げた瞬間、会場に大きな拍手が響き渡った。


 殿下の顔は絶望に染まり、マリーネは泣き叫んでいる。

 けれどその喧噪の中で、私の胸には――妙な安堵と、甘い予感が芽生えていた。


「……こちらが、新たに契約を結ぶにあたっての条件書だ」


 翌日。

 私はカイル公爵の執務室に招かれていた。

 重厚な机の上に並べられた書類――まるで政務と変わらぬ整然さ。


「婚姻契約を正式に提出するには、相互の義務と権利を明確にする必要がある」


 彼は淡々とした口調で告げ、ペンを走らせる。

 けれど、その横顔はあまりに冷ややかで、私の胸に小さな棘を残した。



「……この項目、“伴侶としての義務は互いに尊重する”……当たり前すぎませんか?」


 思わず突っ込むと、カイルの手が止まった。

 そして彼はほんのわずかに視線をそらす。


「……契約文書は、曖昧さを残さぬのが鉄則だ」


「曖昧どころか……“お互いに食事を忘れるな”なんて項目まで……」


「……お前は時折、食事を抜く癖があると聞いた」


 冷たい声色のまま、しかし言葉の中には妙に細やかな気遣いが潜んでいた。

 私は思わず瞬きをする。



「それに、この“休養は十分に確保する”……カイル様、それは……」


「お前は働きすぎる」


 即答。

 私は言葉を失い、視線を落とした。


「……そのようなことまで気にかけて……」


「契約上の義務だ」


 彼はそう言い切ったが、わずかに耳が赤くなっているのを私は見逃さなかった。



「ですが……これは、あくまで形だけの契約です。そう理解しておりましたが?」


 私が問いかけると、カイルはしばし沈黙した。

 そしてペンを置き、真っ直ぐに私を見た。


「――形だけで終わらせるつもりはない」


「……え?」


「俺は確かに、秩序を守るためにこの契約を選んだ。だが、それだけではない」


 彼の声が低く響く。

 その奥に、言葉以上の熱があるのを感じ、私は心臓が跳ねるのを止められなかった。



「お前を見てきた。

 論理で切り返し、誰にも怯まず、けれど……ときどき、ひどく寂しげに微笑む姿を」


「……!」


 胸が熱くなる。

 だがカイルはすぐに表情を硬く戻し、淡々と続けた。


「だからこそ、俺は契約という形を借りても、お前を隣に置きたい」


 彼の不器用な告白に、私は視線を逸らさずにいられなかった。



「……ですが、私にはまだ気持ちの整理が……」


 震える声を出したとき、扉がノックされ、執務官が書類を抱えて入ってきた。


「公爵様、本日の政務書類を……」


「後にしろ」


 短い一言で退けるカイル。

 その声音は冷たいが、視線は私から一度も外れていなかった。



「……形だけではない、というのなら……」

 私は小さく息を吐いた。

「もし本当にそのお気持ちがあるのなら、どうか言葉ではなく態度でお示しください」


 挑むようにそう告げると、カイルは一瞬だけ驚いたように目を細め、そして口元をわずかに緩めた。


「……承知した」


 彼は机越しに、そっと私の手に触れた。

 冷たい指先。けれどそこには、硬い仮面からは想像もつかぬ優しさがあった。



 その夜。

 私は部屋に戻り、胸の奥のざわめきを抑えきれずにいた。


「……契約のはずなのに」


 カイルの言葉と仕草が、どうしても頭から離れない。

 冷徹な仮面の裏に覗いた、不器用な温もり。


 ――溺愛の予兆は、すでに始まっていた。


「――リディア嬢は契約を楯に、王家を脅迫している!」


 翌週、社交界を揺るがす噂が駆け巡った。

 広間の片隅で耳にした言葉に、私は思わず苦笑する。

 言い出しっぺは誰か――考えるまでもない。王太子殿下と、その取り巻きだ。


「まるで逆ですね」

「ええ、殿下ご自身が契約を踏みにじったのに」


 友人令嬢たちが小声で囁く。だが、噂の波は確実に広がっていた。



 その夜、私はカイル公爵の屋敷に呼ばれた。

 執務室で彼は机に新しい報告書を並べていた。


「……殿下は徹底的に根回しをしている。『公爵令嬢が金銭欲に目がくらんで婚約を盾に取った』と」


「随分と幼稚な筋立てですね」


「だが、人は耳障りの良い悪意を信じやすい」


 彼の声は冷徹だったが、瞳には怒りの色が宿っていた。



「さらに、こちらをご覧ください」

 カイルが差し出したのは一通の書簡。


『リディア嬢に関われば、王家からの庇護を失うことになる』


 脅迫まがいの文言。送り主は王太子の取り巻き貴族たち。


「……露骨ですね」

「露骨だからこそ、王家の威光を信じたい者たちに効く」


 私は眉を寄せたが、すぐに扇子を打ち鳴らす。


「では、論理で切り返すまでです」



 翌日の茶会。

 私が姿を見せると、数人の令嬢たちが陰口を叩いているのが耳に入った。


「彼女は金にがめつい」

「契約書に縋るなんて、愛のない証拠よ」


 私は微笑を浮かべ、ゆっくりと席に着いた。


「皆さま。愛は素晴らしいものですわ。ですが――王宮の宴の費用は、愛で支払えるのですか?」


 一瞬、空気が凍りつく。

 誰も反論できず、結局は視線を逸らすだけだった。



 だが、殿下の攻撃は止まらない。

 次は商人たちを抱き込み、「リディア家は支払いを踏み倒している」という偽の噂を流した。


「……呆れますね」

 私は報告を受けて肩をすくめた。


「対策は簡単だ」

 カイルが低く告げる。

「実際の帳簿を公開する。お前の家は清廉だ」


「なるほど。透明性で打ち返す、と」


「そうだ。殿下は証拠を示さない。こちらが誠実であれば、世論は動く」



 数日後。

 私は実際の帳簿を持参し、商人組合の前に立った。


「こちらが支払い済みの証明です。もし殿下の言うことが正しいなら、殿下自ら証拠をお示しください」


 商人たちは互いに顔を見合わせ、やがて深く頷いた。


「リディア嬢の取引に偽りなし」

「王太子殿下の言葉の方が怪しい」


 その宣言で、噂は一気に逆風となった。



 だが――殿下は最後の手段に出た。

 公然と広間で声を張り上げる。


「リディア! お前は契約を利用し、俺を失脚させようとしている! これは国家への反逆だ!」


 人々が息を呑む。

 けれど私は、静かに扇子を開いた。


「殿下。反逆とは、法と秩序を破壊すること。

 ――契約を踏みにじったのは、どちらでしょう?」


 その瞬間、会場にざわめきが走る。

 殿下の言葉は、もはや誰の心も掴まなかった。



 夜更け。

 カイルが私の肩にそっと手を置いた。


「……よくやった」


「いえ。必要なことをしただけです」


「それでも……お前を一人で戦わせたくはない」


 その声音には、冷徹を装いきれない温もりがあった。

 私は小さく微笑む。


「……では、次は隣に立っていただけますか?」


 彼の瞳がわずかに揺れ、静かに頷いた。


「――これより、王家特別審問を開廷する」


 荘厳な鐘の音が響き渡り、王宮大広間は裁きの場へと変わった。

 王族、重鎮、貴族、法務卿が一堂に会し、壇上には国王陛下の姿。

 王太子殿下は緊張に顔を歪め、私はその正面に立っていた。

 隣にはカイル公爵。彼の存在が背中を支えている。



「まず、婚約契約の内容を確認する」

 法務卿が羊皮紙を広げ、淡々と読み上げる。


「一方的な破棄の場合、違約金を全額支払うこと。署名者は王太子レオンハルト殿下。保証人は子爵令嬢マリーネ」


 会場がざわめく。

 殿下は立ち上がり、机を叩いた。


「そんなものは強制されたものだ! 父上、私は無理やり署名させられたのだ!」


「では証拠を示せ」

 国王の一言は鋭く、会場に沈黙が落ちた。



「証拠など……あるものか!」


「でしたら、あなたの主張は根拠を欠きます」

 私は扇子を打ち鳴らし、冷然と告げた。


「この契約書は公証役場に正式に登録されております。無理強いがあったなら、その場で異議を唱えるべきでした」


 殿下の顔が赤く染まり、声を荒げる。


「貴様っ……!」


「殿下、ここは法廷です。暴力的な言葉も契約違反に含まれますよ?」


 人々がくすりと笑い、殿下はさらに追い詰められていく。



「次に、費用の内訳を提出する」

 私は準備していた帳簿を差し出した。


「会場費、衣装代、指輪代、婚約者としての公務経費――すべて領収書付きです」


 法務卿が確認し、深く頷く。


「確かに整合している。これでは誰も否定できまい」


 マリーネが青ざめ、必死に叫んだ。


「わ、わたしは知らなかったの! 本当にただ署名を頼まれただけで……!」


「知らなかったことは免責理由になりません」

 私は淡々と切り捨てた。



「反対尋問を許す」

 国王の声に、殿下は必死に立ち上がった。


「リディア! お前は俺を失脚させるために、この契約を利用している! 国家を揺るがす反逆者だ!」


「殿下」

 カイルが冷徹に口を開いた。

「反逆とは国家秩序を破壊する行為。契約を守ることが秩序である以上、反逆者はどちらだ?」


 その問いに、会場の空気が一気に変わった。


「確かに……」

「殿下こそ、法を踏みにじっている」


 殿下の顔が歪み、唇が震える。



「最後に」

 私は一歩前へ進み、声を張った。


「私が求めるのは、罰ではありません。契約に基づく正当な支払いと、秩序の保持です」


 静まり返った広間に、私の言葉だけが響いた。

 国王が深く頷く。


「裁定を下す。王太子レオンハルト、契約違反を認め、違約金を支払え。加えて、王位継承権を停止する」


 殿下が絶叫する。

「そ、そんな馬鹿な……!」


 だが、誰も同情しなかった。



「――リディア嬢。あなたの毅然とした態度、そして法を守る姿勢は、我が国の誉れである」


 国王の言葉に、会場が拍手に包まれる。

 私は深く礼をし、カイルと視線を交わした。


「よくやったな」

 彼が低く囁く。


「いえ……あなたが隣にいてくださったからです」


 短い言葉を交わすだけで、胸が熱くなる。

 それはもう、ただの契約のための絆ではなかった。


「――違約金、全額を支払え」


 国王陛下の裁定が下った瞬間、広間がざわめきに包まれた。

 王太子レオンハルト殿下は青ざめ、マリーネは泣き崩れる。


「ま、待ってください! そんな額、払えるはずが……!」

「保証人として署名した時点で、あなたも責任を負うのです」


 法務卿の冷徹な宣告に、マリーネは絶望の声を上げた。



「こんな、こんなはずでは……!」

 殿下は膝をつき、わめき散らす。


「愛のために戦ったのに……なぜ誰もわかってくれない!」


 その声に、周囲の貴族たちは冷ややかだった。


「愛を口実に契約を破っただけだ」

「王族としての責任を忘れた報いだな」


 皮肉と失笑が重なり、殿下の姿はみじめそのものだった。


――ざまぁ、である。



「リディア嬢」

 国王が改めて私を見た。

「あなたは毅然と契約を守り、秩序を示した。その功績により、この国は救われたといってよい」


「……過分なお言葉にございます」

 私は深く一礼する。


「しかしながら」

 国王はゆるりと目を細め、隣に立つカイルへと視線を向けた。

「新たな婚姻契約を結んだと聞く。公に承認する必要があるだろう」



「俺とリディア嬢の契約は既に交わされた」

 カイルが一歩進み出て、冷徹な声で告げる。


「だが契約以上のものを、ここで誓う」


 彼は私の前に跪き、片膝をついた。

 会場が息を呑む。


「リディア・エルフォード。俺は、契約としてではなく、一人の男として、お前を生涯の伴侶とする」


「……!」


 胸の奥が熱くなり、息が震える。


「契約……ではなく、愛として……?」


「そうだ。俺は不器用で、言葉も多くはない。だが、お前を守り、支えると誓う」



 広間は静まり返っていた。

 国王も、貴族たちも、誰一人として声を発しない。

 ただ、私の答えを待っていた。


 私は扇子を閉じ、深く息を吸った。


「――はい。私もまた、契約以上に、あなたと共に生きたいと願います」


 その瞬間、会場に大きな拍手が巻き起こった。

 人々の歓声が響き、ざわめきが祝福へと変わっていく。



「リディア……」

 カイルが低く囁く。

 私は小さく微笑み返した。


「今度は義務ではなく、愛として隣に立ってくださいね」


「ああ。約束する」


 彼の手が私の指を包み込む。

 冷たい仮面の下から、不器用な優しさが溢れ出していた。



 殿下とマリーネは、誰も手を差し伸べることなく会場を追い出された。

 社交界に残ったのは、契約を守ることの重み、そして――新たな愛の誓いだった。


 こうして私は、公爵夫人として、そして一人の女性として、ようやく本当の未来を掴んだのである。

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― 新着の感想 ―
痛快破断劇ですね。楽しく読ませていただきました。 りんとした女性の表情がよく描けていたと感じました。
婚約破棄からの溺愛が気持ちよかったです〜! テンポが良くて、サクサク読めました! 契約ではない、真実の愛の誓いが立てられて、読んでてニコニコしました♡
面白かったです。契約に基づき徹底的に論破しましたね。 王子はよくこんな契約を結んだものだと思いますが 王子は契約を軽視していて主人公にはこの結末が見えていたのですかね。
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