第05話 秘密警察
皇帝は工業化に必要な財源を貴族たちへの課税によって確保しようと目論んでいる―――ロシア帝国ではそんな噂がまことしやかに囁かれるようになっていた。そして事実、スターリンはこれを実施するつもりであった。
「我々が国家を決めるのではない。国家が我々を決めるのだ」
これまでバラバラな個人の寄せ集めだったロシア帝国を、1つの巨大な戦争マシーンに作り替える……それが皇帝となった自分に与えられた使命だと、スターリンは考えている。
戦時においては誰もが国家という戦争機械の歯車であり、そこに例外は無いのだ。大きさは違えども、ひとたび動き出せば全体が決められた通りに動かねばならない。貴族も、農民も、そして皇帝たるこの自分さえも――。
しかし、この件においてもスターリンは貴族たちには何も期待していなかった。愛国心に燃えた彼らが自発的に協力してくれる、などという虫のよい幻想は抱かない。
人を動かすのは心ではなく、肉体である。必要なのは精神論や道徳教育ではなく、それを実現するための物理的な「力」なのだ。
そしてスターリンの中で力とは、党・軍・秘密警察という3種の神器を意味する。この3つが相互補完的に機能している限り、独裁政権というものは基本的に崩壊しないものだ。
どれほど民衆が政権打倒を叫ぼうと、職業兵士である軍との間には絶対的な戦力の差がある。そして軍隊が支配者に逆らわないための安全装置が、内務監査のプロである秘密警察の存在だ。
そこで秘密警察の持つ最大の武器は、皮肉なことに国民自身の中に潜む「密告者」の存在だ。密告を奨励し、国民の間に相互不信の種を植え付ける。いつどこで誰が裏切っているか分からない状態では、成功の確率は低くなるし、賢い者ならそこで諦めるだろう。
(史実では秘密警察を軽視したばかりに、ロマノフ朝は滅んだ。革命が目と鼻の先まで迫っていたにもかかわらず、秘密警察の勧める弾圧や監視の強化といった強硬策を拒否したのがニコライ2世の限界だった……)
恐らくこの体の元の持ち主は、唯一絶対の権力者である皇帝として生まれ育ったばっかりに、軍も民衆も自分に無条件の忠誠を誓ってくれるに違いないと無邪気に信じ込んでしまったのだろう。だが結果的にはどちらにも裏切られ、その代償を自分自身と家族の命で払うことになったのだ。
(しかしそのような愚を、儂は犯さない)
ロシア帝国の後を継いだ、ソビエト連邦はこの教訓からよく学んだ。
つまるところ、「軍隊を信用し過ぎるな」である。スターリンがあれほど秘密警察を重視したのも、こうした理由からだった。
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「………失礼いたします、陛下」
「コルニーロフか。入れ」
アジア系の軍人が恭しくスターリンに敬礼を捧げる。
男の名はラーヴル・コルニーロフ。遊牧民の末裔たるコサックの家に生まれ、日露戦争での勇猛な戦いぶりを評価されていた。英語、ドイツ語、フランス語、ペルシャ語、ウルドゥー語を修めるなど語学に堪能であり、外交官や探検家としてインドや中国、カザフスタンなどに出向いた経験もある。
(コサック共は敵に回せば厄介だが、味方につければこれほど心強い連中もいない)
帝政ロシアには正規軍のほかにザバイカル・コサックやクバーニ・コサック、アムール・コサックなど様々なコサック軍が存在した。平時には農耕を行って有事には軍務を行うことを条件に、440万人ほどのコサックが特別軍管区での特権的な土地使用を認められていた。
中でも最大の勢力がコルニーロフ率いるドン・コサック軍で、軍役のほかに警察業務をも担っていた。史実では150万人もの兵力をほこり、ロシア内戦では白軍に属してスターリンら赤軍を恐怖のどん底に陥れた。
(少数派というものは、常に多数派の専制を恐れているものだ。彼らが求めているものは一定の地位とその安定であり、ひとたびそれが与えられたならば積極的な体制の擁護者となる……)
かつてコサックを「反革命分子」と見なして徹底的に弾圧したスターリンであったが、「権力の確立」と「対ドイツ戦争」という差し迫った目的の前に方針を一転、彼らを重用することにした……自らも少数民族のグルジア人であるスターリンは、多民族国家における少数民族の扱い方というものをよく心得ていた。
政治勢力としての少数民族は厄介だが、少数民族の兵士ほど独裁者にとって信頼できるものは無い。数で劣る少数民族は有力者と組むことで、常に多数派に対して質的優位を維持しようとする。
これは歴史的にも珍しい事ではなく、たとえばフランス革命の中で最後まで王室に忠誠を誓った部隊はスイス人の傭兵だった。フランス人の兵隊は、同じフランス人を殺すことが出来なかったのだ。
ソ連においても同様だ。最も有名な秘密警察長官であるベリヤはグルジア人であるし、創始者のジェルジンスキーはポーランド人だった。クロンシュタット軍港で反乱を起こしたロシア人水兵を叩き潰したのは、中央アジア人からなる軍団だった。
「本日付けで、軍役従事中のコサック兵をロシア帝国内務省・警察部警備局所属の正規部隊『ロシア国内軍』とする。貴官らには国家の盾として、国内の治安維持や主要拠点の警備を担当してもらう」
現在、ロシア帝国には約450万のコサックが居住しており、うち30万人が軍役に従事している。既存の秘密警察に力不足を感じていたスターリンは、コサック兵を内務省に編入することで軍事力を大幅に増強した。これで自国民に銃を向けられない軍と、火力に乏しい警察では対抗できない大規模な反乱も鎮圧できる。いわば「自国民と戦うための軍隊」だ。
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それからもう一つ、スターリンがコサック軍を既存の軍隊機構から外したのには理由があった。
「コサック軍団の機械化は進んでいるか?」
スターリンの問いに、コルニーロフは自信ありげに頷く。
「問題ありません。陛下の希望される『機甲部隊』の設立に向けて、装備と訓練の更新も順調に進んでおります」
第二次世界大戦でドイツ軍による電撃戦の威力を思い知らされたスターリンは、高い機動力をほこる機甲部隊の設立をコルニーロフに命じていた。
手始めに予算の許す限り、アメリカのホルト社(後のキャタピラー社)に対して農業用トラクターを発注している。これをロシアで改造し、装甲や機関銃などを装備して史上初の「戦車」部隊を設立するのだ。
「ホルト社のトラクターは堅牢で故障が少なく、また履帯によって不整地走行も可能な点が兵士と技術者から高い評価を受けております」
コルニーロフの返事に、ニコライは大きく頷いた。気温差が大きく、雪解けで大地が泥まみれになるロシアにとって上記の2点は絶対に譲れない。
「まぁ、最初は“馬の方がいい”などと文句を垂れる者もおりましたが、その場で撃ち殺してから機甲部隊はすこぶる順調です」
「仕方あるまい。時代に付いていけぬ愚か者はどこにでもいるものだ」
いつの時代も、新しい兵器や兵科は既存勢力からの激しい反発を受けると相場が決まっている。スターリンがあえて正規軍ではなくコサックを、そして陸軍省ではなく内務省の管轄下で機械化部隊を設立したのはそうした混乱を避ける意味合いも含まれていた。
(これからの時代は、機械化部隊が勝敗を分かつ鍵となる。他国に先んじてこの運用に成功すれば、軍事的優位は揺るぎないものになる)
とはいえ、この時代の戦車は性能も低い上にロシアの工業力では大量生産も不可能。そこでスターリンは騎兵としても名高いコサック軍に目を付けた。
第一次世界大戦で無用の長物になったと思われがちな騎兵だが、塹壕戦となった西部戦線における陣地攻撃に向かないというだけで、戦場の広大な東部戦線やロシア内戦、ソ連・ポーランド戦争では高い機動力を生かしてそれなりの活躍を見せている。
(機動戦を行える高性能戦車は後から作ればよい。まずはその運用ノウハウを確立する事と、それを実行する組織を作り上げること……それには騎兵が一番だ)
下がれ、とコルニーロフに命じるスターリンの脳裏では、来るべき戦争への備えが幾つもシミュレートされていた。
幸い、自分には未来を知っているという圧倒的なアドバンテージがある。それを使わぬ手は無い。同時代の人間が知りえぬ情報を使ってロシアを世界一の超大国にする……それがスターリンの野望だった。
ロシアの軍事史を語る上で外せないコサック兵。いきなり大規模な機械化部隊は無理なので、まずはコサック騎兵を中心に機動戦に対応した部隊の創設から。