第15話 未来のエリート
フランス・カレーの港では、軍艦でごった返す波止場にはあまりにも不似合いな少女が盛大な歓待を受けていた。
細身で背が高く、赤褐色の髪に濃い青灰色の瞳――皇帝の娘にふさわしい高貴な顔だちは、洗練された彫刻のよう。当時の人々をして最も美貌の皇女と言わしめたタチアナ・ニコラエヴナ・ロマノヴァは、この時まだ17歳であった。
―――というのが、もう半年も前の話である。
1915年現在、タチアナはヴォスネセンスキー・ユサール連隊の名誉指揮官として、西部戦線でも屈指の激戦区ヴェルダン付近に投入されていた。
「はぁ……」
雨でぬかるんだ、泥だらけの塹壕の中でタチアナは少女らしからぬ大きなため息を吐いていた。
『 泥、泥、泥。戦場は想像していたのとは、全く違う所です。何日も、濡れた粘土の中を歩き続け、敵味方が砲撃する音で叩き起こされる暮らしは、どんなものか想像もつかないでしょう。
最悪の敵はドイツ兵ではなく、冷たい雨です。厚いブーツを履いていますが、足は氷の塊のようで指の何本かは思い通りに動かせません。そんな感じで、私は今日も泥の塹壕の中にいます…… 』
皇女に似つかわしくない愚痴を日記に書き連ねてしまうほど、タチアナは西部戦線の塹壕戦に辟易としていた。
「ロシアに帰りたいなぁ……」
ぼそっと本音が漏れてから、慌てて周囲に人がいない事を確認する。一応、18歳でも公人なので発言には気を使わねばならない立場なのだ。
結論からいえば、スターリンの策は政治的パフォーマンスとしては想像以上の効果をあげていた。既にヨーロッパ中の新聞で号外が出され、仰々しく「タチアナ皇女、戦地へ出陣す!」との大見出しまで乗せてある。
その内容は愛国心と使命感に燃えた若くて美人の皇女たちが、盟約に従って同盟国フランスを助けるために自ら出陣した、というもの。
ヒロイズムを前面に押し出したありきたりな演出ではあるが、分かりやすい筋書きであることや、連日の鬱屈したニュースに飽きて華やかな話題を求めていたフランス国民の反応は悪くない。フランス政府の方でも兵士の士気を上げるために「ロシアのジャンヌ・ダルク現る!」などと盛んに煽っているようだ。
(まぁ立場上、自分で戦地に行くことは殆ど無いのだけれど……)
皇族でしかも女性というタチアナは、少将相当の階級を与えられたとはいえ、基本的には名誉職である。そもそも派遣の目的自体がプロパガンダなので、実務は誰からも期待されていない。大事なのは、偉い人が現場で将兵と寝食を共にして苦しみを分かち合っている、という事実だ。
………ただ一人、父ニコライを除いては。
『――よいかタチアナ。軍高官に怪しい動きがあれば、すぐに知らせなさい』
出征直前に父ニコライから受け賜った、ありがたいお言葉である。要するに「軍人は信用ならんから監視しておけ」という事だ。
(去年に倒れて復活してから、父上は人間不信気味だからなぁ……)
そのためタチアナは便宜上、「帝国憲兵隊」の将校を兼任している事になっている。これはソビエト連邦でいう「政治将校」にあたり、軍の秩序維持や監視を担っていた。
もっともハリウッド映画のイメージとは違い、そもそもソビエト時代の政治将校にしても「味方を背後から撃つ」なんてのは限られた一部の末期的現象だ。
政治将校の大半は上司からのパワハラや同期からのイジメ相談といったカウンセリング、社会主義への啓蒙活動に読み書き教育(ロシア軍は文盲が多い)、女性兵士や少数民族出身の兵士に対する配慮など、どちらかといえば生活課のような業務が多い。中隊ごとに1人づつ配属される政治将校は、有体に言えば中隊というクラスの学級委員長のようなものだ。
「――浮かない顔をされていますな。どうかされましたか?」
内心の鬱屈が顔に出ていたらしく、タチアナは通りがかった一人の将軍に呼びかけられた。長身で理知的な風貌だが、ややガニ股で歩いてくるのでイマイチ威厳に欠ける。
「マンネルヘイム少将……!」
男の名はカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム……史実ではフィンランド軍の最高指揮官として、独立戦争と冬戦争から祖国を救った国民的英雄である。
しかし当時のフィンランドはまだロシア帝国領であり、マンネルヘイムも2つの近衛騎兵連隊と1つの近衛騎砲兵中隊を率いる帝国軍人であった。皇帝の直属部隊である近衛を預かる少将であったため、彼もまたニコライの命によってフランスに来ていたのだ。
「姫殿下、ここは冷えます。ささっ、早く本営に入ってお茶でもどうですかな?」
「いえ、私の方が階級は下なので少将もお気を使わず……」
「まぁまぁ。そう言わず、暖かい部屋にお入りなさい」
元から押しが強い性格なのか、相手が皇女だろうと自分のペースで押し切ってしまう。そういう男なのだ。
ちなみにこの時期、軍人としては成功を治めたマンネルヘイムであるが、私生活では妻に離婚されたりギャンブルで大負けして困窮していたりする。ちょっと強引だけど、悪い人ではないというのがタチアナの印象であった。
(いい人なんだけど、どうして父上は妙に冷たいんだろう……)
去年に一度倒れてから、父ニコライは理由もなく人を嫌ったり優遇するようになった。
ある時はウラジーミル・トリアンダフィロフという若い士官候補生を「君は将来、偉大な戦争理論家になる」と言って激励したかと思えば、同じく若い士官候補生であるミハイル・トハチェフスキーを「こいつはドイツのスパイだ。シベリアに流せ」と理不尽に秘密警察に逮捕させたりすることもある。
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この時のタチアナはまだ知る由もなかったが、ニコライは今回のフランス遠征軍に将来のロシア軍を支えるであろう人間を知り得る限り送り込んでいた。
ニコライことスターリンは最高指導者であって技術的な知識こそ専門家に劣るし実際に詳細は忘れているものの、有能な人材の顔と名前ぐらいは覚えている。だったら自分でやるより、できる人にやらせればいい。餅は餅屋、という訳だ。
その代表例が、後に「連続作戦理論」を完成させるトリアンダフィロフ大尉を始め、「作戦術」の概念を提唱したアレクサンドル・スヴェチンや、高度な管理手腕によって戦間期の赤軍を支える事になるボリス・シャポシニコフ大佐らである。
ニコライが彼らに期待したのは、後のソビエト軍事理論の集大成となる「縦深攻撃理論」を完成させること。そのために西部戦線の実戦を見せ、従来の軍事理論の限界とその打開策を考えさせるように指示していた。
軍人ばかりではない。将来の兵器開発を担う優秀な技術者・科学者たちもまた、英仏との技術交流を目的に多数送り込まれていた。
ヘリコプター開発のパイオニアであったイーゴリ・シコルスキー博士、ロケット理論や人工衛星の研究で知られるコンスタンチン・ツィオルコフスキー博士、著名な無線の発明者である物理学者のアレクサンドル・ポポフ博士、空気力学を研究して現代的な翼理論を確立したニコライ・ジュコーフスキー博士と、後に「○○開発の父」と呼ばれる著名人揃い。
つまり「ロシア・フランス遠征軍(REF)」は当時と将来のロシアが誇るエリートを集結させた精鋭部隊なのだ。
もっとも、その事実を知るのは皇帝ニコライのみ。未来の超絶エリートたる彼らも、タチアナに言わせれば新しいもの好きの変人集団でしかない。
わずかな時間を割いて集まっては、複雑な数式やら理論やらを延々と議論していて、何に使うのかさっぱり分からない実験をして爆発騒ぎなど日常茶飯事である。
(でも、宮殿にいた頃よりは楽しいかな。新しい発明品が出来上がるのは、見ていて面白いし)
思えばタチアナは、彼らが持っているような情熱や何かに夢中になるという経験をした事が無い。皇族の一員として、生まれながらに人生の半分は決められているようなものだ。
多くの民衆が貧困にあえぐ社会の中で、それがどれだけ贅沢な悩みである事は彼女も自覚している。衣食住は不自由がないどころか豪華過ぎるほどで、将来が約束されているというのは裏を返せば先の見えない不安とは無縁ということ。ゆくゆくは妹のマリアのようにどこぞの名門貴族の子弟の元に嫁ぎ、子を生むという役目を果たせば後は悠々自適の毎日が待っているはず……。
そんな皇女という身分でありながら戦場に出向くという、平時であればありえない経験には多くの発見があった。
勿論、実際には色々と幻想を打ち砕かれた部分も多い。本物の戦場は赤の広場で見た絢爛なパレードとは似てもつかなかったし、宮廷を離れて自由になるどころか一層「ロシア皇女」としての身分を意識しなければならない立場に置かれている。
だが、それでも色々な階級や国の人と寝食を共にし、自分の知らない世界の話を聞くのは今まで味わった事のない刺激と充実感があった。
「イギリス軍の知り合いから貰った、ダージリンのファーストフラッシュです。姫様、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
マンネルヘイムから差し出されたティーカップを受け取ったタチアナが、その芳しい香りを堪能しながら頭を切り替えようとしたその時、慌てふためいた足音と共に一人の兵士が部屋に飛び込んできた。
「さ、先ほど本国から連絡が……!」
ただならぬ兵士の様子に、タチアナもマンネルヘイムもついに来たるべき時が来たのだと確信する。
「それって、まさか――」
「以下、クレムリンからの電報を読み上げます! “我、皇帝の名のもとにおいて、ドイツとオーストリアに正義の裁きを下さんとす。祖国と正義のため、悪を討ち果たさん!”――以上です!」
史実より遅れること約1年、ついにドイツへの全面侵攻が開始されたのだ。同日中に総司令官アレクセイ・ブルシーロフに率いられたロシア軍60万人が、40万の兵士が守るオーストリア領ガリツィア(現ポーランド南部)へ侵入する。
後世に名を残すことになる、『ブルシーロフ攻勢』が開始されたのであった。
トハチェフスキー「ごめん、同窓会にはいけません。僕は今、シベリアにいます。この国を東西に横断する鉄道を作っています」
きっといつか誰かの夢を乗せる、はず。