本当のケダモノ
「ずいぶん探したよルゥ、おまえがあたしのお城から飛び出してから。まさかこんな所に隠れていたなんて……」
「ひっぐっ!!!」
宵闇の奥から明かりの灯った小屋の中に、その人が入ってきました。
その人の低くてよく通る声を聞いて、男の子の体がこわばっていました。
「あなたは、いったい……!?」
震えるその子を抱きしめながら、わたしはその人の方を向きました。
真っ黒なマントを羽織り、ローブをまとった背の高い女の人でした。
まるで夜の闇を流したような、ショートレイヤ―の黒髪。
面長で鼻筋のとおった綺麗な顔立ち。
切れ長の目の緑色の瞳が、エメラルドみたいに輝いて、その子を見つめていました。
桜色をしたその人の唇に、薄っすらとした笑みが浮かんでいました。
その人の顏を見て、その人の声を聞いて。
わたしはムカムカとして吐きそうでした。
わたしには、なぜだかすぐにわかったのです。
この子に、この男の子にあんなことをさせていたのは、その人でした。
「勝手にあたしから逃げ出すなんて、悪い子だルゥ。さあ戻っておいで。おまえには新しい首輪がいる」
女の人が手招きをして、優しそうな声でその子を呼んでいます。
わたしの事を、気にする様子もありません。
「ぐ……ぐ……」
「え?」
そして、男の子の様子が変でした。
ひきつった声を上げて、わたしの腕を押しのけて立ち上がります。
女の人の声に応えて、その人のところまで戻ろうとしている。
「だめだよルゥ!」
わたしはとっさに、男の子の手をつかみ止めました。
あの女の人が呼んだ、その子の名前を呼びました。
「ナナオ……?」
その子が、ルゥが、我にかえったようにわたしの方を向きました。
「戻ったらだめ。またあの人に無理やり……さっきみたいなことをさせられて! あんなこと間違ってる! わたしと一緒にココにいるの!」
「う……ああ……」
わたしは必死で、ルゥにそう呼びかけました。
ルゥの手が、震えていました。
銀色に目が宙を泳いでいました。
わたしにはわかりました。
ルゥは迷っていました。
「人間の子供。魔法使いの弟子か……」
女の人が、わたしの方を向きました。
まるで、今ようやくわたしの事に気付いたみたいに。
その声は、氷の刃物みたいに冷やかでした。
「クルルの森のアンカラゴンが人間の弟子を迎えたと伝え聞いてはいたが、まさかこんな子供。それもドッチつかずの半端者とは。竜人の大魔法使いも耄碌したものね……」
「……やめて!」
ルゥの手を掴んだまま、わたしはその人をにらみつけました。
その人の吐き出す言葉は、まるで形を持たない汚物のようでした。
「教えてください。なんでこの子に……ルゥに、あんなことをさせていたの? あんな酷いことを」
わたしは床に転がった銀色のオタマを拾い上げて、その人に構えました。
その人の緑の瞳を見据えて、わたしはそう尋ねました。
「あはは。酷いこと? ずいぶんなイイグサね。あたしのモノを、あたしがどう使おうが、あたしの勝手じゃないの? さあルゥ。こんな子供は放っておいて、一緒に帰るよ。お城に戻って、いつもみたいにあたしを満たしておくれ……」
その人はコロコロと笑って、わたしにそう答えました。
そしてルゥの顏を見て、再びルゥを手招きします。
「違う、この子はモノじゃない!」
「いいや、モノさ。いいことを教えてあげる」
わたしの言葉を遮るように、その人がそう答えました。
「この子も元々お前と同じ、人間の世界で生まれたんだ。だけどすぐに親に恐れられ捨てられた。満月になるとオオカミに変わってしまう、獣の血が濃すぎたせいでね!」
その人は、ルゥを指さしてニヤリと笑いました。
「森で道に迷い、闇に飲まれて死にかけていたところを、『転界』で人の世を巡っていたあたしが、たまたま見つけて救ってやったんだ。あたしが拾ったあたしのモノさ……!」
「…………!」
その人の話に、わたしは言葉を失いました。
ルゥをつかんだ自分の手に、ギュッと力がこもりました。
この子も、わたしと同じでした。
そして……
わたしは黒いローブの女の人の姿を見て、全身からイヤな汗が噴き出してくるのを感じました。
わたしは目の前で笑うこの人は、お師匠さまと同じ。
魔法使いでした。
「ナナオ……とかいったね。半端者」
その人の緑の目が、わたしをにらんで冷たく輝いていました。
「アンカラゴンの弟子を気取って調子に乗っているなら、試してみるかい? 半端者のお前の魔法で、本物のあたしの業を止められるかどうか……」
ザワザワザワ。
女の人のローブの奥で、何かが蠢いていました。
「『薔薇の軛』!」
ルゥを指さし、女の人がそう唱えました。
ザザアアア……
その人の右手から、ローブの中から、何かが飛び出しました。
「ギャアアウ!」
ルゥが悲鳴を上げました。
ローブの中から飛び出してルゥの首に巻き付いているもの。
それは緑色に輝いた、うごめく薔薇の茎でした。
薔薇の棘が、ルゥの首を引っ掻き、ルゥの肌に突き刺さります。
ポトポトと、ルゥの赤い血が床板にしたたりました。
「あははは! どうだい新しい首輪は! さあルゥ、あたしと来るんだ!」
「ルゥ! やめて!」
女の人の高笑いと、ルゥの悲鳴。
わたしは耐えきれず、右手のオタマをその人に向けて振りました。
「『解除』!」
その人の魔法を解除して、ルゥを薔薇から解き放とうとしました。
でも……
「えっ!?」
振り下ろそうとしたオタマが、空中で固まっていました。
その時になって、ようやくわたしは気づきました。
ズズズズズ……
小屋の床板から何かが伸びあがって、わたしの足に絡みついていました。
床から生えているのは、草の蔓でした。
見る見る内に成長していく蔓が、わたしの足だけでなく、体にも両手にも。
わたしを締めつけて、縛り上げて、動くことが出来ない。
「あははっ! マヌケな半端者。あたしが『絡み蔓』の魔法を発動させていたことに、今ごろ気がついたのか?」
ルゥを薔薇で捉えて。
わたしを蔓で縛って。
その人はわたしの方に歩いてきました。
わたしを縛る草のつるが、わたしのシャツを、スカートを引き裂いていきました。
「いうううう!」
むきだしになっわたしの体に、蔓が食い込みました。
息が苦しい。
体がちぎれそうです。
「ざまあないねえ。ナナオちゃん……」
その人が床に転がったわたしにかがみこんで、楽しそうに笑いました。
その人が、わたしの顏に手を当てました。
ジットリ濡れたその人の冷たい手が、わたしの頬を撫でまわします。
「フウウウゥ。おまえが邪魔そうにしているお前のソレを、このまま引きちぎってあげようか? あたしがおまえを毀してやったら、アイツは……お前の師匠は、いったいどんな顔をするかなあぁ……!」
わたしの一部に手を添えて、その人は甘い吐息を漏らしました。
面長の綺麗な顏が、ウットリと薔薇色に染まっていました。
エメラルドみたいな緑の瞳が潤んで、キラキラ輝いていました。
「く、狂ってる……!」
わたしは再び、全身の毛が逆立ちました。
この人はやっぱりオカシイ。
心の中の、なにかが壊れてしまった人だ。
縛り上げられたわたしは動くこともできず、その人のされるがままでした。
でも、その時でした。
「ん……ルゥ?」
その人の顏から、ウットリとした笑みが消えました。
その人は立ち上がり、薔薇に捕らわれたルゥの方を向きました。
「ナナオ……ナナオ……ハナセ!」
首から血を滴らせながら、ルゥは立ち上がっていました。
銀色の瞳で、女の人の顏をにらみつけていました。
「ルゥ……なんだその顏は!」
その人が苛立たしげに、右手の薔薇の茎をしならせました。
ルゥを痛めつけて、おさえこもうとしていました。
でも……。
「ナナオ、ハナセ!」
ルゥは従いませんでした。
痛めつけられても、膝をつきませんでした。
女の人をにらんだまま、ジリジリとその人ににじり寄っていきます。
「なんだ……その目は! やめろ、よせ!」
その人の声に、戸惑いが滲んでいました。
ザワザワザワ……
そしてルゥの体に、変化がおきました。
ルゥは、床に手をついて四つ這いになっていました。
しなやかなその体が、銀色の毛皮で覆われていきます。
床に着いた手足が、獣のそれへと変わっていきます。
「バカな! 獣の血を自分で……コントロールしている!?」
「ルゥ!」
その人が、驚いてそう叫びました。
わたしも呆然として、ルゥの名前を呼びました。
ルゥの姿が、人のそれからオオカミのものに変わっていました。
クン。
ルゥが頭を振ると、ルゥの首を縛っていた薔薇の茎はちぎれて床にちらばりました。
「グルルルル……」
オオカミのルゥが、その人をにらんで呻り声を上げました。
牙を剥いて、その人に近づいていきます。
そして、ダッ!
ルゥの体が、その人に飛びかかりました。
「くるな! 『絡み蔓』!」
その人が慌てて、ルゥを指さして魔法をかけます。
床から伸び上がった草の蔓がオオカミの体を捉えようとしました。
でも、ルゥの方が早かった。
「わあああ!」
その人の悲鳴。
オオカミの体が、その人の体を押し倒していました。
ルゥの前足が、黒いローブをめちゃくちゃに引っ掻きます。
耳まで裂けたルゥの口が、その人の頭に噛みつこうとしています。
でも、その時でした。
「『凍結炸裂!』」
その人が叫びました。
「ギャンッ!」
と同時にルゥの悲鳴。
ルゥの体が、その人の体からふっ飛んでいました。
「ルゥ!」
ルゥの体を見て、わたしも悲鳴を上げました。
ルゥの前脚のつけねのあたりに、何かが突き刺さっていました。
ヒンヤリした冷気が、小屋に満ちていきます。
ルゥに突き刺さりオオカミの体を引き裂いていたのは、蒼黒く輝いた、氷のカタマリでした。
「ルゥゥゥゥゥウウウウウウウウウ……!!!」
ルゥをふっ飛ばしたその人が、ゆっくり床から立ち上がりました。
黒いローブはルゥの爪に引き裂かれてボロボロです。
ルゥの牙で裂かれた額から、とめどなく赤い血が滴っています。
そしてエメラルドのような緑の目が、ギラギラ輝いてルゥをにらみつけていました。
その人の綺麗な顏が、怒りでグニャリと歪んでいました。