第33話 銃後の統制
相次ぐ前線での敗北は、ロシア国内でも大きな緊張をもたらしていた。
開戦から3年近くが経ったこの時期、ロシア軍の戦力は将校7万5000人に兵士450万人を数え、動員兵力は1400万人に達している。平時戦力が将校4万人に兵士100万人であるから、大量の徴兵は農村や都市において深刻な労働力不足をもたらす。
特に若い男手と耕作用の馬を軍馬にとられた農村では収穫量が2割ほど減少し、都市でも労働者の7割が軍需工場で働くとあって民生品は不足する一方である。加えてこれまで徴兵を免除されていた中央アジアの少数民族を後方勤務に動員しようとしたところ、反乱が発生して流血沙汰の末に鎮圧という末期症状が見えていた。
しかし、史実と違って今のところ反乱は抑制されている。
第一次世界大戦の開戦を先延ばしている間、ニコライ2世が行った貴族・労働者・農民の全てに対する苛烈な弾圧が功を成したからであった。
その尖兵となったのは、増員された秘密警察だ。
ロシア帝国における秘密警察には、ロシア帝国内務省警察部警備局、およびその実働部隊としてのロシア帝国憲兵団といったものがあった。
しかし、皇帝ニコライ2世は現状に満足せず、その権限と人員を大幅に拡充した上で新しく「国家保安省(MGB:エムゲーベー)」へと発展させた。目指すべき目標は、自身のよく知るソビエト連邦の内務人民委員部(NKVD)の再現だ。
あくまで個人に対する犯罪の予防や犯人捜査などを担当する内務省の警察と異なり、主に国家を脅かす反政府活動を取り締まる政治的な警察……その役割は民衆の監視、反乱分子の弾圧、国外における工作、外国のスパイに対する防諜と多岐にわたり、軍ですら監視の例外ではない。
「秘密警察を持たない政府は、常備軍を持たない国家と同じである。外敵に備えて常備軍がいるように、内なる敵に備えて秘密警察は常に展開されなければならない」
こうしたニコライ2世の手厚い支援のもと、MGBの人員は10万人ほどに増員される。ジャンダルメリヤに至っては階級も身分も軍人のまま、MGB傘下で事実上の「ロシア国内軍」として30万人へと拡大した。
このうちMGBのトップには、ニコライ2世の弟にして皇位継承順位第2位のミハイル大公が就任する事になった。
貴賤結婚によって海外生活を送っていたミハイル大公であったが、大戦の始まりと共に帰国して「野生師団」と呼ばれる騎兵部隊を指揮していた。これは北カフカーズの6つの少数民族出身の志願兵から構成される強力な部隊で、異なる民族をまとめあげた統率力が評価された形となる。
そして実働部隊たるジャンダルメリヤの司令官には、有能さと勇敢さで知られていたコサックのアレクセイ・カレージン騎兵大将が就任する。
ジャンダルメリヤ隊員の大部分も皇室への忠誠心の厚いコサック兵をそのまま編入させ、特にロシア語の話せない少数民族は「情け容赦なく敵を粉砕できる」と考えられてむしろ優遇されたほど。加えてコサックは皇帝へ忠誠を誓って軍務に就く代わりに故郷では一定の自治を認められており、少数民族でかつ半ば特権階級でもあった彼らは積極的に体制側に与する事で生き残りを図るという、ある種の共存関係が出来上がっていた。
さらに正規軍でも反乱が起こらないよう、皇帝ニコライ2世は従弟で皇位継承順位第3位のキリル・ウラジーミロヴィチ大公に命じて軍内部に『政治局』を設立させていた。早い話が、政治将校である。
当初はチェコ軍団のような、捕虜から編成した義勇軍を監視する目的で置かれた政治将校であったが、その有用性を知っているスターリンことニコライ2世は陸軍全体に拡大するよう命じたのだ。
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(陛下は、我々の忠誠心を疑っているだろうか?)
当初、軍内部からは反発する声は小さくなかった。だが、ニコライ2世は将校を集めて慎重に訓示を行った。
「此度の政治将校制度、何やら誤解があるようだ。作戦への介入もなければ、将校を罷免する権限もない。政治将校の目的はまず第一に、兵士たちに帝政への忠誠心と愛国心を啓蒙することにある」
志願兵ならともかく、徴兵制を敷くロシア帝国において末端の兵士はしょせん「軍服を着た農民」でしかない。貴族や地主の多い将校の多くは帝政に忠実だが、戦争目的もよく分からないまま徴兵されて戦場に放り込まれる兵士に、スターリンはほとんど忠誠心を期待していなかった。
実際、ロシア革命はそれが原因で、同胞たるデモ隊への発砲命令を兵士が拒否し、将校を殺して反乱が広がる形でロマノフ朝は倒れてしまった。だが、史実を知るスターリンはその愚を犯す気はない。
「フランスの社会主義思想はもちろん、イギリスやアメリカの自由主義といった革命思想も、全て取り締まらねばならん。鉄の規律で鍛えられるべき軍隊に、そんな秩序を乱すような思想を持ち込まれては勝てる戦いも勝てなくなってしまう」
ツァーリ直々の説得を受け、ようやく将校たちも納得したようだった。
「確かに、ここのところ規律が乱れているとは感じていた」
「学生感覚が抜けきらない新兵どもには、もっと兵士としての自覚をもってもらわんと」
「もっと“軍人精神”を叩き込んでやらんとな」
これまでの短期決戦で終わっていた戦争と違い、第一次世界大戦ではかつてないほど大規模で急速な徴兵が行われていた、そのため訓練期間も大幅に短縮されており、2週間程度で前線に放り込まれた新兵にはまだまだ労働者気分、農民気分のまま戦争に赴く者も多い。
そこで優秀なベテラン兵士の一部を「政治将校」として配属し、兵士たちに愛国心・軍人精神・忠誠心の3つを叩き込む。もちろん革命思想に染まらないか監視もするが、メインはベテランとして新兵への教育やメンタルケア、そして農民や労働者の多い兵士と貴族や地主の多い将校の間を繋ぐという仕事だ。
こうした、いわばクラスの学級委員や現代軍隊の最先任下士官に近い存在が、政治将校の実態であった。
こうしたニコライ2世の努力もあってか、前線では敗北つづきであるものの、兵士の反乱が起こっていないのが不幸中の幸いといえよう。
キリル大公の政治将校は前線の兵士をよく統制し、国内のデモはカレージンのジャンダルメリヤがことごとく粉砕している。さらにミハイル大公率いるMGBは、150万人以上の非公式協力者を国内に展開し、徹底的な相互監視網による監視社会を作り上げつつあった。
***
一方で、軍事をかじっただけのニコライには限界もあった。どういう兵器が「大祖国戦争」において役だったかは覚えているのだが、運用の詳細までは分からないのだ。
ポポフ博士の「無線機」やシコルスキー博士の「飛行機」が分かりやすく戦場に貢献する一方で、何に使うか分からない発明で現場を困らせる研究者もいる。
後の「ロケット開発の父」コンスタンチン・ツィオルコフスキー博士もそうした者の一人であった。有り余るロシアの大地を活かし、モスクワ郊外に作られた兵器実験場では連日のようにロケットの発射試験が行われている。
しかし――。
「……今日も当たらんな」
「……ええ、一発も当たりませんね」
ここ数日、同じような会話を何度繰り返したことか。視察に来ていたタチアナ皇女とツィオルコフスキー博士は二人でがっくりと肩を落とした。
基本的に飛び道具というものは、対象に当てなければ意味がない。しかしロケットは構造上、どうしても風の影響や初速の問題で集弾率が安定しないのだ。
「これじゃ今までのライフル銃か榴弾砲を使った方がマシですね。少なくともこの二つは当たりますし」
投げやりな様子でタチアナがぼやくと、ツィオルコフスキー博士はムッとして言い返す。
「少なくとも、機関銃よりは当たるわい」
「………」
「………」
「「………あっ」」
閃いたのは同時だった。すなわち――。
当てなくてもいいじゃん、という逆転の発想である。
「なぜ今まで気付かなかったのじゃ! 数を揃えればいいではないか!」
「そうですよ!機関銃の大砲版だと思って、制圧射撃に使えばいいじゃないですか!」
標的に当てるためのライフル銃と、弾をばら撒いて威嚇するための機関銃――歩兵用携帯火器は大きく分けてこの2つに分類される。
ところが大砲サイズの兵器において連射可能な大砲というのは存在せず、これまで長距離砲撃で制圧射撃をしたい時は大量の大砲を並べるしか方法が無かった。
しかし大砲と言うのは高価であり、また数学知識や計算能力が求められる砲兵の育成には時間がかかる。
だが、構造の簡単なロケットならコストは大砲の2割程度で済む。扱いも簡単で複雑な専門知識もいらないから、兵士も含めて大量に生産・配備・運用が出来るはずだ。
「同じコストなら大砲の5倍は揃えられます。下手なロケットでも数撃てば当たる、ですね!」
「その通りじゃ!」
互いに手を取り合い、十年来の友人のように謎ステップを踏む老人と美少女。あんまり絵にならない。
「よし、早ければ来週にでも陛下の前で実演してみるぞ! ロケットの素晴らしさを見せつけてやるわい!」
ツィオルコフスキー博士の脳内では、既に大量のロケットが火を吹くロマンチックな光景が花開いていた。
――そして翌週。
「ふはははははははははははははははッ!! 圧倒的ではないか!我が軍は!」
ロケット発射試験場には皇帝ニコライの高笑いが響いていた。
一言でいえば、圧巻……250門ものロケット砲が轟音を立てながら、一斉に煙の尾を引いて空を埋め尽くす様子に皇帝ニコライはいたく感激していた。
工業が未熟であったロシア帝国では、師団といえども50門程度の大砲しかない。これでは制圧射撃の効果もたかが知れるというものだ。
もちろん大砲には高い命中精度という、ロケット砲にはないメリットがある。しかし技術レベルの低いロシア製大砲を、能力の低いロシア砲兵が扱ってもどの道たいして当たりはしないのだ。
それならいっそ、思い切ってロケット砲に替えてしまうのも悪い案ではなかった。安価で数を揃えやすく、構造が簡便で素人にも扱いやすくて頑丈……まさに「質より量」でドイツに対抗するしかないロシア帝国向けの兵器だ。
残念ながらロシア帝国とドイツ帝国の工業力には倍以上の開きがある。その劣位を補うべく兵器開発が生産性重視となるのは必然であった。
「よし、儂は決めたぞ! ロケット砲の大量生産と配備を命じる!」
独裁国家の意思決定は早い。ニコライの鶴の一声で、それは決まった。
一応、6話でも秘密警察の拡充とコサック兵を内務省傘下に入れていますが、その後に組織改革を行って内務省から独立した国家保安省へと再編成した形になります。再編後は、
内務省・・・市内のパトロール、犯罪捜査など通常の行政・司法警察業務
国家保安省・・・テロ対策、反社会的活動の取り締まりなどの公安警察業務
ジャンダルメリヤ・・・通常の警察で対処できない反乱を鎮圧するための治安警察業務。コサック兵を編入
といった職務分類です。