第24話 1917
シナリオの歯車が狂い始めたのは、一瞬のことだった。
1917年は、ロシア帝国にとって最良の年であったと同時に最悪の年でもあった。仮に歴史の修正力なるものがあるとすれば、まさにそれが1917年であった。
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この年の春先、フランス第3共和国は焦りに焦っていた。
東部戦線に元気づけられて何度か西部戦線でも攻勢が発動されたものの、頑丈な塹壕陣地に守られた前線は突破できず、兵士たちの間には無気力と厭戦気分が漂っていたのである。加えてパリ包囲戦やヴェルダン攻防戦でおびただしい数の死傷者を出したことで、徴兵できるマンパワーも枯渇しかけていた。
これを打破するためにフランス軍は、かつてない規模の大攻勢を行うことにより“決定的かつ破壊的な一撃”をドイツ軍に叩むことで一気に終戦に持ち込もうと計画を立てていた。
後に『ニヴェル攻勢』と呼ばれる、1917年春季の大攻勢である。
「私は勝利の秘密を知っている!! 48時間以内にフランスに勝利がもたらされるであろう!」
ジョフルに変わって新たに元帥となったロベール・ニヴェルはそう豪語した。
この大胆な発言はフランス国民を熱狂させ、さらにイギリスまでもが動員され、イギリス軍司令官ヘイグの抗議を押し切ってイギリス軍はフランス軍の指揮下に入った。そしてル・アーブルにおけるイギリス軍の陽動作戦にドイツ軍が引きつけられたのを確認すると、ニヴェルはついに本格的な大攻勢を開始する。
――移動弾幕砲撃。
これこそが、ニヴェルの考えた必勝の策である。それは前進する歩兵の前に砲兵が「鉄のカーテン」を落とすことで、敵陣地まで味方の砲撃の弾幕で歩兵を守りながら突撃するというもの。
「何度突撃しても、来週には『夜明けを待って突撃』の指令がまた下る!今度こそ、完全にケリをつけて終わりにしてやる!」
多くの疲弊しきった将兵の希望を背負ったニヴェル攻勢であったが、大きな期待とは裏腹にその結果は散々なものだった。
攻勢初日には38万ものフランス軍歩兵が突撃したが、5万人以上の損害を出して頓挫。さらにイギリス軍がアラスで突撃をしかけるも、当初予想された損害である1万人を遥かに上回る16万もの損害を出して失敗。
最終的に85万もの兵士が動員された挙句、フランス軍だけで19万、イギリス軍も加えれば35万もの大損害を出し、何の成果も得られないまま全軍の3割以上を消耗しただけという歴史的大敗北であった。
それは物理的な大敗北であったと同時に、精神的な意味でも完璧な敗北であった。この作戦の失敗により、それまで国民国家で漫然と共有されていた1つの幻想は完全に砕け散っていく。
直接何かの手柄を立てたわけでなくとも、夫や息子たちの死はフランス勝利の糧となったはず―――。
そう思えばこそ、そう思えればこそ。これまで多くの未亡人と母親は肉親の死にも耐えられた。だが、それらは全て中央政府にとって都合の良いプロパガンダに過ぎず、国家は国民を守るどころか無意味な死に駆り立てている……。
そんな陰謀論が広まるまでさほど時間はかからなかった。否、既に多くの人が薄々感じ取っていて、それでも祖国を信じたいという願望が目を背け続けてきた現実であった。
もちろんフランス政府とて、国民が憎くて無意味な損害を出し続けているわけではない。悪意こそがないが、無能ゆえに国民に犠牲を強いている。いずれにせよ社会契約において、フランス第3共和国は国民との契約を果たせなかった。
国民主権という共和国の理念のもと、政府の権力は国民の信託あってこそ。もし政府が国民の意向に反して生命、財産や自由を奪うことがあれば、国民は抵抗権をもって政府を変更することができる……世界初の市民革命が起こった国で、再び革命の炎が灯り始めていた。
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プロイセン軍参謀本部―――。
重厚な調度品に囲まれた歴史ある参謀総長室には、更迭されたファルケンハインに代わって別の主がゆったりとしたソファに腰かけていた。ニヴェル攻勢を頓挫させ、ドイツに勝利をもたらした男の名は、エーリッヒ・ルーデンドルフ。
「東部方面軍参謀長の任を拝命して以来、負け続けだった私の戦争で初めて勝った……!」
ニヴェル攻勢の失敗は、フランス軍とイギリス軍が弱かったからではない。それ以上にドイツ軍が強くなったからだ。1916年の危機に際し、ドイツ軍は大胆な組織改革を断行していた。その立役者こそがルーデンドルフだった。
かねてよりルーデンドルフら東部戦線重視の「東方派」はあくまで西部戦線を重視するファルケンハインら「西方派」を批判していたが、兵力の9割近くを西部戦線に投入してなお「初手フランス打倒」という目的を達成できなかったことで、シュリーフェン・プランの破綻が誰の目にも明らかになってきたのだ。
それでもファルケンハインら「西方派」はヴェルダン攻略戦を断行し、あくまでシュリーフェン・プランに固執し続けた。
しかしヴェルダン戦役は何の成果も上げられなかったどころか、オーストリア・ハンガリー二重帝国やオスマン・トルコにルーマニアといった東方の同盟国がドミノ倒しのようにロシア帝国に崩壊の寸前まで追い込まれたことにより、西方重視の戦争戦略に対する批判がドイツ国内では日に日に高まっていった。
結局、ヴェルダン攻略戦の中止をもってファルケンハインは更迭、ルーデンドルフが事実上の参謀総長に任命された(名目上はヒンデンブルクだったが、ほとんどお飾りであった)。
ルーデンドルフはただちに各軍、師団の司令部において各司令官の個別判断よりも参謀本部の命令が優越するように指揮システムを改め、一層の中央集権化を進めていく。各司令部には野戦参謀部が設置され、そこに勤務するスタッフはあたかもスターリンの前世におけるソ連の政治将校もかくやと振る舞い、部隊ごとの自立判断よりも総司令部の意向を優先した。
さらに情報部を独立部署として発足させ、外務省の掌握とプロパガンダ部門の設立、軍需生産の集中化、航空隊を陸海軍に次ぐ「第三の軍」と定めて参謀部直轄とするなどの改革を矢継ぎ早に行っていく。
こうしてドイツ軍参謀本部は軍事はもちろん、新聞や映画や絵画などの統制、宣伝、外交政策、軍需生産などあらゆる分野を統制下におき、その戦争潜在能力を最大限に引き出して活用する総力戦体制を順調に整備する。
一方で西部戦線では損害の大きい積極攻勢を中止し、連合軍の攻勢に先んじて戦線を後退させ、焦土作戦を行うと共に強固な塹壕陣地帯「ジークフリート線」で返り討ちにすることを狙う。
その集大成が「ニヴェル攻勢」への迎撃であり、スパイを通し攻撃作戦を入手していたルーデンドルフは待ち伏せ攻撃によって突撃してきた連合軍をほとんど壊滅状態に追いやったのである。
「……これが勝利の味か。いいものだな」
誰もいない執務室の中で、ルーデンドルフは1人、ワイングラスを片手に地図を見やる。その視線は既にフランスにはなく、東の大地を向いていた。
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そもそも移動弾幕射撃についても、当時の技術的な限界(長距離砲撃に伴う誤差修正、歩兵と砲兵の連絡手段、熾烈な砲撃によるクレーター)を克服できず、ニヴェルの構想が机上の空論であったことが明らかになる。
かろうじて生き残った連合軍兵士に残されたのは無力感と、こんな無意味な戦いで多くの戦友を死なせた上層部に対する怒りであった。
「こうなったのも、ぜんぶ上層部が無能だからだ!」
ただでさえ枯渇していた予備兵力は完全に消失し、フランス軍は攻勢どころか前線を維持する兵力の確保すらおぼつかなくなっていく。加えて上層部の無能ぶりと前線での犬死に嫌気がさした兵士の間で反乱や命令無視が相次ぎ、ついに8月には恐れていた事態が発生してしまう。
「パリで共産主義者が蜂起! フランスで革命が勃発!!」
世界初の共産主義革命である、8月革命がフランスで始まったのである。
ニヴェル「何の成果も!!得られませんでした!!」
そういえば映画「1917」って作中では名言されていませんけど、多分「ニヴェル攻勢」ですよね。