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皇帝になった独裁者  作者: ツァーリライヒ
第8章 新世界へ
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第48話 新たなる秩序


 おびただしい犠牲者を出して終結した第一次世界大戦は、戦後秩序にも大きな影響をもたらしてゆく。



 まず、協商国であるはずのイタリア王国では犠牲の割に得るものが少なかった講和条約に対する不満の声が大きくなり、1922年にはムッソリーニ率いる黒シャツ隊による「ローマ進軍」が成功した。


 しかし史実と異なり、ムッソリーニは極右のナショナリスト協会を切り捨てる一方で、強大化した左派の社会党に妥協を強いられる形で連立政権を発足させる。


 ムッソリーニは「極右・極左の両方の過激思想から国家を守る」と宣言し、右派の国家ファシスト党、中道右派の自由党・人民党、中道左派の社会民主党、左派の社会党まで全て取り込んだ「国民ブロック」を形成した。


 理想主義者でありながら穏健な現実主義者でもあったムッソリーニは、ロシア型の挙国一致内閣を成立させて協商国に留まりつつ、フランスのレーニン政権とも友好協力相互援助条約を締結して良好な関係を維持するという外交方針へと舵を切っていく。





 そしてトロツキー攻勢によってフランス第3共和国を植民地へ叩き出したレーニン政権もまた、1920年にパリを首都とする「フランス社会主義共和国」を成立させ、初代共和国議長にはウラジーミル・レーニンが就任した。


 レーニン政権は後にスペイン内戦が始まると共和国政府を支援し、これによってスペイン内戦は最終的に左派の人民戦線政府が勝利することとなる。

 スペインでは王政が廃止され、新たに「スペイン人民共和国」が成立、世界で3番目の社会主義国となった。




 ちなみに世界で2番目の社会主義国となったのはアイルランドで、1919年にアイルランド義勇軍が警官を襲撃する事件を起こしたことをきっかけに、義勇軍は全土でイギリスからの独立を目指して武力闘争を開始した。


 対するイギリスも「ブラック・アンド・タンズ」と呼ばれる王立アイルランド警察特別予備隊を組織し、無慈悲な弾圧で独立を阻止しようとする。



 しかし国土を統一したフランスのレーニン政権はこれまでと打って変わってアイルランドへの支援を約束し、ロンドンで亡命中だった共産主義者レフ・トロツキーを始めとする大勢の義勇軍が参戦した。

 内戦状態に陥ったアイルランドでは徐々に共産主義者が反乱軍の中で勢力を伸ばし、1922年に北アイルランドを残して「アイルランド民主共和国」が成立した。




 そしてアイルランドで革命が成就した後、革命家トロツキーは同国の統治を理論家ニコライ・ブハーリンに託し、自身は政情不安が続いていた中央アメリカへと渡った。


 トロツキーはニカラグアのジャングルでアメリカ海兵隊と政府軍相手にゲリラ戦を展開していたアウグスト・セサル・サンディーノ将軍と接触、ラテンアメリカでの共産主義革命を目指していく。

 当初こそアメリカ海兵隊相手に苦戦していたものの、後に発生した世界恐慌によってアメリカ軍が撤退すると、ついにニカラグアにてラテンアメリカ初の共産主義政権が誕生する。


 その後も世界恐慌で独占資本への不満が高まる中、トロツキーは実質的にアメリカのユナイテッド・フルーツ社に支配されていたエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカで立て続けに社会主義革命を成功させていき、「現代のシモン・ボリバル」の異名をとるようになる。



 そして革命家トロツキーのカリスマのもと、前述の中米6カ国は「中央アメリカ社会主義共和国連邦(UCASR)」を設立、外資企業や大地主に支配されていた土地を没収して農民に分配し、アメリカ合衆国に大きな衝撃を与えた。


 しかし、後にトロツキーは無神論の立場から宗教勢力を弾圧したため、秘書の恋人になりすましたテロリストによってピッケルで暗殺されている。公式には宗教弾圧に反発した宗教過激派の仕業とされているが、ロシア帝国の関与も疑われており、真実は定かではない。



 トロツキー亡き後の中央アメリカ連邦は、晩年の盟友であったアウグスト・サンディーノが跡を継いで2代目議長となった。


 サンディーノ議長は「現在の中央アメリカ連邦は、共産主義革命実現に至る過渡期」である定義し、それを「キリスト教共産主義」と名付けた上で無神論を緩和し、カトリック教会との提携を提唱する。

 カトリック教会の方も「万物は神の財産であり、財産は私有より共有すべき」と社会主義国家の建設を支援して体制支持に加わったため、中央アメリカでは共産党と教会が強く結びついた独特の社会主義体制が構築されていく。


 こうして中央アメリカ連邦は宗教ネットワークを利用することで中央集権化と国民統合を進めていき、同じく社会主義的な政策をとったメキシコのカルデナス大統領と連携してアメリカに対抗した。





 そして本国を追われたフランス第3共和国はアルジェリアにて亡命政府の成立を宣言し、アフリカの大地から国家再建を行うことを決断した。


 しかし敗北の責任をとってクレマンソーが辞任すると、亡命者をまとめ上げて共産主義者に対抗するには文民政府では力不足であるとの声が亡命者を中心に湧き立ち、『第2次ユニオン・サクレ』と呼ばれる挙国一致政府が成立するも、その実態は軍部による軍事独裁政権であった。


 亡命者の政府は憲法改正を行い、フランス第4共和政の成立を宣言する。その中心にいたのは共和国3元帥と呼ばれる、フェルディナンド・フォッシュ、ジョゼフ・ジョフル、フィリップ・ペタンの3人であり、軍部の実力者3人による支配は「三頭政治」と敵対者から揶揄された。


 フランス第4共和国は約2000万人の人口を抱えたものの、うち白人は200万人程度で混血が100万人ほどという典型的な植民地支配体制であり、さらに白人のうちでも40万人ほどしかいない本国からの亡命フランス人が指導的な地位を占めていた。




 さらに極東では、戦勝国となった大日本帝国でもロシア帝国をモデルにした挙国一致内閣と軍部主導の権威主義体制を目指す機運が高まっていく。


 日本も世界大戦により中国や朝鮮において一定の利権を得たものの、戦後恐慌の影響で中小企業の多くが倒産して財閥の支配下に組み込まれる事となり、独占資本の形成が加速して貧富の格差が拡大した。


 一方で議会では保守化した立憲政友会が財閥・地主と癒着して金持ち優遇政策を続ける一方で、都市中間層を基盤とする憲政会はバラマキを中心としたポピュリズムに走り、経済政策ではひたすら不毛な中傷合戦が繰り返されることとなってしまう。


 互いの足を引っ張り合うだけで「決められない政治」は国民の間には議会と民主主義への失望を蔓延させ、より「強いリーダーシップ」を求める機運が高まっていき、ロシアをモデルとした挙国一致内閣=大政翼賛会構想へと支持は日に日に強くなっていた。



 こうした状況下で唯一、二大政党が妥協できたのは外交問題で、「帝国主義を推し進め、大陸の植民地利権を拡大する」という呉越同舟の中、軍部が台頭していくのは時間の問題であった。


 そして軍部内部でもロシア帝国型の「皇族を中心に据えた挙国一致体制のもと、富国強兵=開発独裁を進めてゆく」という思想に惹かれる者が増えていき、決められない政治に嫌気の差した国民の強いリーダーシップを求める声と相まって、愛国的ポピュリズムとも呼べる権威主義体制へと傾倒していく。


 そのためイタリアと同じように外交的には中立を保っていたものの、国体がロシア帝国のそれに近づいていくのは時間の問題であった。




 また、中国では日本とロシアの介入により、驚くべきことに北京政府で清朝が復活して宣統帝・溥儀が再び皇帝として復位した。


 しかし第二次大清帝国では「君臨すれども統治せず」という立憲君主制がとられ、皇帝という権威と政府という権力は分離されることになる。

 裏を返せば、実態としては北洋軍閥の連立政権という北京政府の実態は大して変わっていないということでもあり、皇帝・溥儀もまた軍閥に担がれた神輿以外の何物でもなかった。


 そして新たにロシアの支援を受けるようになった華中を基盤とする直隷派の呉佩孚と、日本の支援を受ける華北を基盤とする張作霖は不安定な連合を組みつつ、華南を基盤とする蒋介石率いる中華民国の北伐に対して一進一退の果て無き消耗戦を繰り広げていく。




 こうして戦後の欧州は自由主義のイギリス、共産主義のフランス、権威主義のロシアの3勢力が互いに睨みを利かせる状態となる。



 主な対立軸は「個人主義 vs 集団主義」であり、自由な個人の権利を重視するイギリス陣営と、社会全体の秩序・国益を重視するフランス・ロシア陣営が対立した。



 しかし共産主義のフランス陣営と権威主義のロシア陣営では、個人の利益より集団の利益を重視する点は同じでも、「理性主義」に対して前向きなフランスと後ろ向きなロシアの間には対立構造が生じる。


 伝統や慣習よりも「理性」に信頼をおくべきだと考えられたフランスでは社会の変化・改革に積極的であり、逆にロシアでは「理性」に懐疑的で長い歴史の中で生まれた慣習や伝統的な権威を重んじ、社会の変化や改革は共同体を破壊する危険思想だと考えられた。


 そのため共産主義陣営では(少なくとも建前上は)タテの関係性が否定され、身分・人種・性別・年齢などによる差別を認めず平等権が重視されたのに対し、権威主義のロシアでは「区別は差別にあらず」として「適材適所」をスローガンに「高貴なる義務」と引き換えの特権擁護、人種隔離政策、男女の役割分担、年功序列などが重視された。



 実際、ニコライ2世は男子普通選挙を実施したものの、理論的な支柱は自由民主主義のリベラル式の平等主義には求めなかった。


 むしろリベラル型の平等主義の行き着いた「国民国家」を「たまたま偉大な国家に生まれただけで、自分まで偉大になったと勘違いする国民による衆愚政治の極致」と貶したことすらあり、ニコライ2世は男子普通選挙についてどちらかといえば‟現代のローマ市民権”と考えていた。


 すなわち、徴兵という国家への奉仕に対して、国家から報酬として選挙権なり年金が与えられる、という伝統的な「ご恩と奉公」型の市民共同体という発想だ。


 ここでいう「市民」とは、たまたまその国に生まれただけで年金などの社会保険とセットの国籍を与えられる「国民」とは違い、まさしく「徴兵=兵役」という「共同体への奉仕」を通じて「共同体の一員」として認められた者たちを指す。



 それゆえロシア帝国の普通選挙が‟男子”普通選挙に限定されたのは当然の流れであり、年金や社会保障といった権利も「国民の基本的権利」ではなく、「兵役」という「高貴なる義務ノブレス・オブリージュ」に対する正当な報酬としての特権=市民権だと考えられていた。

 

 そのためロシア帝国のおいて女性と外国人の地位は低かったものの、それは「兵役」という国家の義務を果たしていないがゆえに当然の結果と言えよう。

 女性や外国人といったマイノリティの側も従軍してまで政治的権利を得ようという者は多くはなく、不平等を仕方ないものとして受け入れていた。


 裏を返せば徴兵逃れをして諸権利だけを得ようとするロシア人男性は、血統だけで特権を正当化するかつての貴族と同様であり、ロシア帝国において徴兵逃れは社会的に非常に不名誉なものとされた。



 そのためロシア帝国におけるマイノリティ差別は「徴兵制」を通じて、ある程度は正当化できるものであったという見解もある。


 むしろロシア人に言わせれば、自国民男性の多くが徴兵という義務を果たしていない志願兵制であるにもかかわらず、外国人参政権を否定したり男女格差、人種差別の残るイギリス陣営の方が「ジョン・ブルらしい二枚舌」とのことであった。



 実際、数こそ僅かではあるが、自ら志願して兵役を務めあげたマイノリティにはロシア人男性と同じ「ロシア市民権」が与えられ、選挙権・被選挙権・年金・社会保障といった諸権利を与えることが法律でも定められている。



 ロシア帝国において「市民」と「国民」は全く別の存在であり、兵役という国家への義務を果たした者に与えられる「ロシア市民権」には選挙権や年金など様々な権利が付随していた一方、たまたまロシアに生まれただけ・ロシア人の親を持っただけの者に与えられる「ロシア国籍」には、裁判権や法の保護といった最低限の保障しかなされなかった。



 こうした論理は西欧式の自由民主主義とは似て非なるもので、むしろ古代ローマを彷彿とさせる「ロシアの特色ある民主主義」は、まさしく「第3のローマ」であるロシア帝国に相応しい体制でもあったのだ。


 


 もっとも、実際には細かいところを見ればどの陣営も矛盾だらけであり、互いが自分を棚に上げつつ相手の矛盾を指摘して攻撃し合う、という構図がどこでも見られた。




 このうち自由主義陣営は盟主にイギリスをいだき、オランダ王国、ライン同盟、ノルウェー王国、ポルトガル共和国、デンマーク王国、亡命フランスなどがこれに属し、共産主義陣営は盟主のフランス社会主義共和国を始めスペイン人民共和国とアイルランド民主共和国、中央アメリカ社会主義共和国連邦がこれに属した。


 そして権威主義陣営はロシア帝国を始めルーマニア王国、ポーランド王国、クルディスタン王国、アルメニア王国、イラク王国、ブルガリア王国といったロシアの傀儡国が属し、これにドイツ帝国連邦とオスマン帝国、ユーゴスラビア王国、アルバニア王国といった国もロシアの同盟国として加わることになる。


 一方で大戦を通じてモンロー主義を貫いたアメリカ合衆国に加え、イタリア王国、ドナウ帝国、大日本帝国、スイス連邦、スウェーデン王国、ギリシャ王国といった国家は中立を堅持し、隣接する陣営の間で微妙な外交バランスを維持することに腐心していく。




 こうして成立した戦後秩序は「ブレスト=リトフスク体制」と呼ばれ、崩壊したウィーン体制に代わって国際社会の基本となった。



 表向きは「共産主義を抑え込む」という点で自由主義陣営と権威主義陣営が手を組むという構図になっているものの、「敵の敵は味方」以外の何物でも無く、表立った敵対こそ無くとも両陣営は常に互いの足を引っ張り合うという構図が見られたのである。

 

経済面

 市場経済(イギリス陣営、ロシア陣営)vs計画経済(フランス陣営)


政治面

 自由主義(イギリス陣営)vs権威主義(ロシア陣営、フランス陣営)


 まぁ、ロシア陣営は基本的に良くも悪くもシンガポールみたいな‟民主主義の皮を被った「開発独裁」体制の官僚国家”だと思っていただけば。

 自由民主主義と全体主義の中間的な権威主義で、選挙はあるけどむしろ「選挙で勝ちさえすれば、政権は何をしてもいい」といったポピュリズムとも親和性が高いです。


 一応、3陣営とも「民主主義」を自称してますが、実態としては以下の形です。

イギリス陣営(自由主義)

自由主義要素:言論・思想の自由あり

民主主義要素:選挙権あり


ロシア陣営(権威主義)

自由主義要素:言論・思想の自由なし

民主主義要素:選挙権あり


フランス陣営(共産主義)

自由主義:言論・思想の自由なし

民主主義要素:選挙権なし


経済については、

イギリス陣営:市場経済(夜警国家・小さな政府)

ロシア陣営:混合経済(開発独裁・大きな政府)

フランス陣営:計画経済


 また、イタリアや日本、ドナウ帝国などは陣営に加盟してないだけで、国体はロシア陣営寄り。


 最後にジェンダー問題や外国人問題について、ロシア帝国では「ロシア人男性は徴兵されるんだから、女性や外国人より優遇されて当然」という論理で格差が正当化されております。


 例えるならロシア人男性=ローマ市民、女性・外国人=属州民といった関係性となっており、「兵役」という「高貴なる義務」を果たしたか否かで権利(市民権)にも差が生じる、といった形で国籍=市民権ではない点が国民国家とは似て非なるポイント。

  


また、要望の多かった戦後地図については、近日中に投稿したいと思います。

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― 新着の感想 ―
[一言] 清朝が復活するという曲芸的な中原の処理。惚れ惚れしますね。
[一言] クロアチア王国が独立してるって『第48話 新たなる秩序』で書いてませんでした?
[良い点] 1.更新ありがとうございます。 皇帝に返り咲いてよかったね、溥儀くん!(捨て駒にされないとは言っていない) という戯言はさておき、トロツキーは史実通りの最期だったのは意外でした。(もはや…
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