第17話 ブルシーロフ攻勢
1916年6月、連合国は勝利の報に沸き立っていた。この月に参戦したロシア帝国の大攻勢、通称「ブルシーロフ攻勢」が大成功を収めたからである。
ブルシーロフ攻勢のきっかけは、フランス軍からの要請であった。フランス第3共和国はニコライ2世に対して、東部戦線で攻勢に出る事でドイツ軍の戦力を分散させ、西部戦線への圧力を軽減させて欲しいと助けを求め、これにニコライが応じる形となった。
「フランス人め、ついに恥も外聞も無く泣きついてきたか。まぁ、毎度のようにパリを即落ちされてる連中にしては、今回はまだ粘ってる方だが」
ロシア帝国にとっては、恩を高値で売りつけるまたとない機会である。戦後交渉の際には有利に国境線を画定できるだろう。
攻勢作戦を開始するにあたって、ブルシーロフは歩兵40個師団と騎兵15個師団からなる4個軍を作戦地域に集結させた。対するのはオーストリア軍の歩兵39個師団と騎兵10個師団で、西部戦線仕込みの塹壕線を3重に構築していた。
開戦当初、西部戦線で行われた攻勢がいずれも多数の死者を出して失敗に終わったことから、ほとんどの軍人や有識者はロシア軍の計画に否定的だった。
戦闘経験のないロシア軍の実力を疑う者も多く、「短期間の集中砲火の後、広範囲で多方向からの同時突破」というブルシーロフの作戦を「机上の空論」とバカにする声がほとんどであった。
当時の西部戦線では、敵の強固な塹壕陣地を破壊するために丸1日以上もかけて長期間砲撃した後、狭い攻勢正面に兵力を集中して突破する方法が主流であった。
こうした戦法はイーペル会戦からアルトワ会戦などでも見られるが、攻撃側が数十万トンの砲弾と十数万の兵力を集中させても突破できたのは僅か数キロに過ぎない。作戦に失敗する度に双方の指揮官は「まだまだ火力が足りない」と考えてより一層の火力集中を行った結果、美しかったフランスの田園風景はまるで月面のようなクレーターだらけの荒野へと姿を変えていった。
対して、ブルシーロフのとったアプローチは全く違うものだった。
ブルシーロフ攻勢がそれまでの戦いと異なるのは、短時間だが正確な砲撃を行うことであり、敵がまだショックから立ち直らないうちに素早く攻撃に移るというもの。
西部戦線では陣地を丸ごと破壊すべく数日にわたって入念な砲撃が行われていたものの、塹壕陣地は想像以上に砲火に耐え、結果的に攻勢が始まるころには敵も増援を呼び寄せてしまう。
これほど戦力を集中させても突破できないのだから、ましてやブルシーロフの主張する「兵力と砲撃を薄く広く分散させる」攻撃計画が失敗すると予想するのはある意味では当然の見方だろう。実際、ロシア軍にもブルシーロフの作戦を疑う将軍は多くいた。
だが、後世の歴史を知るニコライは周囲の反対を押し切ってブルシーロフの作戦を支持する。
「大事なのは奇襲だ。狭い正面に兵と大砲を集結させれば、どんなアホでもそこが攻められると分かる。その上で丸一日も砲撃している間、敵が黙って大人しくしてくれると思うかね?」
後世の人間だからこそ分かる後付け知識をあたかも自分が発見したかのように披露した後、ニコライはブルシーロフの戦法を『浸透戦術』と名付けて作戦の全権を委任した。
こうして皇帝の全面的なバックアップの元、ブルシーロフは偵察機や飛行船、スパイに騎兵など様々な手段を使ってオーストリア軍の陣地を徹底的に調査していく。短い時間に正確な砲撃を加えることで「陣地の破壊」より「防衛システムの無力化」を狙うのだ。
短期間の砲撃は物理的な損害をほとんどもたらさないが、ロシア兵は構わず砲撃終了と同時に突撃を開始する。
この時オーストリア兵は砲撃を避けて地下深く掘られた掩蔽壕にこもっており、彼らが配置につく前にロシア軍は一気に弱点を突破した。
続いて特別に訓練された小規模の突撃部隊が、複数個所から事前に調べた敵の弱点を縫うように突破・後方へと浸透していく。
この際、強固な拠点の制圧などは後続の歩兵部隊に任せ、通信所や司令所などの重要拠点のみを潰していくよう指示されていた。
ブルシーロフはこれを一か所だけでなく広域で行い、同時攻勢による多点突破を狙った。後の浸透戦術、電撃戦、そして縦深攻撃にまで連なる現代機動戦の元祖こそ、このブルシーロフ攻勢なのだ。
さらにニコライ直々の命令により、史実と違ってブルシーロフの南西方面軍を西部方面軍と南部方面軍が援護することとなる。最終的に100万人以上のロシア軍将兵が参加し、45万のオーストリア=ハンガリー帝国軍の3重の防衛ラインを次々に突破していった。
各地で同時多発的に行われたロシア軍の大攻勢により、オーストリア軍の戦線は各地で崩壊し、しかも指揮所や通信所を集中的に狙われたために大混乱が発生。指揮官たちは現場で何が起こっているか分からず、兵士も気付けば司令部が制圧されている有様では組織的に動けようもない。
結果、オーストリア軍は兵力の大半を残しながらも自軍が包囲されているかのような錯覚に陥り、その殆どが士気喪失によってロシア軍に降伏。この攻勢によってロシア軍は約半数の50万人に及ぶ大損害を出したものの、それと引き換えにドイツ軍の損害は35万、そしてオーストリア=ハンガリー帝国の損害は実に150万以上に上ったのである。
ブルシーロフ攻勢は4か月続き、1916年10月に補給切れでロシア軍が進撃を停止したころには、オーストリア=ハンガリー帝国の主力である東部戦線方面軍をほとんど壊滅させたのであった。
「ははっ、はははははははははッ―――!」
この報告を受けた時、ニコライは大声をあげて飛び出さんばかりだったという。
(勝てる!これは勝てるぞ――)
既にブルシーロフ率いるロシア軍はカルパティア山脈に到達、ウィーンまであと一歩という所まで迫っているという。
「オーストリアは滅びるぞ」
早くもニコライは勝利宣言を出し、水面下でオーストリア=ハンガリー二重帝国に対してロシアと単独講和するよう和平交渉に動き始める。事実、戦闘能力を完全に喪失したオーストリア=ハンガリーにロシア軍を止める力は無く、不可能と思われたカルパティア山脈を越えてきたロシア軍がウィーンに雪崩れ込むのは時間の問題かと思われた。
対照的に、これを聞いて卒倒しかけたのは中央同盟軍である。
ドイツ軍の新参謀総長ファルケンハインとヴィルヘルム2世は一様に蒼ざめ、慌ててヴェルダン作戦の中止と東部戦線への増派を決意する。
壊滅状態のオーストリアに至っては完全に士気を喪失し、総司令官コンラートや皇帝フランツ・ヨーゼフは独自に単独講和の道を模索し始める始末。
もちろん、連合国としてはオーストリアの単独講和を許すはずもない。特に英仏は多数の死者と多額の戦費負債を抱えているため、全面降伏に追い込んで多額の賠償金を請求する気まんまんであった。
***
しかしブルシーロフ攻勢から3か月、ハンガリー王国およびガリツィア王国を降伏させ、ウィーンまであと一歩というところでロシア軍の進撃は停止していた。
理由はいくつかあるが、まずは補給面の問題があった。
もともとロシアの道路・鉄道事情はよろしいとは言えないし、多少マシになったとはいえ弾薬・輸送車両の生産を支える工業力も高くはない。
ドイツ軍が西部戦線から兵力を転用する前に、出来るだけ多くのオーストリア=ハンガリー二重帝国領内を占領しようと100万人以上の大軍がカルパティア山脈を越えたことで、補給線が完全に限界に来ていた。
せめてオーストリアが工業国であれば占領地の鉄道を利用できたかもしれないが、残念ながらオーストリア=ハンガリー帝国の方もウィーンとブダペストから放射状に幾らかの鉄道網が完成しているにすぎず、ロシアの大軍を支えるには国内のインフラが貧弱過ぎた。
そのためロシア軍は現状、ハンガリー王国とガリツィア王国と二重帝国の半分以上を手中に収めているものの、無茶な進軍で補給が限界に来ていた。
既に前線では弾切れの兵士が続出し、食料や衣服の補充も間に合わず、現地住民の怒りを買う現地徴発でどうにか間に合わせている始末。
(この状況でパルチザン化されると少々厄介だな・・・)
スターリンは第二次世界大戦で、どれほどパルチザンが厄介な存在になりうるか身をもって経験している(どっちかというと、させた側ではあるが)。後々の統治や西方進出、傀儡国家の樹立といった戦後交渉を考えれば、あまり現地住民の怒りを買うことは不利に働くだろう。
こうして、瀕死のオーストリアは一歩手前で辛くも一命を取り留めた。以後、ハンガリー王国とガリツィア王国を喪失したオーストリアは残された領土に塹壕を築いて防戦一方となるのであった。
ちなみにこのままウィーンに突撃できないのかというと、ハンガリー王国(大ハンガリー)がカルパチア盆地に囲まれた地形なので、残るオーストリア帝冠領に進軍しようとすると、また進軍困難な山越えになります。
敵地のど真ん中で、戦力が半減し、補給が切れかけた状態で、山越えなんてしようものなら流石にどんな軍隊でも壊滅しますので・・・。
何事も無茶は禁物。




