第32話 赤い男爵
「――来たか」
斥候より「ドイツ軍進軍す」の報を受けて、バルト戦域に配属されたアントン・デニーキン中将は全軍に防衛態勢につくよう命じた。
本来であれば後に白軍の有力な将軍となる彼は、統率力と組織力に優れていることで知られる。デニーキンは急ごしらえの新兵を動員し、複数の塹壕線と鉄条網からなる防衛線を築いた上で、本国待機していた戦略予備の正規軍で守りを固めた。
注目すべきは、砲兵の拡充だ。
第一次世界大戦はそれまでの戦争の常識を変え、銃剣に頼る傾向の強かったロシア軍でも徐々に「これからは火力戦の時代だ」との認識が強まっていた。大砲には物理的な破壊効果もあるが、それ以上に心理的な破壊効果もある。後にシェル・ショックとして知られる砲撃の心理的ストレスは、たとえ一時的であっても敵の動きを止める。
動きの制限された敵に対し、こちらは自由に動ける……その優位はそのまま“機動力”の優位に繋がるのではないか?
なにも自軍の機動力を上げるだけが機動戦ではない。火力によって相手の機動力を下げ、相対的に自軍の機動力を上げる事もまた、立派な「機動戦」であった。
「砲撃開始!」
デニーキンの号令を受け、各所に配置された大砲が一斉に火を噴く。鉄の塊が地面を抉り、時として不幸なドイツ兵の肉片を撒き散らす。
だが、ドイツ軍からの反撃はなかった。ひたすらロシア軍の砲撃に耐えるばかりで、ただの一発も反撃は返ってこない。
(よし、総司令部の言う通りだ……!)
いくら鉄道が発達したとはいえ、駅から降りれば今まで通り徒歩か馬に頼るしかない。快進撃などすれば余計に動きの遅い砲兵との差は広がるはず―――。
それこそが第一次世界大戦を長引かせ、攻撃に対する防御側の優位の根本的な原因である。防御側は国内の鉄道網をフルに活かして鈍重だが高火力な砲兵を自由に動かせるが、攻撃側はそれが出来ない。
「砲兵はそのまま攻撃を継続!歩兵は反撃の準備をせよ!」
デニーキンが鋭く命じる。初戦で敵に与えるダメージは大きければ大きいほどいい。味方の士気はあがるし、敵はより慎重になって進軍スピードが落ちるからだ。
だが、ロシア軍が反撃に転じようとしたとき、上空で異変が起こっていた。
***
第一次世界大戦は、人類史上はじめて空中戦が行われた戦争でもある。
当初は偵察や砲撃の観測といった任務がほとんどだったが、やがて機銃を搭載した戦闘機が現れると互いを撃墜し合って航空優勢を競い合うようになった。
無線機の無かった時代において、空中戦は自然と一対一のドッグファイトが主流になる。そうした理由もあってか、いまだ戦闘機乗りたちの間には地上から失われて久しい騎士道精神が根強い。人の命が単なる数字へとなり替わる凄惨な戦争にあって、大空は古き良き時代の名残が見られる最後の戦場でもあった。
だが、それも長くは続かないだろう………赤い男爵ことマンフレート・フォン・リヒトホーフェン大尉は鬱屈たる思いと共に眼下に広がるロシア軍の陣地を眺める。
「よしテメェら、一気に行くぞ」
彼は後ろについてくる部下たちに向かって、小声で呟く。もちろん無線などはなく、通信手段は原始的な手旗信号と回光通信機である。だが、訓練を積んだ部下たちにはそれで十分だった。
「後に続く連中のためにも、俺たちがしっかり当てなきゃな」
後ろを見ると、やや大型の双発爆撃機が10機ほど続いている。最新鋭のゴータ G.IV爆撃機だ。
隣を飛ぶ相棒に向かって、リヒトホーフェンが言う。
「信号弾は用意できたか?」
「はい! いつでも投下できます!」
よし、とリヒトホーフェン大尉は頷き、愛機の真っ赤に塗られたアルバトロスD.IIIと共にロシア軍の砲兵陣地に向かってスピードを上げる。
「よぉし、目標は敵の砲兵陣地だ! ―――撃てぇッ!!」
彼の命令と共に、信号弾が放たれる。横を見れば、僚機も同様にそれぞれの判断でロシア軍の砲兵陣地に向けて信号弾を放っていた。
**
「まさか、敵は……!」
敵航空機が次々に信号弾を砲兵陣地に撃ちこむ様子を見て、弾かれたようにデニーキンが立ち上がる。
「対空戦闘準備! あの飛行機を撃ち落とすんだ!」
「ムリです! 歩兵用の銃では……!」
だったら機関銃を、と叫びかけてデニーキンは喉まで出かかった言葉を呑み込む。機関銃を無理やり上向きにしたところで、旋回も出来なければ仰角も変えられない。
というより、そもそも上空からの攻撃それ自体が完全な想定外であった。軍用機といえば砲撃観測や敵情視察に使うもの、というのが常識の時代である。対空戦闘を想定した訓練など行ってもいなければ、それに対応した武器もあろうはずがない。
実は既に西部戦線では小規模ながら航空戦も発生していたのだが、主にオーストリア=ハンガリー二重帝国やオスマン帝国といった国々と戦うことの多かった東部戦線では、飛行機を見るはほとんど稀であった。
そのため前線勤務の長いデニーキンでも、これまではせいぜい噂で聞く程度の知識しかない。大型の爆撃機が轟音を上げて近づいてくると、未知の恐怖から動けなく兵士すら出てくる有様だ。
(耐える事しか出来ないのか……!)
せめて被害だけでも最小限に、とデニーキンは部隊に退避を命じるのが精いっぱいであった。
**
ドイツ軍による史上初の航空爆撃………しかし、デニーキンの危惧は杞憂に終わった。
敵味方に与えた衝撃とは裏腹に、その戦果はお粗末なものであった。3機を一組とした4組が同じ目標に向かって水平爆撃したのだが、ほとんど命中弾を当てられていない。
「チッ……訓練のようにはいかねぇか」
上空を旋回して戦果を確認していたリヒトホーフェンは、自軍の不甲斐無さに唇をぎゅっと噛む。
精密爆撃のための観測装置も制御弁もない当時、航空爆撃といっても落とすタイミングや高度はほとんどパイロットの勘と技量に頼るというもの。狙いは目分量であるし、風で揺れる航空機から落とした爆弾なぞ当たる方が珍しい。
勿論そのことは訓練の段階で十分に思い知っていた。しかしそれでも同一目標に対して10機で爆弾を投げれば、「下手な鉄砲でも数撃てば当たる」の確率論で“訓練では”どうにかなっていた。
しかしここは戦場である。どれだけ訓練を積もうとも、初の実戦では想定外のトラブルが次々に発生するものだ
(撃墜される事は滅多にないとはいえ、地上から銃弾が飛んで来れば腕は鈍る。ついでに敵味方の爆煙のせいで、空からだと地上の様子がよく見えねぇな)
続いて第2波、第3波も爆撃を敢行するも、目標である砲兵陣地には一つも当らない。ロシア軍の方も最初の衝撃から立ち直ったらしく、爆弾が命中しないのをいいことに嫌がらせに花火などを打ち上げて煽っていく。
「なんだ……所詮は新しいオモチャのハッタリに過ぎんか」
味方の被害が軽微なことを確認し、デニーキン将軍もホッと胸を撫でおろす。
たしかに被害は少なかったが、貴重な時間を無駄にしてしまった。すぐにでも反撃に取り掛からねばならない。
**
(まずいな……さすがに一発も当てられないのは俺のプライドが許さねぇ)
チラリ、とリヒトホーフェンが手元を確認すると、手りゅう弾が一発だけ残っていた。せめて一矢報いてからでないと、基地には帰れない。
だが、どうすればいい? 上空からの爆撃では、どうしても精度が低くなってしまう。煙で視界は遮られるし、せっかく狙って爆弾を落としても風の影響で逸れてしまう。
しかし、不用意に低空で飛行すれば敵兵の格好の的だ。目標に辿り着くまでに、脆弱な飛行機の腹を地上に晒し続けてしまう。
「だったら―――!」
こうなったらヤケクソだ。リヒトホーフェンは砲兵陣地に狙いを定めると、一気に急降下をはじめた。
「援護を頼む」
「隊長!? なにを―――!」
後ろにいた僚機が反射的に追随しつつも、恐怖の悲鳴をあげた。大方、特攻するとでも勘違いしたのだろう。たしかに目標に向かって飛行機ごと突っ込めば、命と引き換えに命中率は格段にあがるだろう。
限りなく正解に近いが、リヒトホーフェンの答えは否であった。
「激突ギリギリで上昇するさ!そのタイミングで残った爆弾を投げる!これなら当たる!」
「無茶です!機体が壊れます!」
「うるせぇ!俺の腕を信じろ!」
部下の抗議を無視して、リヒトホーフェンは急降下爆撃を敢行する。風が唸り声をあげ、地上にいたロシア軍が蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
「何が起こっている!?」
「敵襲です!突っ込んできます!」
「うろたえるな! さっき当たらんのを見ただろう。どうせハッタリに過ぎん!落ち着いて撃つのだ」
それでも一部の勇敢な兵士は留まり、上空に向かって軽機関銃を乱射し始めた。一発が僚機に当たり、離脱していく。
「よし、残る敵はたった1機だ! あの赤いアルバトロスを仕留めろ!」
ロシア兵が歓喜の声を上げる。味方はもういない。この距離で撃墜されれば、間違いなく地上に激突して死ぬだろう。
―――だが、それでも。
『赤い男爵』のアルバトロスD.IIIを止めることはできない。
「どぉりゃあああああ――――—―ッ!!」
リヒトホーフェン機の放った渾身の爆撃は、かくして砲兵陣地の1つに命中した。長射程の重砲でドイツ軍の射程外という油断もあり、すぐ傍にうずたかく積まれていた砲弾は次々に引火。たった1発の急降下爆撃で、6つの重砲と100名以上の砲兵と近くにいた兵士が吹き飛ばされていく。
「よっっしゃぁああああ――――ッッ!!」
気分は絶好調だが、パイロットらしく思考は冷静に。リヒトホーフェンは巧みに機体のバランスを取りながら、激突する直前で上昇に成功した。
(やれば案外、なんとかなるもんだな……)
上昇すると、部下たちの飛行機が次々に集まってすれ違いざまに祝福の言葉をかけていく。
「やりましたね、隊長! でも、もうあんな無茶はしないでくださいよ。見ているこっちまでヒヤヒヤしたんですから」
「そりゃあ、まだまだ度胸が足りねぇな。後でみっちりしごいてやる」
なんとか生還したと安堵している部下には悪いが、今の一撃でリヒトホーフェンは確信した。これから先、彼は何度もあの急降下爆撃をすることになるだろう。いや、彼ばかりではなく彼の部隊全員が、だ。
(これで歴史が変わる――!)
この後、リヒトホーフェンの急降下爆撃はすぐさまドイツ陸軍航空隊で採用され、「空飛ぶ砲兵」として広まっていく。
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実はこの時、ロシア軍でもウランゲリ将軍やタチアナ皇女らが急降下爆撃に関する論文を書いていたのだが、理論では先行しても実践ではドイツ軍に先を越されることになる。
両者の差を分けたのは工業力だった。
開戦時におけるロシア帝国の生産能力はドイツ帝国の6割ほどでしかない。ニコライ2世による早期の総力戦体制によって差は縮まりつつあるが、それでも未だ8割ほど。
決して絶望的なほどの壁ではない。
それでも先見の明を持ち合わせていながら、基礎体力の差で容易に追い越されてしまう程度には大きい壁であった。
レッド・バロン、たぶん通常の3倍の速度で突っ込んでくる