第01話 皇帝ニコライ
ロシアの参戦――オーストリアからセルビアへの宣戦布告から3日後、セルビアとの盟約に基づいて総動員を発令した。しかし武器や輸送・通信システムなどにおいてロシアはドイツに劣り、タンネンベルクの戦いを始めとして相次ぐ大敗を喫している……。
それがスターリンの経験した「史実」だった。
(だが、この儂はこの歴史を繰り返すつもりはない!)
愛すべき祖国を破滅へと導いた史実の第一次世界大戦……それを覆すことこそが、自分の使命なのではないか。
転生した翌日の昼、目覚めたスターリンはそう考えるようになっていた。
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――皇帝陛下は人が変わられたようだ。
スターリンが憑依して一日も経たないうちに、宮廷ではそんな噂が密やかに広まりつつあった。
かつての優柔不断な態度はなりを潜め、「強い指導者」として果断に決断をするようになった。その一方で人と話す時は常に口元に微笑を湛えて、他人を持ち上げるなど謙虚に接しているという。
理想家であったレーニンやトロツキーと違い、スターリンは現実主義的な政治家である。当初こそ混乱したものの、目の前の現実を受け入れるまでそう長い時間はかからなかった。
(まずは情報収集だ。誰が敵で、誰が潜在的な敵であるか分かるまでは仮面を被らんとな……)
事実を直視したスターリンは、実にソ連らしい唯物論的アプローチを試みる。ありったけの情報を集め、科学的に分析し、もっとも適切な行動をとるのだ。
幸いと言うべきか、新しい世界に順応するのはそう難しいことではなかった。なにせ、元々が一国の指導者だ。周辺国との関係、景気、財務状況、安全保障、宮廷内の力関係から国内の社会問題までたちどころに把握し、書類の山を捌いていった。
しかし情報を得れば得るほど、それと反比例するようにスターリンの眉間に寄る皺は増えていった。それほど、帝政ロシアの現状は酷いものだった。
国民の大半は生産性の低い農民で、就学率はわずか20%ほど。国土の大半は電化もされてなければ鉄道や道路もまともに通っておらず、工業は非効率で品質も悪かった。
(若いころから知ってはいたが、改めて偉くなってデータを眺めると投げ出したくなるな……)
そもそも、この統計データすらどこまで信用できるのか怪しいものだ。上層部の評価を気にして偽データを送ってくる不届き者はソ連時代にもごまんといたし、その気がなくとも高学歴エリートの少ないロシア帝国の役人の手腕にはあまり期待できない。
もちろん国がこんな状態では、当然ながら軍隊もそれを反映したものになる。
「わが軍の現有兵力は110万人、うち将校は4万となっております。動員を掛けた場合には、将校7万5千、兵450万人までに増員することが可能です」
地図を広げたスターリンの前では、立派なカイゼル髭を生やした軍人がロシア軍の現状を説明していた。
彼の名は、アレクセイ・ブルシーロフ。後に「ブルシーロフ攻勢」と呼ばれる一大作戦を実行し、オーストリア軍40万人を捕虜にするという大戦果を挙げた英雄である。
「問題は、大砲と弾薬の不足です。我が軍の野砲中隊には6門しか大砲がなく、8門が基本の他国に後れを取っています。また、重砲連隊に至っては他国の約半分です」
ブルシーロフの説明は明瞭かつ簡潔で、余計な誇張や装飾といった無駄が一切ない。実直で裏表がない性格も、スターリンの好みだった。
(だが、帝政ロシア軍の実態がここまで酷いとはな……知識としてある程度は知っていたが、ここまでとは)
一応、①体罰禁止 ②国民皆兵制の施行 ③兵役期間短縮 ④士官学校設立 ⑤軍管区制度の設立、といった大規模な軍制改革(ミリューチン改革)が数年前に施行されているものの、それでもドイツやイギリスに比べれば軍の後進性は否めなかった。
(まず、将兵の士気が低い。革命精神と愛国心に燃えたソビエト赤軍とは段違いだ)
帝政ロシアの軍隊における将校はすべて貴族で占められ、農民出身の兵士たちとの仲間意識は無いに等しい。将校は兵士を見下し、同じ人間として見ていなかった。
無論、これでは信頼関係など育つはずもない。日頃から理不尽な体罰を加える上官に「命がけで戦え」などと命令されて、その通りにする兵士が一体どれほどいるだろうか。
(後は火力だな。とにかく、大砲の数が不足している)
『砲兵は戦場の女神』―—かつてスターリンにそう言わしめたほど、大祖国戦争におけるソ連軍砲兵の活躍は目覚ましいものがある。
「ロシアの無尽蔵の兵力に負けた」とは、負け犬のドイツ軍が好んで使う言い訳だ。しかし、それは全くもって見当違いというほかない。大祖国戦争を通じて東部戦線における兵力比はせいぜい2:3ほどでしかなかったのに対し、大砲や戦車、航空機のそれは実に4倍以上にも達したのである。
とはいえ、こうしたソ連軍の「火力主義」は第一次世界大戦とロシア内戦から学んだ結果であり、この時代では旧態依然とした「白兵戦主義」が陸軍の大部分を占めていた。どこかの島国と同じく、銃剣の扱いと精神力こそが勝敗を握る鍵だと信じられていたのである。
――かつて砲兵“軍団”すら揃えたソビエト赤軍に比べて、なんと貧弱なことか!
問題はそればかりではない。
工業の未成熟のせいで工場が足りず、弾薬不足も深刻だ。しかも工場で生産される大砲は低品質で、標準化も遅れている。加えて義務教育の遅れのために砲術士官が足りず、間接射撃がほとんど出来ない。
そして何より「兵站」の弱さだ。鉄道網は広大な国土に比して圧倒的に不足しており、敷設された鉄道も非効率な運用がなされている。高級司令部と兵站部は汚職と不効率によってひどく弱められており、将校の質的な弱点は改善されない上に数が不足していた。
近代装備についても通信システムが未整備で、師団司令部が平文で無線連絡を交わし合う有り様であり、軍の自動車保有数は700台に満たなかった
「やはり、軍の改革には工業化が不可欠だ。とにかくロシアの工業化を素早く図り、軍の機械化を進めねばならん」
戦争を抜きにしても、国家の繁栄のために迅速な工業化は必要であった。帝国主義の全盛期において、工業化の波に乗り遅れた後進国に待ち受けているのは列強の植民地でしか無いからだ。
翌日、参謀本部に現れたニコライは到着早々、これまでの方針を一変させる爆弾発言をぶん投げた。
「ドイツ侵攻は中止するぞ」
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