第40話 ロシアのいちばん長い夜
タチアナにとって、その日は忘れられない戦いとなった。
「夜明け前に敵の後方へ夜襲をかけてもらいたい。敵が混乱している間に、正面突撃を行う」
ドイツ軍の攻撃が日に日に低調になっているのを見て、コルニーロフは敵が限界に達していると判断した。ついに防御から攻撃へ、反撃すべき時が来たのだ。
タチアナ率いる騎兵連隊はその先鋒として、夜の闇に紛れてドイツ軍陣地へ忍び込み、後方から敵を撹乱すべく奇襲攻撃を行うのが任務だ。幸い、ドイツ軍の斥候に見つかる事も無く浸透に成功する。
(よし、なんとか全員配置についた。後は作戦予定時刻になったら、一斉に攻撃するだけ……)
タチアナが懐中時計を確認していたその時、一斉に夜が昼に変わった。
(しまった! まさか、待ち伏せ―――!?)
流石のタチアナもここに至って、完全に敵の罠にはめられた事を悟る。途中、敵の斥候に見つからなかったのは、敢えて警備を薄くしていたからなのだろう。
(ドイツ軍の指揮官もバカじゃなかった……そろそろ私たちがしびれを切らすと予想して……!)
タチアナは急いで退却を命令した。ロシア軍騎兵連隊はパニックを起こし、隊列を維持するまもなくてんでバラバラに逃げ出していく。
ようやく友軍の陣地に到着すると、そこには険しい顔をしたコルニーロフがいた。
「状況は!?」
「敵の待ち伏せです! 我が軍の騎兵部隊は潰走しています。再編を行わないと使い物にならないでしょう」
タチアナの報告にコルニーロフは一瞬だけ作戦の中止を考えるが、すぐに首を振る。
「作戦は続行する。多少被害は大きくなるかもしれんが、ようやく掴んだ勝機だ。血に塗れてでも掴んで見せる」
「ですが、敵は強力なA7V戦車を数十両も並べて突撃してきています。持ち応えられるでしょうか?」
「待つのは性に合わん。こっちから出向いてやる」
コルニーロフは部下に命じて、大量の照明弾を打ち上げる。見れば、ドイツ軍が先頭に戦車や装甲車を数十両も並べて、突撃してくるのが見えた。背後には無数の歩兵部隊が続いている。
「撃て! 撃ちまくれ!」
ロシア軍のあらゆる火砲が火を噴いた。砲兵は段幕を張り、迫撃砲は砲身が歪むまで撃ち続けた。歩兵も手榴弾や火炎瓶を次々に投げ込み、機関銃がドイツ軍の歩兵をなぎ倒した。夜のペトログラードは赤い銃火に染められ、轟音で満たされてゆく。
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こうして十字砲火合戦は数時間続いたが、ドイツ軍の方も一向に退かない。
(まずいな、味方が徐々に浮足立ち始めている。こちらは新兵が多い。ベテランのドイツ兵に比べ、疲れが堪るのが早いのだろう)
コルニーロフの懸念は現実のものとなり、ついに右翼を守っていたマンネルヘイム隊の一角が敵の攻撃に耐えきれずに崩れ始めた。
「コルニーロフ将軍!」
マンネルヘイムが血相を変えてコルニーロフの下へやってくる。
「一台で構いません、戦車を下さい」
「自分が乗って突撃するとでもいうのか? それで逆襲に転じられるとでも?」
「そうです」
皮肉に真顔で返したマンネルヘイムを見て、コルニーロフは失望の想いを隠せなかった。
戦には流れがある。ひとたび敗北という流れに乗ってしまえば、敗残兵は使い物にならない。将が一人がんばったところで、孤軍奮闘は全体の趨勢を変えるに至らないだろう。
「でしたら、私に考えがあります」
マンネルヘイムに助け舟を出したのは、タチアナだった。
「もう1時間、耐えて下さい。戦局を変えてみせます」
何をする気かと思っていると、さっそくタチアナは電話を掛けた。何かの許可をとっているようだが、なんと相手は皇帝ニコライその人だった。夜中にもかかわらず皇帝を叩き起こすという暴挙に、コルニーロフとマンネルハイムは信じられぬという顔をする。
「これは負けてられませんな。では、戦車を借ります。支援砲撃もよろしく」
「おい、マンネルヘイム!」
コルニーロフの制止も聞かず、マンネルヘイムは近くにあった戦車に勝手に乗り込み、退却中の歩兵師団の方へと走っていく。
「見ろ! これが戦車だ!」
初めて間近で見る戦車に、退却中の歩兵部隊も思わず足を止めた。
「撃たれたくないのは分かる! だが、退却したら銃殺刑だ! どっちに進んでも地獄だが、ひとつ良い方法がある!」
マンネルハイムは拳を振り上げ、兵士たちに叫ぶ。
「戦車の後ろは安全だ! 敵に背中を見せるぐらいなら、私の戦車に付いてこい!」
そう言うが早いが、マンネルヘイムはそのまま敵軍めがけて前進していく。その場に居合わせた兵士たちは一瞬面食らった後、顔を見合わせてマンネルヘイムの後を追うように付いていく。
マンネルヘイムの戦車の後ろに隠れられる幸運な兵士は、数で言えば10人にも満たないだろう。
だが、自分たちの指揮官が大声を上げながら戦車で敵に突っ込んでいき、それに続く兵士がいるのを見た退却中の兵士は、味方の反撃が始まったものと勘違いした。それこそがマンネルハイムの狙いだったのだ。
「反撃だ!」
いち早くその意図を悟ったフルンゼが続くと、少しづつマンネルヘイムの周りに兵士が集まり始め、しまいには全員がその場に踏みとどまって反転攻勢に転じていた。しかしドイツ軍の方も粘り強く、ついには対戦車砲がマンネルヘイムの乗った戦車を撃ち抜いた。
(あのバカども……!)
指揮官の死は士気の低下に直結する。双眼鏡で状況を確認するコルニーロフが悪態を吐くも、運よくマンネルヘイムは生き延びたらしい。タンクデサントをしていたフルンゼも、トハチェフスキーを下敷きにして助かっている。トハチェフスキーは運がなく、骨を何本か折ったようだった。
(バカのくせに悪運だけは良いみたいだな……)
しかもそればかりか、今度はフルンゼと一緒にマンネルヘイムは徒歩で反撃し始めたではないか。司令官みずからが先頭に立ち、落ちていたロシア帝国旗を振って前進する。
「支援砲撃を回せ! あのバカたちを殺させるな!」
コルニーロフが電話で砲兵に怒鳴りつける。そうしている間にもマンネルヘイムとフルンゼは前へ進んでいく。だが、進めば進むほどドイツ軍の抵抗も激しくなっていく。
天が落ちてくるような轟音が響き渡ったのは、マンネルヘイム隊の反撃が止まろうとしていた時だった。
「っ――――!?」
聞いたことも無いほどの耳をつんざく音に、思わずコルニーロフも耳を塞ぐ。
「何だ!?」
そして次にコルニーロフが目撃したものは、味方陣地の上空から敵陣に向けて飛んでいく、何十本、いや何百本もの白い筋………それはゆっくりとドイツ軍陣目掛けて放物線を描きながら飛んでいき、着弾と同時に再び轟音を撒き散らした。
「陛下の勅命である! 鉄と火、血と肉をもって防御に変えよ!」
轟音に負けじと、指揮をとるフョードル・ケールレル歩兵大将が大声を張り上げる。日露戦争の英雄ケールレル伯爵の甥で、細身で背が高く、勇敢で忠誠心に篤い。まさに現代の騎士とでも呼べるその男は、皇帝が信頼する数少ない司令官の一人であった。
「敵に寸土も渡すな! 全兵力と全火力をあげて首都を守り抜け!」
この時、援護に現れた謎の飛翔体の正体は、ロシア帝国軍で試作兵器扱いされていたロケット弾であった。西部戦線にてツィオルコフスキー博士が効果を確認し、派手なパフォーマンスでニコライから試作品にもかかわらず量産の許可を得た、あのロケット弾である。
量産を可能にしたのは政治的な背景もあるが、設計が戦車や飛行船などといった新兵器と違って非常にシンプルだったことも大きい。
必要なのはロケット弾を載せるための鉄レールと、移動手段としてのトラックだけ。トラックの荷台に鉄レールを策状にして並べた発射機を、方向と射角を調整するための支持架で支えればほぼ完成だ。
車の不足しているロシア帝国軍では、車ではなく馬に引かせた馬車タイプの簡易型も多い。
これを扱う兵士にしても、やはり戦車などと違って特殊な技能はそれほど多くは無かった。
ロケット弾は無誘導で一般に照準器はついていないため、使用するロケット弾の重量や射距離から射角を算出しおおよその方角に向けて発射される。
命中精度は期待できないため、大量のロケット弾を集中的に撃ち込むことでその欠点を補う。兵士の役目といえば、移動とロケット弾を補充するぐらいの単純作業でしかない。
ともあれ、こうした理由もあってかタチアナはロケット部隊の使用許可を父・ニコライ2世からもぎとると、すぐさま部隊の編制にかかった。
編成といっても、やる事はせいぜい部隊ごとにロケット弾を搭載した車両(奇しくもニコライ2世ことスターリンの知る歴史と同じく、カチューシャと名付けられた)を配備して、移動と指定の方角に向かってロケットの点火と補充を指示しただけなのであるが。
カチューシャ・ロケット部隊は、兵士の大量徴用によって急ごしらえながらも一定の戦果を発揮し、その弾幕によって猛威を振るった。ロケット弾の弾幕は夜の闇を埋め尽くし、敵兵士の頭上に雨のように弾幕を降らすことによって、ドイツ軍兵士たちに大きな心理的ダメージを与える。
こうして再び、終わる事の無い銃撃戦と砲撃戦が開始された。
マンネルヘイムとフルンゼが歩兵を率い、ウランゲリの戦車隊が突撃し、ケールレルの砲兵とロケット部隊が支援する。全軍の指揮をとるコルニーロフは必要とあらば自ら馬に跨って前線を駆け回り、クロパトキンが後方から必要な物資を回す。
だが、それでも―――。
(まだ、足りない……)
「第3騎馬軍団は、陛下が自らの意志で帝位を退いたとは信じません。ツァーリ、お命じ下さい――馳せ参じてあなたをお守りせよと」 — F・A・ケールレル
構造が簡単なロケット弾は時代に先駆けて完成。やはり火力、火力は全てを解決する……!