第41話 審判の日
(まだ、足りない……)
タチアナは塹壕に隠れながら、双眼鏡で彼我の戦力差を冷静に分析する。
(少なくとも、最悪の状況は脱した。けれど、まだ主導権はドイツ軍が握っている。もし、予備が残っていたら……)
今のロシア軍の状況は、辛うじて浸水を防いだ沈みかけのオンボロ船だ。ツギハギだらけで船員も手一杯。別の戦線に部隊を回せるほどの余裕はなく、ドイツ軍が予備部隊を他に回してしまえば、そこから戦線に穴が開いて広がってしまうかもしれない。
「電話で本部に状況を確認したいとこだけど、さっき敵の砲撃だか爆撃だかで回線やられちゃったし……どうしよ」
その時、一人の兵士が馬に乗って走ってくるのが見えた。まだ若い兵士だった。
「たっ、タチアナ皇女はどこでありますか!」
戦場で女性は珍しい。タチアナが手を振ると、すぐその青年は彼女を目に留めた。
「司令部より、手紙を預かりました!」
兵士の言葉に、タチアナは少し違和感を感じた。
(こんな忙しい中で、わざわざ自分宛に手紙?)
自分で言うのもアレだが、肩書こそ将官とはいえ実態はお飾りでしかない。皇族だって一応は従軍して戦ってるんだから貧乏人の兵士ども逃げるんじゃねぇぞ、という軍に一体感をもたせるための象徴的な効果がメインである。
例外があるとすれば、先ほど自分がやったような「皇帝の娘」というプライベートな立場を利用した政治的な行動だ。
「ひょっとして……」
なんだか嫌な予感がする。
不安を抱えたまま手紙を開くと、かくして予想通り見慣れた筆跡であった。間違いなく、父ニコライ2世が自分宛てに書いて寄こしたものだ。しかも、筆跡から珍しく焦ったような節がある。
そこには簡潔にこう書かれていた。
―――タチアナ、今すぐ逃げろ。無理なら塹壕に。これから、まとめて全て吹っ飛ばす。
「……ねぇ、ちょっと聞いてもいいかな?」
恐る恐る、タチアナはこの手紙を届けた兵士に問いかける。
「この手紙、いつ書かれたか分かる?」
「はっ! まるひとまるまる、でありますッ!」
いかにも教練通りといった、コッチコチの軍人さながらの返答。更に兵士は続ける。
「まるふたまるまるまでに届けよ、という命令でした! が、途中で道に迷って遅れてしまいましたッ!」
申し訳ございませんッ!と勢いよく綺麗な直角に腰を折った兵士に、タチアナは少し吹き出しそうになる。勢いのある青年の元気な姿を見ていると、こんな状況でも少しばかり勇気づけられるような気がした。
「あ、時間を見るんだった」
ちらり、と腕時計を見やる。皇族らしくスイスの職人たちが腕によりをかけた製作した特注品の時計は、寸分違わず精確に時を刻む。
―――02時45分。
「えぇ……」
正直、ちょっとシャレにならないレベルで際どい。あの父ニコライ2世が勢いづいてやる事といえば、どうせロクでもないハイリスク・ハイリターンな劇薬ばかりというのを鑑みると猶更だ。
「……えーっと、君、名前は?」
「第10騎兵師団所属! ゲオルギー・ジューコフ軍曹、でありますッ!」
「ゲオルギー君、今すぐ皆に塹壕に隠れるよう大声で叫んでくれない?」
「はッ!」
そしてジューコフ軍曹が大音量で退避を叫んだ直後、大地を震わすような凄まじい衝撃が、ペトログラードに降り注いだ。
――――轟音――――
まるで大地を震わす神の怒りのように、圧倒的なまでの威力だった。それはドイツ兵を吹き飛ばし、強固なはずの砲兵陣地すら粉々に打ち砕いた。
タチアナたちのいた場所だけではない。全ての戦線にその轟音は響き渡り、爆心地は一瞬のうちに巨大なクレーターへと変貌していく。それはまるで、偉大なるツァーリの怒りを体現しているかのような光景であった。
タチアナは、何が起こったのか理解できなかった。
ただ、先ほどまで目の前で熾烈な砲火を浴びせてきた、ドイツ軍の陣地が跡形も無く吹き飛んでいる事だけは分かった。そして強固なドイツ軍の陣地があったはずの場所には、変わって荒涼とした巨大なクレーターが広がっていることに。
「砲兵じゃない……」
ぼそり、と隣でジューコフ軍曹が呟いた。その端的な言葉を受けて、タチアナはようやく事態を理解した。
そう、砲兵にここまでの火力はない。あそこまで大きなクレーターを作るには、30cmは超える口径の大砲が必要だ。だが、それが可能な唯一の兵器をタチアナは知っていた。
「……ガング―ト級戦艦」
***
「……ようやくのお出ましだな」
その音を聞いた瞬間、ウランゲリは乾いた笑いを漏らしていた。
「……やっと来たか」
マンネルヘイムは、ようやく肩の荷が下りたかのように安堵の表情を浮かべて地面に座り込む。
「待っていたぞ」
たまたま馬上にいたコルニーロフは、無意識のうちに拳をぐっと握りしめていた。
「戻ってきてくれた……!」
冬宮殿の執務室にいたクロパトキンは、書きかけの書類を放り投げてバルコニーから身を乗り出す。
――自分は、この砲声を知っている。
――久しく聞くことの無かった、その名前を知っている。
そして、複数の口が同時にその名を叫んだ。
「「「「バルチック艦隊!!!」」」」
かつて日本海で海の藻屑と消えた、栄光と恥辱に塗れし世界最強の艦隊。その名をロシア帝国海軍バルト艦隊、通称バルチック艦隊という。
***
バルチック艦隊司令長官アレクサンドル・コルチャーク提督は、旗艦『ガング―ト』の艦橋から双眼鏡で燃えるペトログラードを見つめていた。
老齢の士官が再装填の完了を報告すると、コルチャークは厳かに命令した。
「痛いのを食らわせてやる。――――てぇッ!!」
次の瞬間、横を向いたガング―トの主砲・52口径3連装砲4基が一斉に火を噴いた。船が傾くほどの威力と共に轟音が響き渡り、わずかに間をおいてペトログラード市内に着弾する。
「次弾装填!」
「装薬、急げ!」
「撃て! 撃ちまくれ!」
ガング―トだけではない。その他の軽巡洋艦や装甲巡洋艦までもが加わり、艦砲射撃による圧倒的火力でドイツ軍の陣地を火の海にしていく。
戦果を確認しながら、コルチャークが呟く。
「できれば、他の戦艦も連れてきたかったんだがな」
再建されたバルチック艦隊には、最新鋭のドレットノート級戦艦が4隻も配備されていた。
しかし2番艦『ペトロハバロフスク』、3番艦『ポルタヴァ』、4番艦『セヴァストーポリ』はバルチック艦隊主力を引き連れ、ウェーデン沖を移動中であった。当初はドイツ軍の目を欺くために全軍でペトログラードの母港を出港していたものの、途中で夜闇に紛れて一部の艦艇を引き連れたコルチャークが戻ってきたのである。
ペトログラード攻防戦において、最も脅威だと考えられたのはドイツ帝国海軍のバルト艦隊であった。
ティルピッツの海軍拡張政策によって大艦隊を保有するようになったドイツ帝国海軍は、バルト海にも弩級戦艦10隻と軽巡洋艦8隻を展開させている。これが海に面した首都ペトログラードに突入すれば、戦艦の艦砲射撃による圧倒的火力は大きな脅威になると思われた。
もちろんロシア帝国海軍バルチック艦隊には、これを妨害する役割が期待されていた。しかし司令長官であったコルチャークは、正面から戦っても勝てる見込みは薄いと判断する。代わりにコルチャークが考えたのは、こちらから先に艦隊を動かすことでドイツ海軍を陽動しようという作戦だった。
艦隊決戦を挑むフリをしてドイツ海軍を引き付ければ、しばらく時間は稼げる。実際、ドイツ軍は見事に陽動に引っかかり、今でも全軍で主力の追跡に当たっている。
「しかし陛下も、思い切った賭けに出られたものだ」
皇帝ニコライ2世は単なる陽動には満足せず、コルチャークに艦隊の一部で首都防衛の支援に回るように求めた。
もちろん、その分だけバルチック艦隊主力は減少するので、万が一にでもドイツ海軍に補足された場合には一方的に攻撃されかねない。しかもドイツ海軍が途中で陽動であることに気づいた場合、こちらが一方的に各個撃破される可能性すらあったからだ。
それでもコルチャークがこの壮大な博打に打って出たのは、何としても日露戦争での雪辱を晴らしたいという強い想いがあったからだ。
(日本海海戦で、我ら栄光あるロシア海軍の名声は地に落ちた………私はなんとしても、バルチック艦隊の名誉を取り戻して見せる……!)
当時、コルチャークは水雷艇の艦長として旅順攻防戦に参加していた。戦後は海軍参謀本部に入り、壊滅したバルチック艦隊の再建に尽力している。それだけに、名誉回復にかける思いには並ならぬものがあった。
リスクを恐れて渋る提督たちを、コルチャークは一人一人を熱心に説得して回った。
「万が一、首都ペトログラードが落ちるようなことがあれば、艦隊が無事であっても無意味だ。我らバルチック艦隊は帰るべき母港を失い、バルト海を彷徨う臆病者の敗残兵に成り下がってしまう! それでは何のためのバルチック艦隊か!」
コルチャークの熱弁を受け、バルチック艦隊の将兵たちも心機一転、何としても往年の雪辱を削いで見せると息巻いた。
最悪、艦隊が壊滅しようとも、栄光あるバルチック艦隊の名誉だけは取り戻して見せようぞ―――。
かくして、コルチャークの賭けは吉と出た。
皇帝ニコライ2世の半ば思い付きともいえる投機性の高い提案を、アレクサンドル・コルチャーク個人の信念によって作戦として実行可能なレベルまで具現化し、見事に戦況を一変させたのだった。
**
こうして両軍の総力を挙げた攻防戦は日が昇るまで続き、ちょうど朝日が昇り切るころに決着がついた。
勝敗を決めたのは、弾薬量の数であった。ドイツ軍の補給が先に切れ、援護射撃の間隔が徐々に伸びていき、やがてぱったりと途絶えていく。
そして完全に敵が沈黙した後、コルニーロフは砲撃の停止をロケット部隊に伝達した。馬を駆って前線を視察すると、そこにはドイツ兵の累々たる死体と撃破された戦車十数両の残骸が転がっていた。
この夜の戦いは、長きにわたったペトログラードの戦いの中でロシア帝国軍が初めて掴んだ完全勝利であった。損害は両軍ともに甚大なものであったが、ドイツ軍にとっては予想外なレベルであったのに対し、ロシア軍にとっては予想の範囲内であった点は大きく異なっていた。
精強な軍隊との誉れ高いドイツ軍は以降、往年の輝きを取り戻すことはなく、補給に支障をきたしてついに撤退へと動き出す。その後も散発的な反撃を何度か受けたものの、ロシア軍はペトログラードを守り切ったのであった。
ドイツ軍は乏しい補給、疲労の極みにある兵力でよく戦ったが、ペトログラード目前で攻勢限界点を迎えていた。最後の全面攻勢は戦力の限界を超えた作戦であり、残されていた貴重な前線部隊をすり潰す結果に終わってしまう。
無敵を誇ったドイツ軍は首都を目前にして、ついに力尽きたのである。
コルチャーク「戦艦が簡単に沈むか!」