第29話 転進と遅滞と
特に理由の無い理不尽がマンネルヘイムを襲うー――!
マンネルヘイムのドレスデン方面軍が潰走したのをきっかけに、ドイツ南部におけるロシア軍の戦線は完全に崩壊した。
ドイツ軍の追撃は執拗を極め、さらに呼応してオーストリア軍までもが襲い掛かったからだ。南下してくるドイツ軍と北上してくるオーストリア軍に挟まれ、ロシア帝国軍は開戦以来未曾有の大損害を被った。
それでも完全に包囲殲滅される事なく、多くの将兵が包囲網から脱出できたのはマンネルヘイムの懸命な奮闘のお陰であった。
もとより占領したオーストリアの土地に執着はない。それより少しでも長く時間を稼ぎ、一人でも多くの兵士を逃がすべきだ……マンネルヘイムの大胆な決断は、地域の損失と引き換えに兵力の温存・時間の確保という形で現れた。
しかし……。
「なぜ退却したぁああッッ!?」
ベラルーシ東部・マヒリョウにおかれた大本営に皇帝ニコライ2世の怒号が響く。緊急の呼び出しで召喚されたマンネルヘイムを迎えたのは、顔を真っ赤にしたニコライ2世である。
「儂は開戦時に言ったはずだぞ! “一歩も下がるな”とな!」
もちろん参考にしたのは「ソ連国防人民委員令第227号」である。かつて大祖国戦争の時、スターリンはこの指令によって命令なしの後退を禁じており、違反者はことごとく軍法会議にかけられた。
「しかし陛下、あのままでは無駄な損害が……」
「そんな事は知っておる!」
弁明しようとしたマンネルヘイムを、ニコライ2世は大音量で叱咤する。口角泡が飛び、目玉は今にも飛び出さんばかりの形相である。
「これは政治の問題なのだ! 一介の指揮官に過ぎん貴様が、独断で部下を撤退させた事が問題なのだ!」
つまり責められるべきは独断専行の是非……軍隊というトップダウン組織で秩序を維持するには「上官の命令」は絶対であり、間違っても「現場の独断」などは認められない。
こうした「計画重視」の姿勢は「臨機応変」を重視するアメリカ軍やドイツ軍などと好対照を為すが、教育水準の差を考えればロシアにはどちらが相応しいか一目瞭然だろう。無能な指揮官の自由裁量に任せるよりは、命令やマニュアル通りに動かす方が、大抵の場合まだマシだからだ。
兵士や指揮官の能力に期待できない以上、戦術的な成果を犠牲にしてでも組織としての一体感や秩序を強化した方がマシ……それが皇帝しいては軍の考えであった。
(なにより冬戦争で儂に恥をかかせたマンネルヘイムを粛清する絶好のチャンスだ。冬戦争の恨み、忘れたとは言わせぬぞ……)
ソ連どころかフィンランドすら誕生していない1917年、何も知らないマンネルヘイムに13年越しの恨みをぶつける気まんまんのニコライ2世ことスターリンであった。
執念深さにも程があるとか、いつか粛清するにしても今はタイミングが悪すぎるとか、そういう思慮はすっぽ抜けている。勝っていればこそ勝者の余裕で慈悲を見せることもあろうが、負けが入ると冷静さを失うのが人間というものだ。
しかし相手はカール・グスタフ・マンネルヘイム、後のフィンランド救国の英雄である。そう簡単に粛清されてくれるほど甘い相手ではなく、怒り心頭のツァーリに対しても臆せず果敢に食い下がった。
「申し上げますが陛下、あれは退却ではありません」
「嘘を申すな!」
怒りに任せて机に拳を叩きつけるも、マンネルヘイムは引き下がらない。委縮しそうになる前進を奮い立たせ、一歩前へと進み出る。
「神に誓って、嘘など申しておりません」
これは彼にとっても賭けであった。失敗すれば命は無いだろう。
「我々は部隊の半分で敵を拘束し、残りの半分で橋頭保の確保を達成しています」
「………続けよ」
ニコライ2世は怒鳴るのを止め、試すようにマンネルヘイムに先を促した。
「つまり、我々は来たるべき反撃に備えて、有利な位置に部隊を移動させていただけなのです」
ニコライ2世の攻撃的な性格もあって、ロシア軍は後退には様々な制限があるものの、攻撃には非常に積極的だ。そのため例外として攻撃に限り、戦果拡張のために現場の独断を認めるとの先例もある。
その代表例がブルシーロフ攻勢であり、突入した騎兵指揮官は自らの判断で部隊を攻撃およびそのために移動させる権限を有している。
つまり――。
「私が部隊を下がらせたのは、決して“退却”などではありません。攻撃の際により有利な位置につけるよう、部隊を“転進”させただけなのです」
「なっ………!」
ほとんど詭弁、言葉遊び、大本営発表である。しかし、だとしてもマンネルヘイムはそれに縋るしかなかった。
しかし――。
「衛兵を呼べ!」
結果は凶と出たようだ。怒り心頭に達したニコライ2世はわなわなと唇を震わせ、今にも殴りかからんばかりの形相だ。
「このペテン師を牢屋にぶち込め!!」
慌てて衛兵がマンネルヘイムを拘束しようとするが、それを遮るようにして低いバリトンの声が響いた。
「お待ちください、陛下!」
部下を庇うようにして御前に進み出たのは、ブルシーロフであった。
「陛下に申し上げたいことがございます」
「ブルシーロフ……どうしたのだ?」
見る者を射殺さんばかりの眼光が、その矛先をブルシーロフに変える。ブルシーロフは一瞬ひるんだが、唇をきっと結んでニコライをなだめるように話し出した。
「攻撃の準備としての後方への移動……これを禁じる事は我が軍の自由度を著しく低下させます。どうか御考え直し下さい」
最終的には攻撃に出るとしても、一時的には防御しなければならない事は珍しくない。主力部隊の移動が遅れた時に、先発隊が時間稼ぎをするというのはよくある話だ。
特に戦略レベルの話になると、なおさら決勝点に戦力を集中するために、他の方面では戦力を節約しなければならない。
しかしこの時、決勝点以外の方面に求められるのは「占領地の維持」というより「時間稼ぎ」であり、できれば「兵力の温存」も行いたい。そうした時に死力を尽くして防御を行ったら兵力を消耗してしまい、長期的には兵力の枯渇に繋がってしまう。
「今や対ドイツ戦線はかつてないほどに広大化しております。我々は複数の戦域からなる広大な戦線全体を視野に入れ、それを効率的に連動し活用することを考えねばなりません。前線指揮官の判断による“転進”を認めることは、指揮効率の大幅な改善に寄与するはずです」
「……つまりマンネルヘイムの意見を採用せよと?」
「我が帝国と勝利の為です。どうか彼の者の発言を認め、本件については責任を不問としていただきたく存じます――――ご承認、いただけないでしょうか」
言い終わると、ブルシーロフは地面に頭を擦り付けるように平身低頭伏礼する。
「私からもお願いします!」
「マンネルヘイム将軍が処罰されるのであれば、私にも!」
「では、私も」
さらに続けてクロパトキン、ウランゲリ、コルニーロフら居並ぶ将軍たちも声を上げた。有力な指揮官たちがこぞって頭を下げて陳情する間、ニコライは一言も発しないで黙っていた。
(マンネルヘイムには冬戦争の恨みがある。出来ればこの場で処刑にしてやりたいが……)
このまま処罰を強行すれば、軍部の反発は避けられない。それは更なる戦況の悪化を招きかねないし、最悪の場合には軍部がクーデターを起こして皇帝を廃位する可能性すらありえる。
(まとめて全員を粛清してやってもいいんだが、失うにはちと惜しい人材だな……少なくとも、今は)
加えてブルシーロフの意見にも理がある事が、だんだんと理解できた。マンネルヘイムを処刑する事は容易いが、この一件で将兵が委縮して効率的な作戦計画が作れなくなっては困る。
ソ連軍というと「一歩も引くな!」の標語で有名なソ連国防人民委員令第227号のように、独断での退却を認めず硬直した指揮しかできない軍隊というイメージがあるが、実際には後退によって有利な状況を作り出すことができれば問題視されることはない。
つまりソ連軍における退却は「戦果」次第で非難も賞賛もされ得るものであり、「死守」を条文や総統命令で明記していたフランス軍やドイツ軍、現場指揮官による独断を禁じていた日本軍に比べれば柔軟な運用がなされていた側面もある。
(仕方あるまい……今回ばかりはブルシーロフの懇願を聞いてやった方が利になる。マンネルヘイムの奴は、いずれ別の理由を見つけて処断するとしよう)
スターリンは執念深く、それ以上に忍耐強い男であった。メリットとデメリットを天秤にかけ、前者が上回るなら個人的な好き嫌いを抑え込める。だからこそトロツキーを失脚させてレーニンの後釜に座り、大祖国戦争をも勝ち抜くことが出来たのだ。
「……分かった。今回の件は不問とする」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げるマンネルヘイムとブルシーロフ。特にマンネルヘイムは半分ダメ元だっただけに、生き延びる事が出来た幸運に感謝していた。
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奇しくも、この審問がきっかけとなり、ロシア帝国軍では「防御」という戦術思想において他国に一歩秀でる事となった。
現代戦における「防御戦術」には土地を維持する「防御」、戦力を維持する「退却」、そして時間を稼ぐ「遅滞」の3つの方法が存在している。
しかし古典的な「防御戦術」の考えでは、上記の三つの内で「遅滞」という概念は存在しない。史実ではソ連赤軍による理論の完成を待たねばならないが、ニコライは期せずしてそれを一足先にロシア帝国に持ち込むこととなったのである。
もっとも、それが適応されたのは一部のベテラン部隊やエリート部隊だけであり、戦争が始まってから新規に徴兵された大部分の部隊は相変わらずの「死守」を命じられていたことも付け加えなければならない。
―――新兵はいくらでも補充が効くが、ベテランは補充できない。
なんとも合理的な理由ではあるが、徴兵組にとっては受け入れがたい話である。それでも勝つために手段は選んでいられない。幸いにも「選ぶ側」にいる者は、自分が「選ばれる者」でなかった事に感謝しつつ、正当化された“必要悪”のロジックで徴兵されたばかりの前途ある若者を犠牲にし続けたのであった。
まぁ前世知識のあるスターリンからすれば理由のある難癖なんですが、この世界のマンネルヘイムからすれば「???」としか。