第十六話 紅の狼
――――それもそのはず。
デルフィン王子は台頭著しいスペンサー王国にとって、これまで唯一黒星をつけられた相手なのである。
特にレダイグ王国近郊にあるノイラス丘陵での「ノイラス機動戦」は後世にまで語り継がれると謳われた。
騎兵を指揮させることにかけては天才的なデルフィンが、起伏のある丘陵地帯で奇襲、迂回、射撃、さらには騎兵突撃と獅子奮迅の勢いで三倍以上の数を揃えたスペンサー王国軍を散々に撃破した。
これは軍師であるカーライルが戦場を離れていたことも大きいが、何よりデルフィンの軍の移動速度が常識を大きく上回ったためだ。
デルフィンからしてみれば、兵の不足は速度で補うしかなかったからなのだが、それを実現してしまう手腕は尋常なものではなかった。
通信手段が未開なこともあり、ありえないデルフィンの進撃速度に混乱した兵の間で虚報が広まりスペンサー王国軍は半ば自滅したと言ってよい。
「我らこれより死地に入る!」
デルフィンの号令一下、隷下の騎兵は最後の突撃体勢に入った。
しかしそれまで一撃離脱戦法で翻弄されてきたスペンサー王国軍は、デルフィンたちがまた逃げるであろうと考え、追撃するつもりであった。
この意思の齟齬がスペンサー王国にとって最悪の失敗であった。
もしそこに軍師カーライルがいればこの判断はなかったのではあるまいか。
軍団指揮官のオスロスク将軍は無能ではなく、数々の勝利によってその才を証明し続けてきた良将であったのだが、いかにもタイミングと相手が悪かった。
死を決した騎兵の突破力は途轍もない破壊をスペンサー王国軍にもたらした。
軍がぶつかりあってほぼ瞬時に前線は崩壊。
そのまま本陣まで一気に押し込まれてオスロスク将軍は戦死してしまう。
その日スペンサー王国軍は建国以来最大の戦死者を出すという惨事に見舞われた。
国王ロイド一世の即位以来、敗北を知らなかったスペンサー王国がついに負けたという衝撃は、北部諸国に大きな影響をもたらすはずであった。
これでレダイグ王国は救われた――とデルフィンが胸をなでおろしたのも無理はない、が、その時間はごく短かった。
――――いったいなぜ戦場にカーライルがいなかったのか。
彼はそのときすでに内通者の手引きによってレダイグ王国の王宮を制圧しており、レダイグ国王スルヴェンは降伏文書にサインしていたのである。
戦場では勝ったが、戦争ではスペンサー王国の完全勝利であった。
自分が父である国王から謀反人の烙印を押されたことを知ったデルフィンは、腹心だけを伴って西部の山岳地帯へと逃げこんだ。
そして信じていた部下の一人に裏切られ、首をはねられたという。
王宮へ届けられたというデルフィンの首は、長い逃亡生活で判別が難しかったが、国王スルヴェンはこの首をデルフィンのものであると認めた。認めるしかなったのかもしれない。
だからといって安心するようなスペンサー王国ではなく、デルフィンの捜索は続行されていた。
さすがにウロボロスラントまで追及の手を伸ばすことはできなかったようだが。
「まさかこんな魔境で私の顔を知る者に会うとは思わなかったよ」
そういってトルケルは苦笑した。
「デルフィン殿下とお呼びしても?」
「いや、もうトルケルの名に慣れてしまってな。エルロイ殿下さえよければトルケルと呼んでいただきたい」
「ではトルケル殿、私がこうしてウロボロスラントへやってきたのは、ご想像しているとは思いますが国外追放のようなものです。名目だけはウロボロスラント大公となっていますがね」
「で、ありましょうな」
このウロボロスラントは領地として収益をあげるどころか、自分の命を守ることすら危うい魔境である。
開拓団が完全に見捨てられ放置されているのは、どうせ死ぬのが早いか遅いかだけだと思われているからだ。
そんな魔境にエルロイが来たということは、追放されてきたか、あるいは自分のように逃亡してきたかのいずれかであろう。
「その後のレダイグ王国の状況をご存知ですか?」
「一度部下に探らせたが、いかんせんこのソルレイスの村からは遠すぎてな。このところは全く情報がない。ラングドッグ村と違ってここには行商人もやってこないのでな」
知らずともレダイグ王国が窮状にあることくらいは容易に想像することができる。
滅亡こそしなかったが、スペンサー王国の属国となったレダイグ王国は、北部統一のための体の良い使い捨てであった。
軍はスペンサー王国の支配下に組み込まれ、国民は重税にあえいでいる。そうなることがわかっていたからこそトルケルは降伏に反対したのだ。
「どうにかしたいとは思いませんか?」
トルケルは探るような目でエルロイを見つめ返した。
「確かにそう思っていた時期もあるが……今の私は魔境で生き延びるのが精一杯の有様でな」
悔しそうにトルケルは言う。
最初は彼も、いつか故国を奪還するという希望を捨てていなかったかもしれない。
それどころかいつの日かきっと祖国を取り戻すと誓っていた。
しかしこのウロボロスラントで過ごす生活は、彼の夢を打ち砕くには十分すぎるほど過酷なものであったのだ。
いかに軍人として才に恵まれたトルケルであっても。
「――――私はこのまま追放されて終わる気はありません。このウロボロスラントをノルガード王国に対抗できるだけの国へ育てていくつもりです。協力していただけるなら、いずれは私が殿下の望みを支援することも叶うでしょう」
「エルロイ殿下の申し出はありがたい。だが、殿下はまだこのウロボロスラントの現実をわかっていない」
「ある程度はわかっていますよ。先日エルダーサイクロプスを倒したばかりですし」
「はぁ?」
これにはトルケルも驚愕した。
エルダーサイクロプスといえば、トルケルの武力をもってしても時間稼ぎが精一杯と思われる第一級の魔物である。
「そんなまさか――――いや、殿下ならありうる……のか?」
「うそではないぞ? 我がロプノールの里の恩人だと言ったろう?」
「ただ者ではないと思っていたが……殿下が王太子であれば我が国の運命も変わっていたのだろうか」
一縷の望みを託してノルガード王国へ支援を頼みに行ったあの日、まだ王太子デルフィンであったトルケルの希望は無惨に打ち砕かれた。
ノルガード王国はヴェストファーレン王国との同盟を軸に中立を保つと決めていた。
国王サルトー一世は決して暗愚というわけではないが、その性格は保守的なもので冒険心には欠けていた。だからこそエルロイを抜擢する危険を犯さなかったのである。
国家の危機でもなければ、そこそこ優秀な君主といえるかもしれない。だが、残念なことに現実は乱世であった。
「一度は諦めた夢であったが――――殿下の下で叶うのならこれに勝る歓びはなし」
そう言ってトルケルは太い首を下げた。
「これよりは殿下を主君と仰ぎ剣を捧げる所存」
「よろしく頼む。一刻も早くノルガード王国に対抗できる力を手に入れる必要がある。期待しているぞ」
「御意!」
これ以上ない願ってもない成り行きに、エルロイはニンマリと笑みを浮かべた。
元レダイグ王国王太子、紅の狼の異名をとった稀代の戦上手を配下に収めることができたのだ。
王太子でもあった彼は当然のことながら戦争だけではなく内政にも大きく関わっていた。
そんな経験、才能、知識のどれも水準を遥かに超える万能型の人材は、これから国を立ち上げようとしているエルロイにとって喉から手が出るほど欲しかった。
しかもこの先トルケルのレダイグ王国時代の伝手もあてにできるだろう。
現在属国として虐げられているレダイグ国民のなかには、デルフィン王子の救いを望んでいる者が多くいるはずであった。