第16話 瀕死の病人
色々と補足したいことが出てきたので、割り込み投稿
ここで、少し話を巻き戻す。
その名の通り世界大戦の波は列強がひしめく中央ヨーロッパから、はるかバルカン半島にまで達していた。軍事・経済・人口のどれをとっても列強には及ばないが、アジアへ通じる交通の要衝ということもあってバルカン半島の地政学的な重要性は小さくない。
列強のパワーゲームはこの地の中小国を容赦なく世界大戦の渦へと引きずり込み、ある者は野心を胸に、ある者は止むに止まれず、数多の人々の願いと欲望は『ヨーロッパの火薬庫』に火をつけていく……。
***
かつて「永遠の国」というスローガンを掲げた国家が存在する。
中東の覇者として台頭したその国は、やがて地中海を支配し、1000年もの長きにわたって続いたローマ帝国の末裔を滅ぼし、全てのキリスト教徒を恐怖のどん底に陥れた。
かの国の名は――。
「オスマン帝国は滅びるぞ」
1914年10月29日、オスマン帝国はクリミア半島を砲撃してロシアとの国交を断絶した。その報告を受けた皇帝ニコライ2世は落ち着き払ったまま、小馬鹿にしたように嘆息するのみだった。
「英仏は?」
「オスマン帝国に抗議しましたが、無視されたようです。すぐに協定に基づき、我が軍と共に戦争に参加するでしょう」
部下の報告に、ニコライはほくそ笑んだ。
飛んで火にいる夏の虫、という諺が東洋にはあるらしいが、まさに今のオスマン帝国がそれだ。ドイツ帝国からの軍事・経済援助を受けて近代化に取り組んでいるようだが、ロシア帝国が本気で介入すれば物の数ではない。
兵力だけをみればコーカサス方面に展開しているロシア軍は100万人程度であるのに対し、オスマン軍は300万と圧倒的に優位にある。しかしエジプトに展開しているイギリス軍への対応もあり、またドイツ式の装備と訓練を導入したとはいえ、依然として前近代的な部分を多く残していた。
ただ、それでもオスマン帝国軍が開戦を決意したのは、第1次世界大戦が中央同盟優位に推移していたからだった。
つい1か月ほど前にはドイツ軍がついにパリへ突入し、その占領と共に大戦は同盟国の勝利で終わるはず。そしてオスマン帝国はバグダード鉄道の建設やドイツ軍事顧問団を招いての軍制改革など、かねてより中央同盟との関係が深い。であれば、勝ち馬の尻に乗った方が得策であるはず。
国内には慎重論もあったが、最終的に親独派に押し切られる形で連合国に対してジハードが発令される。親独派の筆頭である陸軍大臣エンヴィル・パシャの狙いは、ロシア軍に対して奇襲をかけることで一気にコーカサス地方を占領することだった。
一方、連合国も黙ってはいない。11月初、イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国に宣戦布告する。オスマン帝国もこれに呼応するように、12月末には総攻撃が開始された。
「コーカサス方面軍のユデーニチには、攻めてくる敵から防衛線を堅守するよう伝えよ」
ニコライ2世は徹底的にオスマン帝国を叩くつもりでいた。複数の敵と対峙する時には、まずは弱い敵から順に叩いていくのが鉄則だ。まずはオスマン、ついでオーストリア=ハンガリー、そして最後に孤立したドイツをじわじわと締め上げていく。
加えて、オスマン帝国との戦いで大戦果をあげれば悲願の不凍港が手に入る。ここは必勝を期して圧倒的な大軍で踏み潰すしかあるまい。
「増援としてセミョーノフのザバイカル・コサック軍25万を向かわせろ。敵の補給が切れたところを、背後から逆包囲してやれ」
「御意」
だが、サンクトペテルブルクから届いた命令を見て、コーカサス方面軍参謀長ニコライ・ユデーニチは憤慨した。
「宮廷のウスノロ共め! なーにが増援だ!」
禿げ上がった頭を茹でダコのように真っ赤にして、ユデーニチは机を勢いよく叩く。たしかに敵の数は倍以上だが、地の利(塹壕陣地)、天の時(冬の訪れ)、人の和(軍の統制)は全てこちら側にある。
オスマン軍の動きを見る限り、どうやら全軍の半数でロシア・コーカサス方面軍を拘束して残る半数で背後から回り込むつもりらしい。しかし補給や装備の充足率は低く、インフラが貧弱で山がちなコーカサス地方においては致命的だ。こちらが動揺して隙を見せなければ、後は勝手に補給が尽きて自滅するはず。
「増援なんか待ってたら2か月はかかる! その間に勝機が逃げてしまうぞ! いいか、宮廷にはこう返答するんだ―――」
憤慨してはいても、相手は絶対君主たる皇帝ニコライ2世である。ユデーニチは慎重に言葉を選んで婉曲な言い回しで気を遣ったものの、要するに言いたいことは以下のようなものであった。
別に倒してしまっても構わんのだろう、と。
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1か月後、コサックの増援を待つまでも無くユデーニチのコーカサス方面軍はオスマン軍を壊滅させ、逆にオスマン帝国領内へ侵入を果たしていた。
「ユデーニチのハゲめ、やるではないか!」
すっかり気をよくしたニコライ2世は、ユデーニチの無礼を不問にした上で中将から大将へと昇格させた。ソビエト連邦では実力主義による論功行賞が常であり、ニコライ2世ことスターリンは結果を出せる有能な人間には寛大であった。
ユデーニチ率いるロシア・コーカサス軍はそのまま、黒海沿いに西のイスタンブールに向けて一気に突き進んでいる。黒海沿いであれば、優勢なロシア黒海艦隊から補給を受けることも出来るからだ。
「この戦い、我々の勝利だ!」
ニコライ2世の中では、既に中東戦域は勝ったも同然であった。既に戦後を見据えての布石も打ってある。
「アルメニア人、そしてクルド人の独立を我々が支援してやろうではないか」
オスマン帝国の東部、黒海に面するトレビゾンドからシリアにかけての一帯には多くのアルメニア人が住んでいる。また、さらに南東部のペルシャ国境付近にはクルド人の住む地域があった。
多民族国家であったオスマン帝国においてはスルタンの権威と封建制、そしてイスラム教によってこうした少数民族もトルコ人と共存しており、昔から両者の対立があったわけではない。しかし国民国家や民族主義の高まりと共に少数民族の間には独立の機運が高まり、一方でトルコ人の間でも強制同化と弾圧の圧力をかける風潮が高まっていく。
そしてオスマン軍が初戦で大敗したのをきっかけに、国境付近に住んでいたアルメニア人が一斉に蜂起する。アルメニア人集落からは多くの若者が独立を求めてゲリラ活動に参加したり、あるいは義勇兵としてロシア軍への身を投じた。
当然ながらオスマン帝国のマジョリティであるトルコ人はこれを売国行為とみなし、手当たり次第にアルメニア人を逮捕しては収容所へ次々に送り込む。従わない者への処刑や過酷な強制労働は「アルメニア人虐殺」と呼ばれるほどの勢いとなり、協商国がオスマン帝国を打倒する格好の口実となった。
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ロシア軍がトルコで快進撃を続けている頃、バルカン半島でも大きな動きがあった。それまで中立を保っていたブルガリアが同盟国側で参戦したのである。
「バルカン戦争の恨みを晴らし、セルビアに復讐を!」
第1次バルカン戦争では他のバルカン諸国(セルビア、ギリシャ、ルーマニア、モンテネグロ)と共にバルカン半島を結成してオスマン帝国に勝利を収めたものの、その取り分を巡ってブルガリアは孤立して第2次バルカン戦争でフルボッコにされたという経緯がある。
(大国オーストリアとの戦争で、小国セルビアは滅亡寸前……我々がここで背後を突けば容易に領土回復できるのでは?)
ブルガリア政府と国民の間では主戦論が高まり、中央同盟にしてもブルガリアを引き入れることでドイツからオスマン帝国まで陸路で連結されることは大きな強みとなる。
かくしてブルガリアが戦争に参加したことにより、辛うじてオーストリアの攻勢に耐えていたセルビアの命運は決した。挟み撃ちに合ったセルビア軍はブルガリア参戦の1か月後に降伏する。
さらにこの一か月後、モンテネグロ王国とアルバニア王国も中央同盟に降伏、占領地はブルガリア軍とオーストリア=ハンガリー軍の間で分割された。ギリシャは中立を保ち、中央同盟もトルコまで陸路で連結し、バルカン半島を安定させるという目的を達成したため、これ以降しばらく大きな動きは見られなくなった。
こうして1916年の初頭にバルカン戦域で中央同盟軍は完全勝利をおさめ、オーストリア=ハンガリー帝国軍の大部隊が東部戦線へと移動する、その矢先の出来事だった。
ロシア軍、ブルシーロフ攻勢を発動――。
バルカン戦線から中央同盟軍が北上するギリギリまで入念に準備を行い、ついにロシア軍の大攻勢が開始されたのであった。
最近のアゼルバイジャン・アルメニア紛争でも話題のトルコとオスマン帝国時代からの因縁