第30話 焦土作戦への道
ドイツ軍は、ロシア軍と同じ愚を犯さなかった。
参謀総長ルーデンドルフは周囲の反対を押し切り、東欧の解放を後回しにしてポーランド方面の進撃を継続、主力をバルト地域から北上させて首都へ直行させる作戦計画を立てた。
「このまま一気にペトログラードまで進撃して、チェックメイトだ!」
慎重を期すならば順当に足場を固めるため、まずは旧オーストリア・ハンガリー帝国領のチェコ、スロバキア、ハンガリー、そしてルーマニア王国にオスマン帝国の解放を優先すべきなのであろうが、それでは貴重な「時間」をロシアに与えてしまうことになる。
「オーストリア・ハンガリー二重帝国とオスマン帝国は国土の半分を奪われたが、逆にいえばまだ半分は残っている。イギリスにイタリアもフランスの革命で逆侵攻はないだろうし、ギリシャは相変わらず中立だ。ルーマニアにはブルガリアが付いている」
――攻めて勝てはしないが、かといって守って負けるほど弱体化しているわけでもない。よって、援軍の必要なし。
平たく言えば、「自分の事は自分で何とかしろ」というのがルーデンドルフの同盟国への回答であった。こうした同盟国軽視の姿勢は外交官たちから睨まれたものの、軍事畑のルーデンドルフにとっては至極当然の軍事的合理性を追求した結果といえる。
そして実際問題、他の中央同盟諸国はルーデンドルフの傲慢な姿勢に反感を抱きつつも、今や独り勝ちといえる盟主のドイツに逆おうとまでは思わなかったのであった。
むしろルーデンドルフにとっての問題は、腰の重い皇帝と保守的な軍部の長老たちであったとさえいえる。
「参謀総長、君は戦争経済をご存じない」
血気盛んなルーデンドルフを諫めようと皇帝ヴィルヘルム2世が苦言を呈するも、ルーデンドルフは内心でそれを一蹴した。
(曲がりなりにも憲法と議会を備えた我がドイツ帝国と違い、ロシア帝国は文字通りの帝国……つまり“皇帝の国”であって、近代的な国民国家ではない。ツァーリ・ニコライ2世さえ倒してしまえば、たやすく帝国は崩壊する)
民族も宗教も言語もバラバラなロシアの民衆を繋ぎとめているのは、ひとえに絶対的な支配者たる皇帝の権威だ。皇帝ニコライ2世がいるからこそ、1億8000万もの帝国臣民は「同じロシア人」という連帯感を持つことが出来る。その支柱を失えば、残るのはただの「ロシアの大地にたまたま住んでいただけの個人」の集まりでしかない。
「陛下、ロシアは見た目こそ立派な家ですが、その土台は崩れかけであります。ドアをひと蹴りすれば、たちまち倒壊するでしょう」
だからこそ、ルーデンドルフは早期決戦を求めていた。
必要なのは物理的に皇帝を殺すというより、その権威を喪失させること。だからこそ、首都を落とす。「皇帝ニコライ2世恐れるに足らず」と、全世界に向けて知らしめるのだ。
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このルーデンドルフの戦略に対してロシア軍はというと、数的優位を喪失した途端に見るも無残に敗走していった。
「陛下! もはや東欧の維持は不可能です!」
前線から届く悲惨な報告に、クロパトキン大将は悲鳴にも似た叫びで訴える。
「フランスが内戦に陥ったことで、シュリーフェン・プランは完成目前です! このまま東欧に部隊を配置し続ければ、我が軍は各個撃破されてしまいます!」
ドイツ軍は兵力を次々に西部戦線から正しい意味で「転進」させており、まもなく両軍の兵力は200万前後でほぼ同数となる。同数であれば工業力に勝り、将兵ともに練度に勝るドイツ軍の勝利は確実だ。
しかも、ロシア軍は兵力をポーランド方面とハンガリー方面に2分させており、各個撃破という悪夢が現実味を帯び始めていた。
それでも一度「数万の英霊たちの血」で勝ち取った領土は、1ミリたりとも渡したくないというのが人の心情である。それは多くの国民、そして皇帝ニコライ2世ことスターリンとて変わらない。
多くの将軍たちもまた、序盤の大勝利でまだまだ戦局を楽観視している節があった。
「いっそ、ハンガリーとポーランドの2方向から挟み撃ちにしてやればいいではないか」
パーヴェル・レンネンカンプ騎兵大将は大胆な作戦を提案し、拍手で迎えられた。
「クロパトキン君は消極的に過ぎる。そんなんだから日露戦争で撤退を繰り返した挙句、奉天で大負けしたのではないのかね?」
「それは……」
日露戦争における敗北の責を問われると、クロパトキンも強くは出れない。「あの時とは状況が違う」というのは言い訳の常とう句で、実績がない以上は説得力もないだろう。
ちらり、と一縷の望みをかけて皇帝ニコライ2世を見るが、やや上機嫌に微笑を浮かべている。どうやらレンネンカンプ中将の積極論の方が、皇帝の御心に響いたようだった。
(だが、挟み撃ちというのは両軍の連携が密に取れていること、そして敵よりも機動力に勝ることが必要となる……)
例えば、プロイセン軍がケーニヒグレーツの戦いで勝てたのは、鉄道を利用した機動力の優位あってこそ。対して、ロシア軍はどうか。
(ポーランド方面軍はともかく、ハンガリー方面軍はオーストリア帝国の貧弱なインフラにカルパティア山脈という地理条件の悪さ、そしてオーストリア帝国の妨害にあって移動は容易ではない……果たしてレンネンカンプの言うように、うまくいくものか)
かくして、クロパトキンの不安は的中した。
***
その日、ロシア帝国軍参謀本部は葬式のごとく沈痛な雰囲気に包まれていた。中でも報告を読み上げるクロパトキンの顔色は青白く、今にも卒倒せんばかりであった。
「申し上げます……ポーランド戦線において我が軍は……その、ドイツ軍に完全に包囲されました」
「………それで?」
「ポーランド方面軍の約半数40万が壊滅……総司令官アレクサンドル・サムソノフ大将は責任をとって自決いたしました」
40万もの大部隊が包囲殲滅――それは単に多数の兵士を失ったというだけでなく、戦線に大きな穴が空いたという事でもある。
兵士はいくらでも補充できる。しかし空いた戦線は簡単に塞げるものではない。ポーランド戦線に穴が空いたとなれば、ハンガリー戦線にいる兵士はいつ背後に回り込まれるかと気が気ではないだろう。
「……全軍を後退させろ」
凍りついた空気の中、ニコライが厳かに告げた。
「戦線を後退させ、戦線を縮小する。焦土作戦を並行しておこない、可能な限り時間を稼ぎつつ敵を消耗させよ」
焦土作戦は伝統的なロシアの戦略である。広大な国土を活かし、敵の補給戦を伸ばして消耗したところを一気に叩くのだ。
ずい、とニコライ2世はクロパトキンに向き直る。
「クロパトキン大将、君が正しかった。今後は君の発言を、全面的に支持すると約束しよう」
「はっ」
信賞必罰は、皇帝の責務である。ニコライ2世には、褒美を与えるべき相手と、罰を与えるべき相手がいた。
ニコライ2世は踵を返し、隅っこの方で縮こまっている立派な髭の大男を向き、にっこりと笑顔で語りかける。
「レンネンカンプ大将、何か言うことは?」
「わ、私は――――」
「なるほど。では、シベリア送りだ」
弁明の機会すら与えず、ニコライ2世は衛兵にレンネンカンプ大将を連行するように命じた。すっかり意気消沈したレンネンカンプがずるずると引きずられていく様子を周囲が遠巻きに見守る中、ニコライ2世は改めて問いかける。
「もはや、君側の奸はおるまいな?」
敗戦の全責任をレンネンカンプに押し付け、無謀な作戦を止められなかった全員の責任をチャラにしようという、皇帝の慈悲深いお言葉である。反対する者などあろうはずもない。
競って首を上下に動かす軍高官たちに満足しながら、皇帝ニコライ2世は遅滞作戦を命ずる。
問題はどこまで後退するか、である。
ロシア帝国広しと言えども、人口密集地や工業・農業地帯の大部分はウラル山脈より西側の地域に限られている。大祖国戦争でソビエト連邦が国土・人口の4割を失いながらも勝利出来た理由のひとつは、主要な工場をウラル山脈以東に疎開させていたからなのだ。
しかし今回の戦争ではそんな準備はしていない。なまじ初戦で有利だっただけに、防衛戦略というものはこれまで殆ど真面目に議論されていなかった。付け加えるならロシア帝国の首都はサンクトペテルブルクにあり、ソビエト連邦に比べて首都までの縦深そのものが短かった。
だが、そんなことで皇帝は諦めない。
「首都は遷都する。まずはモスクワ、それでも駄目ならツァリーツィン、ニジニ・ノヴゴロド、エカテリンブルク、ウラジオストクが落ちるまで徹底抗戦だ」
随分と無茶な事を言うが、ニコライ2世ことスターリンは本気であった。彼の辞書に「降伏」の二文字はない。転生する前、彼はドイツ軍相手に長く苦しい戦いを続け、最後には勝利したのだから。
***
そして緊張が続く中、その報は届いた。
「ドイツ軍、ロシア領内に進攻す」
かねてよりの作戦計画に従い、100万を超えるドイツ軍はその軍靴でロシア帝国領内に踏み入った。ナポレオン以来、いかなる大国の侵入をも拒んできたロシア帝国領に、ついにフリードリヒ大王の末裔が侵入したのだ。
フランスの降伏によって、西部戦線からドイツ兵の大軍が大挙して東部戦線に殺到する。ドイツの発達した鉄道網は、シェリーフェン・プランの要となるものだ。緻密に組まれた鉄道ダイヤは寸分の狂いなく、合計で300万にもおよぶ大部隊の移動を可能としていた。
開戦より2年を経て、地獄の西部戦線を生き延びた精兵がロシア国境に到着する。彼らは慣れた様子で整然と長い隊列を組み、一糸乱れぬ進軍を開始した。
一瞬だけ出てきて一瞬で退出しちゃうミスター・レンネン