第49話 鉄の男
1930年――。
スターリンが前世で74歳で急死し、転生してから17年が経った。スターリンは前世を含めれば91歳、ニコライ2世の肉体でも62歳の老人となっていた。
1914年から1919年まで続いた第一次世界大戦、そして1929年に発生した世界恐慌という2つの世界的な事件は、確実にスターリンの精神とニコライの肉体を蝕んでいった。長年の過酷な内憂外患と戦う日々に身を削ってきたその心身は、もはや限界に近づいていたのである。
皇帝ニコライ2世最後の試練となった世界恐慌であるが、キッカケは覇権国となったアメリカの連邦政府が貿易黒字を維持するために、金本位制を歪めたことが最大の原因だと言われている。
金本位制には本来、貿易収支の不均衡を解消するメカニズムが存在していた。
アメリカの輸出が伸びて貿易黒字になった場合、支払いとして外国通貨(金)が流入する。すると固定レートで金と紐づけられたドルの貨幣量は増加し、物価の上昇すなわちインフレが発生するのだ。
しかし固定相場制のもとでは変動相場制と違い、外国通貨とドルの交換レートは変動しないため、物価の上昇はそのままアメリカ製品の国際競争力が失われることを意味する。
例えば1ドル=300円の固定相場制のもとで10ドルのアメリカ製品を日本が購入するには3000円が必要だが、アメリカ国内で物価の上昇=インフレが生じて10ドルのアメリカ製品が15ドルになった場合、日本は同じ製品を購入するのに4500円も支払う必要が生じるため、輸入品を購入しづらくなって国産品が相対的に有利になるのだ。
こうして①輸出の増加➡②貿易黒字による金保有量の増加➡③貨幣供給量の増加➡④物価の上昇➡⑤国際競争力の低下➡⑥輸出の減少、というサイクルで、金本位制のもと国際収支は安定していくはずだった。
しかし、アメリカ政府と国民は貿易黒字こそが繁栄の鍵だと思い込み、政府が市場に介入することで金本位制のシステムを歪め、結果的に大規模な金融恐慌を引き起こしてしまう。
具体的には、政府が公開市場で債券の売りオペレーションを行なって金の流入を不胎化し、物価の上昇を回避したのである。
つまりアメリカは「固定レートのもと、外国から金が流入して金保有量が増大すれば貨幣量も増大させ、外国へ金が流出して金保有量が減少すれば貨幣量も減少させる」という金本位制の原則を、‟政府が債権を売却することで市場から貨幣を吸い上げ、貨幣供給量を抑えて物価の上昇を妨害する”という裏技で破ったのだ。
そのため「外国から金が流入して金保有量が増大しているのに、貨幣量は増えず物価が上昇せず国際競争力も下がらない」という状況になり、金の保有量と通貨供給の結びつきが遮断されてしまう。
当初、このような裏技は金本位制に備わっていた「金の枷」という金融安定化システムを脱し、永遠の貿易黒字と永遠の繁栄をアメリカに約束するかに思われた。
しかし諸外国にしてみれば、永遠にドル安が続けば、永遠に自国の輸出が振るわなくなるということである。輸出部門の不振は諸外国の購買力を徐々に低下させていき、やがてはアメリカ製品を輸入する事すらできなくなってしまう。
結局、通貨切り下げ競争は短期的にはアメリカの貿易黒字を増加させたものの、長期的には外国経済の低迷によって世界規模での貿易額それ自体が減少してしまうことにより、輸出不振というブーメランとしてアメリカ自身に跳ね返ってしまった。
ところが貿易不振に対してアメリカがとった対応は、またもや近視眼的な保護貿易政策であった。
当時のフーバー政権は自国民を保護すべくスムート=ホーリー関税法と呼ばれるこの法律を通過させ、回復してきたロシアから輸出される農作物に対して多額の関税をかけて国内市場から締め出すことで、困窮する自国の農民を保護しようとした。
最終的に2万品目を超える商品に対して平均で40%もの記録的な高関税をかけることとなり、ロシア皇帝ニコライ2世の激怒は当然のこと、イギリスのラムゼイ・マクドナルド首相までもがアメリカに対して強い口調で非難声明を出すことになる。
こうして猛反発した各国もアメリカと同じく一斉に輸入品に高関税をかけたため、世界規模で国際貿易が縮小していき、アメリカ発の恐慌は世界レベルの恐慌にまで発展していった。
そして世界恐慌によって国際貿易と国際分業体制が機能不全に陥ると、当然ながら各国は「自給自足」を目指していくことになる。
最初に動いたのはロシア帝国であり、皇帝ニコライ2世は動揺する国民に向けて即座にメッセージを発信した。
「我々には豊かな資源がある。豊富な人口もある。今こそ我々は、我々の経済を、我々自身の手に取り戻すのだ! 今後は政治や社会の問題ではなく、経済においてもナショナリズムが求められるであろう!」
いち早く自給自足経済圏の確立を目指したロシア帝国は早速、愛国心に訴えた‟経済ナショナリズム”運動を発足させ、傀儡国や同盟国と共に関税同盟を作りあげた。
これは後にブロック経済と呼ばれ、ロシアを中心とする『ルーブル・ブロック』を皮切りに、自由主義陣営であるはずのイギリスでも自国と植民地を中心とした『ポンド・ブロック』を作って自給自足経済圏を作る流れが加速していく。
ところが実際に自給自足できるだけの資源、人口、工業力、市場を持ち合わせた国はアメリカ、イギリス、ロシアの3つのブロックだけでしかなかった。
大日本帝国の『円・ブロック』やフランス第3共和国の『フラン・ブロック』、ドナウ帝国の『クローネ・ブロック』、金本位制の維持を呼び掛けたムッソリーニのイタリア王国に応じたベネルクス諸国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、スカンディナビア諸国(ノルウェー、スウェーデン、デンマーク)、スイス、ギリシャの9ヵ国からなる『金・ブロック』は、すぐさま資源不足と市場不足に購買力不足という難題に直面する。
また、旧ドイツ帝国の後継国家であるライン同盟とドイツ帝国連邦の間では『統一マルク・ブロック』という統一ドイツ経済圏を作る構想が持ち上がったものの、結局はそれぞれのバックについているイギリスとロシアの共同介入で失敗する。
そのためライン同盟はポンド・ブロックに加盟し、ドイツ帝国連邦はルーブル・ブロックに加盟することになったものの、かえって単独でマルク・ブロックを作るよりも大きな市場と豊富な資源を手に入れられることに気づく。
ライン同盟はイギリスとその植民地に、ドイツ帝国連邦はロシアとその同盟国に、それぞれ工業製品を輸出することで迅速に立ち直っていった。
このドイツの事例を見て、諸外国でも「長い物には巻かれろ」式の大規模ブロック経済圏への加盟が検討され、まずフランス第3共和国が最初に自国ブロック経済を放棄し、イギリス主導のポンド・ブロックに加盟する。
続いてドイツ帝国連邦との経済関係が強いドナウ帝国がルーブル・ブロックに加盟し、大日本帝国も円・ブロックを放棄して最大の輸出先であったアメリカのドル・ブロックへと加盟していく。
最後に残った金ブロックも解体され、所属していた9ヵ国の全てが経済的な結びつきの強いポンド・ブロックへと加盟した。
残る国々のうちオスマン帝国やアフガニスタン王国、サウジアラビア王国など中東諸国はルーブル・ブロックに加盟、日本の影響が強い中国はドル・ブロック、ラテンアメリカではメキシコと中央アメリカが共産主義陣営に加盟し、アルゼンチン・パラグアイ・ウルグアイ・ボリビアはポンド・ブロックに加盟、残るブラジル・ベネズエラ・ペルー・エクアドル・チリ・キューバ等はドル・ブロックへと加盟した。
こうして世界経済はアメリカのドル・ブロック、イギリスのポンド・ブロック、ロシアのルーブル・ブロック、そして計画経済の共産フランスの共産圏という4つの経済圏に大まかに分かれることで、どうにか世界恐慌から表面的には脱することに成功したのであった。
しかし資源が圧倒的に不足している共産圏ではすぐに物資不足という問題が露呈し始め、レーニン亡き後に政権を継いだ若きモーリス・トレーズ書記長のもと、「世界革命」を大義名分として自給自足経済圏の確立に向けた対外進出路線へと急傾斜していくことになる。
また、ドル・ブロックに入った日本やポンド・ブロックに入ったイタリア、ルーブル・ブロックに入ったドナウ帝国でも「これでは実質的に外国の経済植民地ではないか」という不満がくすぶり始め、ブロック経済体制にも徐々に亀裂が入り始めていた。
特に大日本帝国とイタリア王国では経済的な結びつきから渋々ドル・ブロック、ポンド・ブロックに加盟したものの、民主主義や人権といった政治体制や文化の違いが早くも摩擦を引き起こし始め、反米・反英感情は日に日に強まっていった。
イタリアのムッソリーニは自給自足可能な独自の「生存圏」の確立に向けてエチオピア侵攻の準備を進め、「敵の敵は味方」という論理から日本および共産フランスとの提携をも視野に入れ始めるようになる。
ムッソリーニはユーゴスラビアとギリシャ、さらにエジプト、スーダン、チャド、ソマリア、そしてサウジアラビアまでを含む「イタリア帝国」構想を提唱し、軍拡路線へと舵を切っていく。
また、同時期に大日本帝国でも「大東亜新秩序」なる、独自の生存圏を構築する動きが軍部を中心に進められるようになる。
日本・満州・中国を一つの経済共同体として統合、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置付けた「大東亜共栄圏」を実現するべく、日本もまたイタリア同様に軍拡を推し進めていった。
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こうした嵐の前の静けさとも言える状況の中、ひとつのニュースが世界を揺るがせる。
――ロシア帝国、ついに立憲君主制に移行す。
様々な内憂外患に翻弄される度にそれを乗り越えてきた皇帝ニコライ2世であったが、歳と共にもはや体力・気力の衰えは誰の目にも明らかであった。
それでも大戦を勝利に導いた英雄として、神格化された皇帝の権威は押しも押されもされぬものであったが、唯一の息子である皇太子アレクセイにそれほどのカリスマやリーダーシップは望めない。
むしろ先帝が偉大であればあるほど、次代に対して国民は辛口な評価をしがちであり、そのプレッシャーから強気の外交をせざるを得ず、ついには退位まで追い込まれた親戚のヴィルヘルム2世のような末路を辿ってしまう可能性もある。
しかも皇太子アレクセイは、重い血友病に冒されていた。
(やはり、儂がやるしかあるまい……)
当時のニコライ2世は日頃の不摂生がたたって重い糖尿病を抱えており、改革を先送りするという判断もあり得た。
しかし皇帝の中に宿ったスターリンの魂は、残された体力と気力を限界まで振り絞って最後の改革に踏み込む。
皇帝ニコライ2世は、これまで自らが依拠してきた専制政治に、自らの手で幕を下ろしていく決断をしたのである。
「時代は変わる。だが、大きな社会の変化があってもロマノフ朝は常に絶えることなく、今日この日まで続いてきた。それはすなわち、時代の変化と共に皇室の在り方もまた変化してきたからに他ならない」
もちろん、軍の長老となったコルニーロフを始め多くの側近たちの中には、こうした改革に慎重な者も少なくはなかった。
ある意味で皇室、そしてツァーリの権威というものは伝統に付随するものであり、その伝統を変えるということは自らの権威を自らの手で傷つけるようなものだ、という見解にも一定の説得力はあったからである。
そして実際にこの決断と改革は、既に糖尿病に加えて心臓病にも冒されつつあった、皇帝ニコライ2世の命を文字通り削るものであった。
――だとしても。
己が心に決めたことを、鉄の男が完遂しなかった事は一度としてない。鉄の意志と鋼の決意は、老いてなお健在であった。
「ツァーリ、しいては皇室の在り方、あるいはロシア帝国という国家の国体が変わっていくことを、伝統の断絶だと考える者はもいるだろう。余はそれを完全に否定するつもりはない。だが、敢えて言おう―――それは進化であると!」
軍隊・秘密警察・教会に強い影響力を持ち、翼賛議会においても圧倒的な権威をもって君臨するツァーリ親政の根幹にかかわる改革は、他ならぬツァーリ自身の手によってでしか成しえぬものであった。
世界恐慌の原因、だいたいアメリカ政府の不胎化介入が悪い。(まぁ、今の変動相場制でも似たようなダンピングできるから、国際貿易・国際分業体制の維持にはWTOとかで国際協調する必要があるんですが)
逆にブレトン・ウッズ体制では日本やEU諸国が固定レートなのをいいことにアメリカに輸出しまくった結果、アメリカ国内の金保有量がとんでもなく減ってドルを裏付ける金が足りなくなってしまうという。
そうなると「‟360円=1ドル=1/35オンスの金”と交換できるってアメリカ政府が保証してるけど、本当に1ドル=1/35オンスの金と交換できるほどの金保有量がアメリカにあるの?」って疑問が出てくるわけでして。
そこで一応、固定相場制を維持するために1ドル=308円に切り下げ、というスミソニアン体制への移行が計られてた時期もあって、「小まめに固定相場レートを変更することで、固定相場制を維持する」という発想もあったんですけど。
「頻繁に各国代表が集まって相談して為替レートを決める相談するのも大変だし、いっそ固定相場制を放棄して変動相場制にした方が楽なのでは?」ということで現状の変動相場制になったという流れなんですよね。
ただ、通貨の価値=金保有量で裏付けられていた金本位制の固定相場制(ブレトン・ウッズ体制も厳密にいえば、ドルをアメリカの金保有量で裏付けていた金本位制)と違って変動相場制=信用本位制=管理通貨制度だと、通貨の価値=その国の信用という数量的に計算しづらいものになり、しかも中央銀行は自国通貨を無限に発行できるため、景気対策のための金融緩和で限界を甘く見積もってハイパーインフレを引き起こしやすい、という問題も。