第14話 ロシア・フランス遠征軍
しばらく、モルトケとファルケンハインは俯いたままだった。
「すまんな、苦労を掛けることになる………」
「いえ……」
互いにかけるべき言葉を失っているところに、伝令が報告を持ってくる。
「――閣下、ロシアに動きがありました!」
「というと?」
「ロシアのニコライ2世がイギリス・フランス大使を召還し、直々に動員の遅れを謝罪したという情報が来ています。その上で改めて協力と忍耐を両国に伝えたとか」
「口では何とでも言える。二枚舌のイギリス人共が、それを一番わかっているはずだ」
あまり関心のなさそうなモルトケだったが、続く伝令の言葉にワインを飲む手を止めた。
「その日のうちに即応可能な精鋭部隊を抽出し、REFF(ロシア・フランス遠征軍)と名付けて西部戦線へ向かわせるよう参謀本部に指示したそうです。2個旅団を先遣隊とし、最終的には少なくとも30万を海路でフランスに届ける予定とのこと」
「30万か……数としては少なくはない。だが、兵の質と到着時期を考えると、せいぜい政治的パフォーマンスと見るのが妥当な線だな」
実際、史実のロシア・フランス遠征軍(REFF)は陸路とバルト海が戦場になっていたため、北海経由か、中にはモスクワからシベリア鉄道で日本領の遼東半島まで送り、そこからシンガポール~スエズ運河経由で南仏のマルセイユに上陸した部隊もあったという。
「ですが……遠征軍の中にロシアの第2皇女タチアナ殿下と第3皇女マリア殿下がいらっしゃるという話です。情報部の調べによると、タチアナ皇女は自身が名誉隊長を務める騎兵連隊の付き添いとして、マリア皇女はヴィクトリア女王の曾孫ルイス・マウントバッテン卿とのお見合いだとか」
第2皇女はフランスへ、そしてもう第3皇女はイギリスへ。皇帝が己の娘を2人も同盟国に派遣するという事が、依然として階級社会が強固に残っていたこの時代にどれほどの意味を持つかは言うまでもない。
「つまり実質的な人質、というわけか……」
やっとモルトケも合点がいったようだった。不利な状況にもかかわらず抵抗し続ける英仏の態度は、これが理由なのだ。連中はロシアの戦争継続を信じている。
ロシアもまた、言葉だけではなく行動で示すことにより、後には引けないコミットメントを果たしたことになる。
これでドイツの中で微かに残っていた「ひょっとしたらロシアに戦争継続の意思はなく、旧ポーランド領でも割譲すれば講和を結んでくれるのでは?」という早期講和への期待は完全に打ち砕かれた。
「まだまだ長い戦争になるな……」
いつ終わるとも知れぬ冬の時代の到来を予期し、モルトケは暗鬱たる気持ちになるのだった。
***
「陛下、英仏大使は我が国の申し出を快く受諾するとのことです!」
「よしよし。せっかく順調に戦線を押し上げてる最中に、西側のヘタレ共に早期講和なんぞされてはかなわんからな。特にフランス人の忍耐ほど信用できんものは無い」
なんとか娘を2人、実質的な人質として送り込む事でひとまずは納得してくれたらしい。この非情とも思えるやり口に、皇后のアレクサンドラを始め多くの皇族から反対があったものの、ニコライ本人はどこ吹く風である。
(これは戦争なのだ。使えるものは何でも使う。そこに私情なんぞを持ち込めば勝てる戦も勝てなくなってしまう)
ふとスターリンの脳裏に、大祖国戦争で命を落としたヤーコフ中尉の事が浮かぶ。赤軍で中尉を務めていたヤーコフがドイツ軍の捕虜となった時、スターリンはドイツ軍から提示されたパウルス元帥との交換を拒否している。
――中尉と元帥を交換するバカがどこにいるか。
それがスターリンの答えだった。
当時のソ連は捕虜に対して厳しい態度で臨んでおり、指導者の息子だからと特別扱いするような真似は一切しなかった。
結局、ヤーコフは脱走しようとして死亡した。さすがに死亡報告を聞いた日は食事も喉を通らなかったものの、それでもスターリンは自分のした事に間違いは無いと思っている。
今回も、それと同じことだ。家族を人質に差し出す事が国家の利益となるならば、そのことに一切ためらいは無い。
ロシア皇帝とは国家そのものであり、国家に尽くすことが結局は皇帝一家の為になるだ。
**
「―――という訳で、タチアナとマリアは出立の準備をしろ。3時間だけ待ってやる」
即断即決は独裁者の鑑である。何の前触れもなく娘たちの部屋に押しかけてきたニコライは、唖然とする四姉妹の前で当然のように言い放った。
行き先はフランスだ、と最低限の要件だけを伝えてさっさと出て行こうとするニコライ。戦争で同盟国フランスが苦戦していた事は知っていたので、娘たちも政治的な事情があったのだろうと予想はつくはず。
「ま、待ってください!」
慌ててニコライに反論したのは、しっかり者の次女・タチアナだった。
事情は分かるが、あまりに話が急過ぎやしないだろうか。唐突にイギリス行きを言い渡された妹のマリアが泣きそうになるのを見て、タチアナは姉としての義務感から父親の決定に抵抗を試みる。
「いきなり言われても困ります! 準備もまだ……!」
「必要なら後でいくらでも届ける。とにかく今はフランスへ向かうのだ」
「こちらの気持ちも考えて下さい!」
「食事の時に充分、こちらで熟慮した」
「そういうのは思いつきというんです! ほら、マリアもアナスタシアもアレクセイも泣いてます!」
「止めるのは姉の仕事だ。特にアレクセイは男だから、泣くなとよく言い聞かせるように。オリガ、タチアナ、頼むぞ。儂は忙しいのでな」
30秒ほど睨み合った後、タチアナは大きく溜息を吐いて降参した。お手上げだ。
戦争のせいで、優しかった父は代わってしまった。今の父はこういう時に何を言っても、こちらが根負けするまで意見を曲げない。まるで鉄の男だ。
「……分かりました。それで、どの船に乗るのですか?」
「船ではない。飛行船だ」
「…………へ?」
**
「3,2,1―――飛行船『ノヴゴロド』、離陸する!」
艦長の号令と共に飛行船を地上に係留していたロープが外れ、全長200メートルを超す巨体がゆっくりと大地を離れていく。飛行場には大勢の人たちが集まり、拍手と歓声で空へ飛び立つ巨大飛行船『ノヴゴロド』を見送った。
2人の皇女を乗せた皇室専用の飛行船は、これから約48時間をかけて中立国のスカンディナビア経由でイギリスへと向かう。
「凄い! 私、本当に空を飛んでいるんだ……!」
ぐんぐんと高度を上げる飛行船の客室で、タチアナは小さな感動に包まれていた。父親の決定には今でも大いに不満が残るが、それでも初めての飛行体験は心躍るものだった。
「ねぇ、マリアも見て! 人があんなに小さく見えるわ!」
生まれて初めての空に、つい身分も忘れてはしゃぎそうになってしまう。足が地面から離れ、体が宙に浮いたような感覚に、えも知れぬ解放感を覚えていた。
「~~~~ッ!」
対して妹の方、マリアにとって「空」は恐怖でしかなかったらしい。最初こそ感動して窓から地上を覗いていたものの、途中から命の危険を感じたらしく「あ、あ、あ……」と声にならない悲鳴をあげたきり、隅の方で縮こまっている。
「タチアナ姉さんは怖くないの? その……もし落ちたら、とか思わない?」
「そう? でも、陸にいても馬に轢かれるし、船だって海に沈むじゃない?」
「それはそうだけど……」
あっけらかんと語るタチアナに、マリアは呆れ半分で溜息を吐いた。虚勢でもなんでもなく、姉は本気で空を楽しんでいるようだった。
「――楽しんでおられるようですな。気に入って頂けたようで、我々としても嬉しい限りです」
「貴方は……?」
そんな皇女姉妹に声をかけてきたのは、荒れ放題の白髪頭に煤だらけの白衣という格好の老人だった。さながら偏屈な老研究者といった冴えない風貌であるが、穏やかさと鋭さの同居した眼光は老いてなお研究の第一線で活躍している事をうかがわせる。
「おお、自己紹介がまだじゃった! 儂はな、ニコライ・ジュコーフスキーという者なんじゃが……」
その名前なら、うろ覚えだが聞いたことはある。ロシア最初の風洞を作り、10年前に世界初の空気力学研究所を設立した「ロシア航空の父」。
「ひょっとして、貴方がこの飛行船の設計を?」
「正確には儂の弟子たちじゃ。お父上に手厚い援助を受けてからというもの、この分野の研究者もかなり増えたからのぅ」
「父上が……?」
「半年ほど前だったか……急に研究所を訪れたかと思えば、儂らの設計図を眺めて帰り際に10万ルーブルの助成金契約書をポンッとくれての。それからも継続的に支援をしてくれたおかげで資材も人も集まり、図面止まりだった研究がどんどん実現したんじゃ」
研究というものはすぐにはビジネスに結びつかない為、どうしても助成金というものが必要になる。研究者にとって理解あるパトロンを持つことは往年の夢であり、その意味でロシア皇帝という最強の後援者を得たジューコフスキー博士は幸運なのだろう。
「儂は昔から鳥が好きでのぅ、いつか科学の力で彼らのように自由に飛びたいと思ってきた。それが今では現実に近づきつつある。人類は新しい、進化の時代に踏み込んだのかもしれなん……」
これから先、不可能だと思ってた事が次々に実現するぞ――そう言い残してジューコフスキー博士は立ち去って行く。
あとに残されたタチアナは、博士の言った言葉の意味を噛みしめていた。
「新しい、進化の時代……」
タチアナたちを乗せた飛行船は、気づけば雲の目前にまで迫っていた。水蒸気の塊にしか過ぎないとはいえ、その雄大さは今まで見たどの宮殿も、いやウラル山脈にそびえるどんな山も及ばないだろう。
(綺麗……!)
見る者を圧倒する雄大な景色を鑑賞しながら、タチアナは今まで感じたことの無い解放感を覚えていた。マリアの言うように墜落すれば命は無いにもかかわらず、不思議と安息感のようなものすら覚える。
――きっとそれは、『空』には自分を縛るものが無いからなのだろう。
この瞬間だけは身分も立場からも解き放たれて、ただ一人の人間として生きていられる。
大空とは――こんなにも美しい場所だったのか。
科学の進歩とは――これほどまでに驚きを与えてくれるのか。
(私はもっと……その先を知りたい!)
新しい時代への期待に胸を膨らませ、タチアナはいつまでも雄大な景観に見入っていた。
ジューコフスキー博士「10万ドル☆PON☆とくれたぜ」