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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

真夏の天使に甘いココアを

作者: 宵月碧


 堕ちた天使はどこに行くのだろうか。


 

「はあ? 仕事? そんなん後でいいから来いよ。そう、いつものとこ。待ってるからな」


 通話を終えてスマホをスラックスのポケットにしまうと、アサは短くなった煙草を最後にもう一度吸い込み、青く澄んだ空へ向かって煙を吐き出した。

 少し外にいるだけで、夏の日差しがじわじわと肌を焼く。喫茶店の庇テントの下で煙草を吸っていたこの短い時間でも、額に汗が滲んでくる真夏日だ。


「あっつ……これじゃ翼も焼けちまう」


 シャツの胸ポケットから出した携帯灰皿に煙草の吸い殻を捩じ込み、アサは気怠げに金髪ブロンドヘアをかき上げた。通話のために外に出ていた喫茶店の中へと戻り、窓際の一番奥にあるテーブル席に座る。

 アサが戻ってきたタイミングで、注文していたアイスコーヒーが目の前に置かれた。店員の若い女性に笑顔でお礼を言えば、彼女はぽっと頬を赤らめる。


(やっぱ地上も顔だよな)


 金髪碧眼の顔面もスタイルもいい男が、人待ち顔で窓の外を眺めながらコーヒーを飲む。なんて絵になる光景だろうかと、苦いブラックコーヒーで喉を潤す。

 静かな音楽が流れる店内はエアコンが効いているため涼しく、アサ以外の数人の客は読書をしたり会話を楽しんだり、ゆったりとした時間を過ごしている。昔ながらのこの喫茶店は、退屈な日々を送るアサにとって隠れ家のような存在だ。


 何を見るでもなくぼんやりと窓の外を見ていたアサの視界が、突然黒で染まった。


 窓の外に、黒のスーツ姿でサングラスをかけ、黒い日傘を差した男が立っている。いかにも怪しいその男はアサを見て傘を閉じると、店内へと入ってきた。店員と一言会話を交わし、アサのいる席に迷いなく向かってくる。


「……仕事中だって言ったのに呼び出すなよ、アサ」


「ヨル〜、お前外で見るとほんと暑苦しいな。そんな格好でどうして汗もかかないんだよ」


 相手の不満を無視してアサが言うと、ヨルと呼ばれた男は向かい側の席に腰を下ろした。サングラスを外してスーツの胸ポケットにしまうと、男の灰色の瞳がアサを映し出す。

 黒髪に黒のスーツ、おまけに前髪が左側の目を覆い隠しているので、見ているこちらの方が暑くなる。真夏日だろうが関係なくこの格好を貫く男の傍にいると、自分だけは爽やかでありたいと強く思う。


「今日はなんで呼び出したんだ。家でも会えるだろ」


 ヨルはスーツの上着を脱ぎながら言うと、片手を上げて店員を呼んだ。アサよりも身長の高い無表情の男が、低い声でパンケーキとアイスココアを注文している。顔に似合わず甘党な男を前にして、アサはにやりと口の端を上げた。


「金がないからここの支払いを頼もうと思って」


「……そんなことだろうと思ったよ」


 呆れたように溜め息を溢したヨルは、腕時計に視線を落とした。


「あまり時間がないから、食ったら出るぞ」


「なんだよ、今日はどんなかわい子ちゃんが待ってるんだ? お前に美味しく頂かれるなんて、羨ましいかぎりだよ」


 はっと乾いた笑いを漏らせば、ヨルの眉間に皺が寄った。


「悪魔に喰われて喜ぶ魂がどこにある」


「え〜、俺とか?」


「……物好きだな。天使を喰うのは禁じられている」


 何度も聞いた答えを大真面目に伝えられ、アサは「つまんねーの」と背もたれに身体を預けた。


「アサ、お前また煙草を吸っただろ。不良天使だな」


「そういうキミはクソ真面目な悪魔様ですね」


 ストローでアイスコーヒーをぐるりと混ぜれば、氷がカランと涼やかな音を鳴らす。ブラックコーヒーの苦味も煙草の毒も、慣れてしまえば大したことはない。地上の食べ物や嗜好品の味を覚えてしまった今、何をもって自分を天使と言えるのだろうか。やはりこの美貌だろうか。


 アサは天使だ。美しい見た目や清らかな心を表す比喩ではなく、白い翼を携え空を自由に飛ぶ、天から舞い降りた天使だった。訳あって今は生命が息づくこの地上で人間のように暮らしている。

 同居人は目の前にいる男、悪魔のヨルだ。地上で暮らす相棒と呼ぶべきか、これまた地上よりずっと下から来た、人ならざる者。魂を喰らう者。


 魂の導き手である天使とは相反する存在であり、()()、天使と悪魔は一緒にいない。


「お待たせいたしました。パンケーキとアイスココアになります」


 店員の女性は注文したふたつをヨルの前に並べると、伝票を置いて立ち去る。ヨルの頼んだパンケーキは、見るからにふわふわで、たっぷりの生クリームがのっていた。小さな器に入ったメープルシロップを迷いなくパンケーキに回しかけ、ナイフとフォークで一口サイズに切り分けたそれを無表情で口に運ぶ。


 これから人間の魂を喰らう予定の男が、甘いパンケーキを食べている。いつ見ても不思議な光景だった。


「美味い?」


「ああ」


 短い返事のあと、ヨルは小さく切ったパンケーキをフォークに刺し、アサの口元に近付けた。


「ほら、食ってみろよ」


「いや、俺は別に……」


 いらない、と言おうとして、アサは目の前のヨルを見た。表情に変化はない。スーツを着た大人の男二人が、パンケーキを分け合って食べているなんて、周囲の目にはどう映るのだろうか。


(なに人間みたいなこと考えてんだ俺は……)


 馬鹿らしくなって差し出されるままにパンケーキを口に含んで咀嚼すれば、甘く柔らかなそれが溶けるように口の中で消えていく。


「うまっ」


 思わず漏れた声にはっとして口を押さえると、無表情だったヨルの顔に微かな笑みが浮かんだ。アサはヨルのこの笑みに弱い。人を惑わすような端正な顔に、時々垣間見せるこの甘ったるい微笑。今食べたパンケーキより甘いのだから、憎たらしい。


「そのコーヒーくれないか。俺のをやるから」


「え、なんで」


「パンケーキが甘いから、苦いコーヒーを飲みたい」


「はあ? だったら最初からお前もコーヒーを頼めよ。困った奴だな」


 溜め息混じりに言いながら、ヨルのココアと自分のコーヒーを交換した。一口も飲んでねーじゃんなどと文句を溢して、冷たいアイスココアをごくごくと飲む。甘い。甘くて美味い。


「悪い、ありがとな」


 アサの飲みかけのコーヒーを飲んだヨルは、再びパンケーキを食べ始めた。姿勢よくパンケーキを食べるスーツの男が実は悪魔だなんて、誰が思うだろうか。


 ヨルの口の中へと消えていくパンケーキを見つめているうちに、グラスの底に付いたストローがずずっと音を鳴らした。いつの間にか吸い上げるものがなくなっていたのだ。


 空になったココアのグラスを覗き込み、アサは怪訝な顔で目を瞬く。コーヒーは一向に減らなかったのに、ココアはあっという間になくなってしまった。グラスのサイズはどちらもほとんど変わらないはずなのに、どうして。


 考えたのは数秒だった。アサの頬はみるみるうちに赤く染まり、向かいに座るヨルを思わず睨んだ。


「……わざとだろ」


「なにが」


「ココアだよ。最初から交換するつもりで注文しただろ」


「さあ? なんのことだか」


 ヨルは薄く笑ってパンケーキの最後の一切れを口に入れると、コーヒーをすべて飲み干した。


「アサ、俺はもう行くぞ。お前はどうするんだ?」


「俺も出るよ、金ねえし」


 当然のようにヨルに支払いをしてもらい、二人は喫茶店を出た。涼しい店内から蒸し暑い外へと移動すれば、うんざりするほど照り付ける太陽がアサの色白の肌を焼く。

 ヨルはスーツの胸ポケットからサングラスを取り出してかけると、手にしていた日傘を開いた。真っ黒な傘がアサに差し掛けられると、日差しが遮られて幾分マシになる。


「帰るなら使えよ。無くすなよ」


「差してんのにどうやって無くすんだよ」


 傘を受け取り、アサは不満げに唇を尖らせた。ヨルと一緒に暮らして気付いたことは、この世話焼きな男が全然悪魔らしくないということだった。


「なあヨル、いつになったら俺を喰ってくれる?」


「……天使は喰わないって、何度も言ってるだろ」


「悪魔のくせに、なんでそんなに真面目なんだよ。喰えよ、甘いかもしれないぞ」


「消えたがりの天使の望みを叶えてやらないのも、悪魔らしいと思わないか?」


 ヨルは溜め息混じりに答えると、小さな子どもをあやすようにアサの髪を撫でた。


「退屈ならいつでも呼べばいい。ココアぐらい奢ってやる。それと、煙草はもうやめるように。苦いコーヒーも煙草も、お前には合わないだろ」


 アサのシャツの胸ポケットから煙草の箱を抜き取ると、ヨルは静かに微笑んで背を向けた。


「あ! 返せよ、ヨル!」


 歩き出したヨルの背中に向かって叫ぶと、ヨルは振り返ることなく片手をひらひらと揺らした。次の瞬間にはヨルの身体が足元から影の中へと沈み、その場から忽然と姿を消してしまった。


「アイツ、白昼堂々と消えやがった……」



 ──消えたがりの天使。



「なんだよっ……分かってんなら、喰えよバカ……」



 堕ちた天使はどこにも行けない。


 だからこそ、悪魔に喰われて消滅したい。


 ヨルに喰われて消滅したい。



「ああー……地上はあっつ。ココア一杯じゃ足りねーよ。テイクアウトすればよかった、ヨルの奢りで」


 傘を手に空を見上げて、アサは煩わしい太陽の下を歩き出した。


 取り敢えず家に帰って、エアコンの効いた部屋で眠るとしよう。


 悪魔ヨルを誘惑するのは、そのあとだ。




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