エピローグ
袖触れあうも他生の縁。
:日本の諺
《二〇二五年 ベルリン》
九十五歳のパウラは車椅子に乗って、ひ孫のイルゼと介護士のシュミットと共に木陰で過ごしながら、彼女の長い人生を顧みている。
「あなたたちのお父さんは立派な人だった」
「誇りに思いなさい」
と言い続けた母は一九九一年、八十八歳で亡くなった。表向きでは父が出征したことになっていた戦中から戦後にかけて、何くれとなく家族を気に懸け、世話を焼いてくれた父の旧友レーテ・ダーレンドルフ牧師と一九四八年、再婚した。その頃既に、パウラは親元を離れていたが、レーテはパウラも弟のクリスティアンも我が子同様にかわいがってくれた。
「二人とも本当にオスカーそっくりだね」
とことあるごとに言っていた。実際、パウラは目の色以外は母似、クリスティアンは名前を貰った亡き父方の伯父似と言われており、あまり父に似ていると言う人はいなかったのだが。
父が一九四四年七月に刑死していたことを母とパウラが知ったのは戦後になってからだった。当時十四歳だったパウラには父が出征したのではないことはわかっていた。母と話しあって、まだ幼いクリスティアンには父は戦死したと告げ、成人してから改めて真実を伝えた。
それにしても今日はなんていい天気なんだろう。パウラは澄み渡った青空を見上げる。この国は曇り空が多く、温暖な気候の国の人が滞在すると精神的に参ってしまうと聞いたことがあるが、実際どうなのか。観光客らしい若い東洋人女性が橋の欄干に寄りかかっている。ショートカットと小柄な体のせいもあり、パウラの目には「若」く、子供のようにも見えるが、もしかしたら四十、いや五十近いのかもしれない。東洋人は年齢不詳である。
日本人なのか韓国人なのか中国人なのかもわからないが、何となく日本人ではないか、日本人だといいなと思った。父が時々、「パウラがお母さんのおなかにいた時、日本人がうちに遊びに来たことがある」と話していたので、少し親しみがある。
人種も性別も様々な若者たちの一団が瞳をきらきらさせ、笑いさざめきながら通り過ぎて行く。あの悪夢のような暗黒の時代は遥か時の彼方、父を殺した彼らは未来永劫、全世界から断罪され続け、恥に塗れ続ける。どこからか、マルティン・ルターの「神は我が櫓」の旋律が聞こえる。
パウラは結婚し、子供を二人儲けた。彼らもそれぞれ結婚し、孫やひ孫が生まれたが、パウラの夫は既にこの世には亡かった。
クリスティアンはレーテの影響もあり、本人の熱望もあって、牧師になった。彼も結婚して子孫に恵まれたが、二〇一一年、七十六歳で世を去った。一九七六年に亡くなったレーテと同じ年だった。
橋の欄干に寄りかかっていた東洋人女性が何気なく、左手の甲で鼻を擦り上げる子供のような仕草をした。照れた時やリラックスした時など、父がよくそうしていたことを思い出して、パウラはふと目を留めた。母も弟も言っていたが、奇妙なことに、右利きなのにその仕草をする時だけ左手なのだ。
見つめていると、彼女と目が合った。にっこりと微笑みかけてくる。やさしい、どこか懐かしい、その笑顔。
パウラも微笑みを返した。夏風に木の葉がさやさやとそよぐ。
Ende