第36話 嵐を待ちながら
ペトログラード攻略を目前に控え、ドイツ軍では最終調整に入っていた。
「……ルーデンドルフ君、ひとつ聞いていいかね?」
「なんなりと。閣下」
相変わらず不遜なルーデンドルフの態度に呆れつつ、東部方面軍総司令官パウル・フォン・ヒンデンブルクは可能な限りオブラートに包んで疑問を投げかける。
「今回の攻略作戦、担当者に何かトラブルでもあったのかね?」
「いえ、私が直々に指導しました。ご覧のとおり私は健康そのもの、意気軒昂であります」
「そうか……」
どうやら皮肉は通じなかったらしい。なのでヒンデンブルクもぶっちゃけてみた。
「テキトー過ぎやしないか、この計画」
そう言って地図を示すヒンデンブルクの指の先には、ひたすらペトログラードを囲い込むように大量に並べられた自軍の駒があった。
「まさかとは思うが、正面からペトログラードに突撃するのが作戦なのかね? 近世の戦列歩兵じゃないんだぞ!?」
しばしば「強引に」といった形容詞を付けられがちな正面突撃は、その通りに敵の大きな抵抗が予想される。
当然、味方にも多くの被害が出る。2か月余りにわたる長遠な作戦によって、ドイツ軍の兵力は大きく消耗していた。未だ将兵の士気は高いが、西部戦線から休み無しの戦続きで疲労困憊は誰の目にも明らかだった。
対して、ロシア軍は急速にその兵力を拡充しつつある。
ニコライ2世によるなりふり構わぬ時間稼ぎによって、ルーデンドルフの戦争計画には1か月ほどの遅れが出た。ロシア軍は後方に督戦隊を設け、逃亡または退却する兵士を射殺するなどの強硬手段を用い、さらに新兵が逃げないよう陣地では手足を縛ってライフルの引き金だけが引ける状態に置いた。
たかが一か月、されども一か月である。その遅れはドイツ軍にとって痛恨極まる失敗であり、ロシア軍にとって僥倖の1か月であった。
ルーデンドルフは東欧に残されたロシア軍部隊の包囲を後回しにすることで、ほぼ3か月にわたって主導権を握り続けた。だが、ドイツ軍は主導権を獲得したその時点から、勝利の機会は次第に失われていったのである。
ルーデンドルフとニコライ2世は、ともに近代戦が速度戦であることを理解していた。常に継戦能力というストップウォッチを片手に勝利のレースを競っていたのである。
だからこそドイツ軍は浸透戦術によって敵の拠点・戦力との正面決戦を可能な限り回避しつつ、機動力を生かして敵の弱点を的確に突くことで勝利を重ねてきた。これまでの快進撃はまさにその集大成とも呼べるものだろう。
最初こそ保守的なヒンデンブルクもフーチェルの推す浸透戦術の効果を疑問に思っていたが、フーチェルは着実に実績を積み上げ、今や彼とその戦術はドイツ軍内で押しも押されぬ存在感を放っている。その程度のことが分からぬルーデンドルフではあるまい。
だが、そんなフーチェルとルーデンドルフが、敢えてそれを無視したような作戦を立てた。いや、あるいは“無視せざるを得なかった”事が意味するところは明白だった。
「まさか、我が軍にはもう……」
「その通りです、閣下。冬が来る前になんとしてでもペトログラードに到達したかったのですが……それも果たせず、今や全ての条件が我が軍に不利に働いています。」
実に単純な理屈だが、豪雪によって歩兵の機動力は著しく削がれている。歩兵を支援すべき砲兵に至っては更に事態が深刻で、雪と泥に足を取られて移動どころの話ではない。
「航空隊はどうなっている? 地上砲兵がダメでも、急降下爆撃を砲撃の代わりにすれば……」
ヒンデンブルクが末席にいたリヒトホーフェン男爵に視線を向けるも、返ってきたのは首を横に振るジェスチャー。以前よりも痩せて厳しい顔つきからは、事態の深刻さが伺えた。
「ペトログラードは駄目だ。あんな数の対空砲火は見たことがない」
ロシア軍は制空権の確保を諦め、迎撃よりも防空に専念する方針に切り替えた。
西部戦線では「航空機には航空機で対抗する」という撃墜が主な防空戦術であったが、ロシア帝国の技術水準では航空機を量産すること困難であった。そこでロシア軍は「撃墜できずとも、弾幕による圧倒的火力で敵の動きを妨害する」という戦術に切り替えたのである。
「飛行機が爆撃か機銃掃射に入るためには、ある程度の間は直線飛行を保つ必要がある。だが、連中はそのコースを邪魔することだけに力を入れやがった」
苦々しげに語るリヒトホーフェンの脳裏には、今でもペトログラードの弾幕網がありありと思い出される。
ペトログラードを目前にした歴戦のリヒトホーフェン隊を待ち構えていたのは、ロシア軍の「防空コンプレックス」だった。
すなわち、高空から飛来する敵機には高射砲、中空の敵には対空機関砲、そして低空の敵には対空機銃―――これら複数の対空火器の組み合わせによってロシア軍は濃密な防衛網を構築し、ドイツ空軍の侵入経路を妨害・地上支援を無力化してしまった。
今やペトログラード市内にある高層建築物の屋上には、至る所に対空火器が配置されている。これは配置した高射砲では取れる射界が狭く、都市の全域をカバーするには広い射界を確保できる高層建築物の上に対空火器を配置する方が効率的だと分析された結果であった。突貫工事による高射砲塔などもいくつか確認されており、目視ではあるが監視・観測要員もペトログラード市民を動員しての人海戦術によって隙は無い。
何より空軍にとっても、吹雪の中での飛行は困難を極めた。積雪によって離着陸時の事故が急増しており、急激な気温の低下によるエンジントラブルも増加している。
こうしたトラブルは前線部隊に限った話ではない。後方部隊も同様にロシアの冬に苦しめられ、補給物資は滞りがちになっていた。
「ケーニヒスベルグには砲弾の山に燃料の海があるみたいですが、そこから東に送るには馬しかありません。ロシアの貧弱な鉄道網は彼ら自身の首を絞めましたが、我々もまた……」
フーチェルの顔には苦悩が浮かんでいた。
この時代の主な輸送手段は鉄道だが、工業化の未熟なロシアにおける鉄道網の貧弱さは想像以上だった。
ドイツやフランスでは主に民間用の鉄道を戦時に軍が徴用するというぐらいには普及しているが、ロシアでは労働者がごく当たり前に利用するほどの民間需要は無く、ほぼ官営でそれこそ最初から戦争のためだけに作られたようなものだ。
そしてただでさえ悲惨なインフラを、ニコライは徹底的に破壊するよう命じていた。
おまけにドイツの鉄道とロシアの鉄道では線路の規格が異なっており、例えば破壊された鉄道を修理してもすぐドイツ製の列車を走らせることが出来る訳ではない。
これに加えてニコライの死守命令を受けたマンネルヘイムらが使い捨ての新兵に波状攻撃を行わせたこともあり、ドイツ軍には連日の戦闘と行軍で疲労が蓄積していた。
兵士の死傷者こそ少ないものの、士気の低下と体力・気力の低下、士官の消耗によって軍としての質は大幅に低下しつつある。
広大かつインフラの貧弱なロシアでの兵站維持は困難を極め、占領地の住民を強制労働させて補給・輸送を続けたが、前線に届く物資は微々たるもの。
武器弾薬はおろか、食糧に衣服すら滞りはじめ、かといってロシア軍の焦土作戦で現地徴発もできない。ドイツ軍将兵の体力は限界に達し、叩いても叩いても雲霞の如く押し寄せるロシア軍の増援は、兵士の間で士気を低下させていった。
―――ゆえに。
この状態では、兵士の自主性や高度な判断力が要求される浸透戦術は難しい……フーチェルとルーデンドルフは最終的にそう結論づけた。
「敵は我が軍の短期決戦という誘いに乗ることなく、長期消耗戦へ引きずりこもうとこの2か月、ひたすら耐え忍び続けてきたのです」
さすがは浸透戦術の元祖ブルシーロフ将軍が在籍しているだけの事はある。実践面では優秀な将兵に恵まれずドイツに後れを取ったものの、理論面ではロシア軍はそれをよく理解していた。だからこそ、その利点だけでなく弱点もわきまえており、優秀だが生意気な後輩を徹底的に潰しに来たのだ。
首都だけではない。
スパイによればロシア軍はトルコから引き揚げた部隊とシベリアから輸送してきた部隊、そして現地の新兵を根こそぎ動員し、南部のドニエプル川にも長大な塹壕ラインを構築しているという。噂によれば、ブルシーロフの指揮でドン川やヴォルガ川でも防衛ラインの構築が始まっており、いくつもの工場がウラルに疎開されたという話も聞く。
「ドニエプル、ドン、ヴォルガの3重の防衛線を、モスクワ、ツァリーツィン、エカテリンブルクから指揮するつもりか……!」
ヒンデンブルクは思わず声を荒げた。
正気の沙汰ではない。最後にはウラジオストクまで征服されないと、降伏する気が無いのか。
「馬鹿な!そんな無茶苦茶に耐えられるはずがない……どうして」
「それに耐えられるような国家システムを、あのキチガイ皇帝は作り上げたのです。国家総力戦体制の構築、その徹底度は我々を超えています」
総力戦理論を提唱したルーデンドルフは、全てがそこに集約されていると感じていた。
「ロシア帝国は確かに我々に勝る人口を誇りますが、遅れた統治システムゆえに動員兵力は我がドイツ帝国とそう違いはありません。工業力の差を考慮すれば、火力でも我々に劣っていた」
人口というのは、それが多いだけでは動員兵力には直結しない。東洋の中華民国が良い例だ。結局、人が多くても彼らに与える武器を生産する工業力、そして彼らを徴兵するための国家機構の整備、軍として運用するための兵站や指揮統制システムが無くては、人口=兵力とはならない。
意外かもしれないが、ロシア帝国は人口こそ1憶7000万とドイツの倍以上(ドイツは7000万)だが、動員兵力は両国ともに1200万ほどと殆ど変わらない。
これは工業力の差が露骨に反映された形となる。もっとも、未だイタリアやベルギーなど西部戦線が一部残っていることを考えると、多少はロシア軍の方が有利になるものの、兵力差は実のところドイツ:ロシア=5:6ほどの比でしかない。
「なぜ降伏しない!? フランスと同じように、とっくに革命が起こっていてもおかしくないはずなのに……」
「それを抑え込む仕組みを、皇帝ニコライ2世は作り上げたのです。今さらですが……我々はもっと早く、もっと大規模に秘密警察と憲兵によって、全ての国民と資源を戦争に動員できる体制を作るべきだったのです」
ロシアの優位は何よりも「総力戦体制への移行」が第一次世界大戦の長期化を予期していなかった他国に比べてスムーズにいったところ。
さしずめニコライ2世はカルノーといったところで、ドイツ帝国には秘密警察で自国民の不満を抑え込む体制づくりが足りてない。