第08話 西部戦線
ロシア皇帝ニコライ2世による突然の方針転換を受けて、第一次世界大戦の様相は大きく様変わりしていた。
史実では律儀に英仏との同盟を守って東部戦線へと殺到したロシア軍であったが、ニコライことスターリンは英仏ら西側資本主義国を基本的に信用していない。史実の第二次世界大戦で西側がナチスとソ連の共倒れを狙ったように、大戦を利用して国内での改革を進める一方で、あわよくばドイツ帝国と英仏を西部戦線で共倒れさせようとしていた。
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少しばかり、時を遡る――。
「よぉっしゃ~~!」
ドイツ軍参謀本部では、一人の男が天を仰ぐようにしてガッツポーズをとっていた。男の名は、ドイツ軍参謀本部長ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ)。かの有名な大モルトケの甥である。
その手には、今期大戦の趨勢を左右する重要な情報を記した電報が握りしめられていた。
―――ロシア帝国軍、総動員せず。事実上の参戦見送りが確定。
これを受けて小モルトケと、その取り巻きの軍人たちはすこぶる上機嫌であった。理由は言わずもがな、ロシアが事実上参戦を見送ったことによる戦況の好転である。
「これで我が国は二正面作戦を犯さずに済むな。イギリスの参戦は誤算だったが、ロシアの離脱に比べればどうという事は無い」
当時の主な連合国の動員可能兵力はイギリス600万、イギリス植民地250万、フランス840万、イタリア560万、ロシア1200万であり、対する中央同盟国はドイツ1300万、オーストリア780万、トルコ300万となっており、総動員兵力では約4000万VS2500万と戦力差は圧倒的であった。
もちろん数だけが戦争の勝敗を決するものではないが、戦争が長期化すれば倍近くの兵力を有する協商国に対して中央同盟国は不利というのが専門家の一般的な見方である。
しかし転生したスターリンは史実と違ってドイツとの全面戦争を避け、同盟を守るために申し訳程度の攻撃をするというパフォーマンスに終始した。
せいぜいセルビアに軍事物資を送るか、オスマン帝国領内のアルメニア人に武器を送って独立戦争を扇動するといった嫌がらせがほとんどだ。
ドイツ軍にとってはこれ以上ない吉報だった。ロシア帝国が参戦しないとなれば、兵力差は協商国2800万vs同盟国2500万とほとんど拮抗する。セルビアや日本といったその他の協商国の参加を考慮しても、互角以上の戦いが可能だ。
そのためモルトケは東西の部隊配置を史実のアウフマーシュ・II・ヴェスト(西部戦線:東部戦線=8:2)から、原型となったシュリーフェン・プランに忠実なアウフマーシュ・I・ヴェスト(西部戦線:東部戦線=10:0)へと変更する。
さらに史実におけるオーストリア=ハンガリー二重帝国はロシア、セルビア、イタリアの3つの戦線に部隊を3分割して三正面作戦を強いられていたものの、ロシアの攻勢がなくなったことで東部戦線に向けられていたオーストリア軍の3割ほどが西部戦線に向かうこととなった。
これで兵力差は完全に逆転する。
「西部戦線では我が軍が数的優位を保っております。クリスマスまでにはパリを落とせるでしょう」
その日、参謀本部を訪れたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に対して、モルトケは自信満々に勝利を約束した。
「そうか……それは良かった。早く、兵士たちを家族の元へ返してやりたいな」
心底ほっとしたという表情で、ヴィルヘルム2世は前線で苦しい戦いに赴いてるであろう兵士たちの事を慮った。そこには新聞や議会などに登場する、「帝国主義者」ヴィルヘルム2世の面影はどこにもない。
強面で好戦的なヴィルヘルム2世と同じ顔をした、しかし慈愛に溢れた柔和な眼差しを持つ男――こちらこそが、ドイツ皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセンの真の姿であった。
「フランス軍の状況はどうなっている?」
「はっ。ロシアの戦争見送りを受けて、不利を悟ったのか防御に徹しています」
フランス軍の戦争計画『プラン17』では第1軍・第2軍がアルザス=ロレーヌに、第3軍と第4軍はアルデンヌ、そして第5軍はベルギー国境に回されていた。いわばフランス版シュリーフェン・プランともいうべきもので、第5軍がベルギーでドイツ軍を留めている間に、残りの部隊がドイツ領内に侵入するという計画だ。
ちなみに史実では待ち受けていたドイツ第6軍の防衛線を突破できず、更にベルギーも敗走したことでフランス軍は危機に陥ってしまうのだが、ここにもスターリンの歴史改変の影響が表れていた。
「フランスは……ひょっとしてベルギーを見捨てる気なのか?」
少し驚いたような皇帝の口調に、モルトケは何とも言えない微妙な表情を浮かべる。主君の純粋な人柄は尊敬しているが少しは現実を見て欲しい、というのが参謀長であるモルトケの偽らざる本音であった。
「おっしゃる通りかと。フランス参謀総長ジョフルはプラン17を放棄し、第2軍と第4軍をそれぞれアルデンヌとベルギー国境に移動させています」
あっさりと肯定したモルトケの言葉に、ヴィルヘルム2世は沈痛な面持ちで「ベルギー国民には悪い事をしたな……」と呟いた。
なにせ、もともとベルギーは戦争の当事者でも何でもない。自国に何ら関係のないオーストリアとセルビアの諍いに巻き込まれたあげく、「フランス侵入にちょうどいい位置にいるから」というドイツの一方的な理由で国土を蹂躙されたのだ。
当然、ベルギー国民は激怒する。国王アルベール1世は「ベルギーは道ではない。国だ」と述べ、国土を守ることが王族の義務として軍に徹底抗戦を呼びかけた。
しかし小国ベルギーが大国ドイツに勝てるはずもなく、頼りの同盟国フランスにも見捨てられようとしている……。
「くれぐれも捕虜の扱いは丁重にな……」
「陛下、お気持ちは分かりますが――」
「分かっておる。余はドイツの皇帝だ。もし我が国の兵士に危険が及ぶようなら、迷わず毒ガスで殲滅しても構わぬ……」
ヴィルヘルム2世から言質をとって、モルトケもやっと渋面を解いた。彼とてベルギーの中立を侵犯したことに良心の呵責を感じていない訳ではない。
だが、それ以上に今回の戦争はあらゆる意味で規格外だった。機関銃や鉄条網といった新兵器が次々に登場し、信じられないほどの勢いで兵士が死んでいく。ドイツの勝利は揺るぎないだろうが、少しでも気を許せる状況では無いのだ。
実は作者はドイツ帝国も好きだったりします。ドイツ国防軍もカッコいいけど、ドイツ帝国軍もまたドイツ国防軍には無い魅力があるんですよね。