第46話 ヨーロッパの解放者
――来年のクリスマス・イブは、本国で家族と共に。
ロシア帝国軍はこれを合言葉に、満を持して一大反攻作戦である『スヴォーロフ作戦』を発動した。
そしてエストニア~ラトビアに展開するドイツ軍の正面に、400キロにわたる戦線を構築する。動員兵力は200万を数え、120万人が作戦正面に展開された。
「縦深攻撃」と後に名付けられるこの作戦のためには膨大な火力と兵力を必要としたが、ロシア帝国は内線という地の利を生かして運河や鉄道に道路、ソリから馬車に船まで使えるモノは何でも使って兵力を国内からかき集めていく。
その甲斐あってか、人口では1憶7000万とドイツの約2.5倍(ドイツは7000万)で工業力まで考慮した動員兵力は両国とも1200万ほどと同レベルにもかかわらず、スヴォーロフ作戦のためにロシア帝国軍は総兵力の3割に及ぶ約200万人を参加させた。
対するドイツ軍の兵力は動員兵力と総兵力ではさほど違いはないにもかかわらず、バルト方面に展開できた兵力は約100万人程度でしかなかった。
この背景にはペトログラードの敗北で守勢に回らざるを得なくなったことから戦争の主導権を握れなくなったこと、さらに夜間行軍や通信封鎖に擬装陣地の構築といったロシア軍の徹底した欺瞞作戦によってその主攻正面がバルト(北部)方面なのかベラルーシ(中部)方面なのかウクライナ(南部)方面なのか絞り込めず、やむを得ず兵力を分散せざるを得なかったという事情がある。
かくして猛烈な砲撃の後、ロシア帝国軍はバルト地域を奪還すべく進軍を開始した。
これに対応したドイツ帝国軍・バルト方面軍もロシア軍の攻勢が近いことを予想しており、特に南のベラルーシに近い戦線から時計回りに旋回し、自軍の背後を絶つ形で一気に包囲殲滅を狙う可能性が高いと予測していた。そのため「柔らかい下腹部」となるベラルーシからの攻撃に備え、こちらも強固な陣地を築く。
しかしブルシーロフらはその裏をかき、敢えてバルト方面を平押しする形で総攻撃を開始した。
ロシア軍の総攻撃に対してドイツ軍は機動防御で迎え撃とうとするも、ロシア軍の圧倒的火力がそれを阻んだ。
ドイツ軍の6倍に匹敵する1万門近くの砲兵による濃密な支援砲撃を受け、全方位から総攻撃するロシア軍の前では身動きが取れず、突破区域に騎兵と機械化部隊、航空隊を集中させて急進するロシア軍に各地で分断・包囲されていく。
特に火力の逆転は決定的で、急降下爆撃機と重砲とロケット弾の組み合わせは歩兵突撃の障壁となるドイツの砲兵陣地を徹底的に破壊し、ロシア軍のスムーズな移動を助けた。
航空戦においてもロシア帝国はこれまで温存していた、アメリカ・イギリスから供与された大量の航空機・義勇兵パイロットを惜しげも無く投入し、消耗戦に持ち込むことで徐々に制空権を奪っていく。
そしてトドメは、エストニアの首都タリンへのイギリス・ロシア連合軍の強襲上陸だった。
『バルクライ作戦』(イギリス軍ではウェリントン作戦)と名付けられたこの水陸両用作戦は、イギリスからロシアに対して提案がなされている。
強力な海軍力を持つ英国ロイヤル・ネイビーの支援の下、バルチック艦隊とロシア海軍歩兵1個師団、そして英国海兵隊1個師団がそれぞれ割り当てられた区域に上陸するというもの。
ドイツ軍の後背地に上陸することで補給線を遮断し、東西からエストニア~ロシア国境に展開するドイツ軍を挟撃。そのまま海岸沿いにリトアニアまで進軍してドイツ本国への退路を断ち、ドイツ軍の予想とは逆に反時計回りに旋回して包囲殲滅を狙う作戦だ。
上陸地点のタリンにいるドイツ守備隊は少数でさほど問題にならないと判断されたものの、最大の障害は未だ本国に温存されているドイツ海軍である。
これについてはイギリス海軍が陽動をかけ、バルト海への転用を封じるとされた。
「なんとしてもガリポリの雪辱を晴らしてみせる!」
この作戦はロシア軍の「スヴォーロフ作戦」の援護という大義名分のもと、イギリスの軍需大臣チャーチルが半ば強引に進めたものだった。
ガリポリ上陸作戦に大失敗したチャーチルは傷ついた名声を回復する手段を模索しており、政治生命の起死回生を賭けて反対を押し切ったのだ。
しかも「共同作戦をやった」という政治的アピールのためだけに、わざわざノルウェー周りでムルマンスクへと海兵隊を送り込むという念の入れようである。
(チャーチルのデブに花を持たせるのは気に食わんが……三女のマリアの見合い話とか、戦後交渉とかまで見据えて恩を売っておくのも悪くはないか)
皇帝ニコライ2世ことスターリンは前世の因縁からチャーチルを嫌っていたが、作戦それ自体の有効性と政治的な重要性を優先することにした。
バルチック艦隊だけではドイツの太洋艦隊とガチンコ勝負になれば荷が重く、イギリスの世界に誇る大艦隊が敵を引き付けてくれればそれに越したことはない。上陸作戦のための海兵隊まで提供してくれる。
(漁夫の利狙いだった大祖国戦争の時と違って、随分と我が国に有利な条件だ。イギリスの国益というより、チャーチルの誉が優先されている。だが、悪い話ではない)
かくして作戦は粛々と進められ、まずユトランド沖にイギリスの大艦隊が出現した。そしてドイツ海軍の主力が誘因された隙を見計らい、バルチック艦隊が総力を挙げて出撃する。コルチャーク提督の細やかな采配の元、バルクライ作戦は粛々と進められた。
―――上陸作戦は成功。ドイツ軍の抵抗は軽微なり。
結果的に、作戦は成功した。
もっとも、コルチャークやイギリスのビーティー元帥ら海軍の司令官たちは、これがさほど困難な作戦とは思っていなかった。
そもそもガリポリのような10万を超える大部隊の上陸作戦ならともかく、その半数以下であれば難易度も下がる。
何より要塞化された狭い海峡という最悪の場所に無理やり上陸したガリポリと違い、占領したばかりで要塞化もされていない平坦なエストニアの海岸―――それもロシアの首都ペトログラードからさほど離れていない―――となれば、条件をひとつづつクリアしていけば十分に実現可能な範囲だった。
しかし「ロシア・イギリス連合軍がドイツ軍の後背地に上陸作戦を成功させた」という政治的・心理的なインパクトは大きく、ロシア・イギリスの将兵の士気は大きく向上し、対するドイツ軍のそれは大幅に低下した。
ここまで来ると流石のドイツ軍も総崩れとなり、あとは各地に孤立した敵を殲滅するだけとなる。
指揮系統が混乱に陥る中、組織的な撤退もままならず、ドイツ軍は急速に崩壊していった。反撃はパタリと止み、敗残兵は次々に投降を始めていく。
ロシア軍の捕虜になった、とあるバイエルン軍の伍長は「オーストリア軍が助けに来ると聞かされていて、それだけを頼りに戦った。しかし待てど待てど、そんなものは来なかった」と語り、憔悴して項垂れていた。
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「酷いな、こりゃ」
エストニア方面を担当していたコルニーロフは、捕虜の列を眺めながら辺りを見回す。
周囲にはドイツ軍がほこった戦車や大砲などの資材があちこちに放置され、おびただしい数のドイツ兵の死体が転がっていた。飢えた彼らが食したであろう牛馬や豚、鶏の骨が山をなし、捕虜にしたドイツ兵も身元を確認してみると2割ほど現地で徴兵した若者が混ざっている。
(ドイツ軍はもはや組織としての体をなしていない……散り散りになった各部隊が、生き延びるために勝手に戦っているだけだ)
捕虜を尋問したところ、ペトログラード攻勢の終盤には既に補給の限界を迎えていたことも明らかになった。
ドイツ兵の食料はかれこれ1か月ほど定量の半分にされ、兵士の体力は限界に来ている。小銃弾に不足はないが、砲弾の補給は途切れがち。戦況は不利、飢えで体力は消耗、連日の爆撃と砲撃で士気は崩壊していた。
(ドイツ軍はすぐにでも軍隊としての力を失うだろう。我々は勝ったのだ)
すぐさまコルニーロフはペトログラードへ電話を入れた。
――これより、我々は続けて攻勢に転ずる。予備兵力を全て投入し、連続的な攻勢を継続するのだ。それはベルリンのブランデンブルク門の下をくぐるまで続けられるだろう。
実際にコルニーロフの言葉通り、それから半年も経たないうちにロシア軍はついに旧来の国境線を回復した。皇帝ニコライ2世は自ら前線を視察して将兵をねぎらい、感激を新たにした。
かつて欧州全土を支配下に置こうとしたナポレオンを破ったアレクサンドル1世になぞらえ、皇帝ニコライ2世もまた「ヨーロッパの解放者」としての名声を不動のものとする。
そしてこれ以降、ドイツ軍が主導権を回復することはなく、ロシア軍の攻勢の前にじわじわと敗退を重ねていく。
――仮にここで皇帝ニコライ2世が功を焦って下手な賭けに出て失敗すれば、まだドイツ軍に逆転の目はあったかもしれない。
特に戦争の長期化による民衆の不満はどの国にとっても大きな悩みであり、ロシアでも戦争の早期終結を訴える国内世論に押される可能性もゼロではなかった。
しかし皇帝ニコライ2世はそうならないよう、普通選挙を通じた翼賛議会と戦時挙国一致内閣という民主主義の皮を被った強固な権威主義体制を巧妙に構築していた。さらにペトログラードの勝利とスヴォーロフ作戦の成功は、ロシア帝国首脳部の戦争指導に対する不満の声を完全に封殺した。
加えてアメリカから潤沢なレンドリースや直接投資を受け入れたこともあり、ロシア帝国は真綿で首を絞めるように、じわじわと確実に中央同盟の息の根を止めていったのである。
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それから更に半年後には、ついにロシア帝国の旗がベルリンのブランデンブルク門に翻った。
ドイツ帝国は臨時首都をハンブルクへと移動させたものの、各地で戦争反対を訴えるデモやそれに便乗した共産主義者の反乱が南ドイツとハンガリーで発生する。
内憂外患の状態に追い込まれた中央同盟諸国は連合国の圧力に屈し、社会主義者の反乱鎮圧の手助けと引き換えに講和の申し出を行った。
かくして1919年6月28日、ついにブレスト=リトフスクで講和条約が締結された。調印式の夜、ラジオを通じて全ての戦線で砲声と銃声が止んだ。
シュリーフェン・プランが発動されてから、実に5年の歳月が流れていた。
WW2に例えると、イメージ的には以下のような感じになります。
・ペトログラード攻防戦・・・モスクワ攻防戦&スターリングラード攻防戦
・スヴォ―ロフ作戦・・・バグラチオン作戦
・バルクライ作戦(ウェリントン作戦)・・・ノルマンディー上陸戦
まぁ、史実で1944年6月に東部戦線でバグラチオン作戦が、西部戦線でノルマンディー上陸作戦がほぼ同時期に開始されてからドイツ降伏まで1年ぐらいあるんですが、本作でもそんな感じです。ただ、割と消化試合なので端折りました。
次回から戦後交渉です。