その子のクチビル
ニワトリ小屋の前にいたのは、キツネなんかじゃありませんでした。
1匹の大きな、銀色のオオカミだったのです。
「グルルルル……」
オオカミが恐ろしいうなり声をたてて、わたしの方を向きます。
1歩、2歩、わたしの方に近づいてくる。
「わっ! わっ……!」
わたしは、銀色のオタマを握りしめながらオオカミから後ずさります。
こんなことになるなんて、思ってもみませんでした。
どうしよう。動物に言うこと聞かせる魔法なんてまだ知らないし。
ましてや傷つける魔法なんて。
お師匠さま。お願い早く来て。
「光輝! 光輝! 光輝!」
わたしはオオカミにオタマを構えて、何度もそう唱えました。
パチ。パチ。パチ。
オタマの先っぽがカメラのフラッシュみたいに瞬いて周りを真っ白に照らします。
でも駄目でした。
農場に撒いた花火の時と一緒でした。
このオオカミは、光も火花も、まるで怖がっていないみたいです。
そして。
「ガアウ!」
「あひゃ!」
銀色のオオカミが、いきなりわたしに飛びかかってきました。
わたしは悲鳴を上げます。
オオカミの前足が、わたしを地面に押し倒します。
耳まで裂けたオオカミの口が、わたしの喉に咬みつこうとした、でもその時でした。
バチン。
何かがはじけるような音。
夜の空を、青白い光が走りました。
「ガ……ガ……ガ……」
わたしを押し倒したオオカミの動きが止まりました。
「うぎゅうっ!」
わたしは思わず変な声を上げてしまいました。
オオカミの体から力が抜けて、わたしの上に覆いかぶさってきたのです。
重いー! つぶれるー!
わたしは身動きができません。
「ナナオ! 無事かナナオ!」
「お、お師匠さま~~~~!」
わたしは涙目で、お師匠さまの声の方を向きました。
風の精たちの力を借りて、夜空に浮かんだお師匠さまの体。
銀色の月の光を背にしたお師匠さまの両手からは、パチパチと青白い稲妻が瞬いていました。
かけつけたお師匠さまが、稲妻の魔法でオオカミを気絶させたのです。
「ナナオ。1人だけでこやつの跡を追ったのか! この大バカ者めが!」
「すいません。お師匠さま! キツネなら、わたしでもどうにかなると思って……」
頭の上からお師匠さまの怒鳴り声。
狼の体の下から、わたしはオロオロお師匠さまに謝りました。
「まったくなっとらん。こやつはキツネでも、ただのオオカミでもないぞ」
「え……?」
地上に降り立ったお師匠さまの声にわたしは首をかしげました。
その時でした。
辺りが急に暗くなりました。
夜空を流れている雲が、月の光を覆い隠したのです。
すると……
「え? え? え?」
わたしは思わず声を上げます。
シュウウウウ……。
オオカミの様子が変でした。
体全体が銀色に輝いています。
銀色の毛皮が消えて、スベスベした何かに変わっていきます。
狼爪の生えた前足が、後足が、もっと細くてキレイな別のモノになっていきます。
わたしに覆いかぶさったオオカミの重みが、急に軽くなりました。
「わーーーーーー!?」
わたしは悲鳴を上げました。
わたしを押し倒して、わたしに覆いかぶさっているのは、もうオオカミの体ではなかったのです。
銀色の髪と眉毛をした綺麗な顏が、わたしのすぐ目の前でした。
……近い。顏近い。
そして細くてしなやかな手と足が、わたしの手足とからまっていました。
「う……ぐぬ……」
わたしはどうにか、その子の体から這い出して、地面から立ち上がりました。
「やはりな。思った通りじゃ……」
「お師匠さま。これは……この子は!?」
わたしは震える声でお師匠さまに尋ねました。
さっきまでオオカミだったモノ。
そしていま地面に倒れているのは、わたしと同じ年くらいの男の子でした。
銀色の髪と眉の、綺麗な顏をしていました。
服は着ていません。
生まれたままの姿です。
「こやつは獣人じゃ……」
「獣人?」
お師匠さまもその子を見下ろして、重々しくそう言いました。
わたしはお師匠さまを見上げて、首をかしげます。
深幻想界に来てからこれまで、聞いたことのない呼び名でした。
「うむ。太古の獣の王の血を引いた、人間の一族の末裔じゃ。自らの意思でその姿をケモノに変えることのできる偉大な血筋。だが……」
お師匠さまは、いたましげな顔でその子を覗き込みました。
「人間……!?」
わたしは息を飲みました。
深幻想界で人間に出会うなんて、初めてのことでした。
「この者はまだ子供。ケモノの力を制御出来ておらぬ。おおかた満月の夜、自分の血の力を押さえきれずにオオカミに変わりトロールの村を荒らしていたのだろう……」
トゲトゲの生えた頭をかきながら、お師匠さまが難しい顏をしています。
「お師匠さま。どうします? この子……?」
「うーむ。わからんが、いずれにせよ放ってはおけん。荒らしていたのがトロールの村だからよかったものの、他の村だったら追い立てられ、殺されておったかもしれぬ。何とかせんと……!」
お師匠さまが、その子の体を抱え上げました。
「いったん小屋まで戻るぞ。ナナオ。お前はその鍵をくっつけて直しておけ。ニワトリたちが外に出ないようにな」
「わかりましたお師匠さま!」
男の子を抱えたお師匠さまが、小屋から踵を返してわたしにそう言いつけます。
わたしは元気な声で返事をしました。
こういう時のお師匠さまは、とても頼もしくてかっこいいのです。
#
「お師匠さま……」
「大丈夫じゃ。体に怪我は無し。稲妻でしびれて眠っているだけじゃ」
小屋のベッドに寝かせた男の子の体を診ていたお師匠さまが、背中越しに覗き込むわたしにそう言いました。
毛布にくるまれてベッドの上。
男の子はスヤスヤ寝息を立てています。
夜もすっかり更けてしまいた。
とゆうか、あと2時間もすれば夜が明けます。
「この子が目を覚ましたら、色々聞いてみよう。住処はどこなのか。親はおるのか。じゃがその前に……」
「お師匠さま。何処まで?」
お師匠様が立ちあがって、小屋の出口に歩き出しました。
こんな時間に何処に行くのでしょう。
「トロールたちと話をしてくる。連中もそろそろ動き出す頃じゃ。妙な誤解で、その子が追い立てられんようにな。それに服か……布地も貰ってこねば。その恰好では何も出来ん」
お師匠が、ベッドのその子を振り向きました。
毛布にくるまれた男の子の体は、何も身に着けていないのです。
「もうオオカミに戻ることはないだろうが、目を覚まして暴れられたりしたら困る。その子の手には枷をしておいた。逃げ出さないようちゃんと見ておるんじゃぞナナオ」
「わかりましたお師匠さま……」
わたしはお師匠さまにそう答えて、ちょっとすまなそうにその子の寝顔を見ました。
男の子の両手には、お師匠さまが魔法で細工した、草のつるが巻き付いているのです。
#
「はー。遅いなーお師匠様……」
わたしは小屋の中を歩き回りながら、あくびをかみころしました。
あれからもう、1時間経ちました。
お師匠さまはまだ戻って来ません。
ザックさんたちと、何か話し込んでいるのでしょうか。
体を動かしていないと眠ってしまいそうで、わたしは椅子から立ちあがって小屋をウロウロしているのです。
「それにしても……」
わたしはベッドで寝息を立てている男の子の顏を覗き込んで、ため息をつきました。
輝くような銀色の髪。
すべらかなバラ色の頬。
整った目鼻立ち。
まるで絵本の世界から抜け出してきた王子様みたいな、すごく綺麗な顏をしていました。
わたしと同じくらいの年の獣人の少年。
いったい何処で生まれて、どうしてこんな所に居るのでしょう。
その時でした。
「…………!」
わたしは息を飲みました。
いつのまにか。
ベッドの上で男の子が、目を開けていました。
その子の銀色の瞳が、わたしをまっすぐに覗き込んでいたのです。
「うああああう!」
男の子が悲鳴を上げて、ベットから飛び上がりました。
その声は鈴を振るような、澄んだテノール。
毛布が跳ねあがってハラリとゆかに落ちます。
「ちょ、ままま!」
わたしはオロオロしながら男の子を止めようとします。
いま外に出て、トロールさんたちに見つかったら。
色々マズイことになるかも。
そう思って、必死に男の子を止めようとしました。
「あ、あ、あ!」
立ちあがった男の子が、自分の両手を見て戸惑いの声を上げています。
両手に巻き付いた草のつるにカジリついて、手枷をかみきろうとしていました。
「ちょっと、ダメだって、それは取れないから!」
わたしは慌ててその子にすがりつきました。
混乱した男の子の口は、手枷だけでなく自分の手首も噛みきろうとしていました。
男の子の手から血が滴り、ポタポタ床を濡らしていきます。
「やめて! ダメだよ!」
わたしは悲鳴を上げました。
駄目だ。もう見てられない。
わたしは右手のオタマに、意識を集中しました。
「解除!」
わたしは男の子の右手にオタマを構えて、そう叫びました。
バチン。
お師匠様が草のつるに仕掛けた魔法が解除されました。
手枷は、その子の手から引きちぎれました。
「うああ!」
「わ。わ。わ!」
急に両手が解放された男の子が、バランスを崩しました。
男の子を押さえていたわたしも、それに巻き込まれます。
バタン。
大きな音を立てて、その子とわたしの体が、床の上に倒れ込みました。
「「………!!」」
2人とも、息を飲んでいました。
その子の体が、わたしに覆いかぶさっていました。
その子の綺麗な顏が、わたしのすぐ目の前です。
男の子は驚いたように、自由になった自分の両手とわたしの顏を、交互に見回していました。
そして。
いきなり。
「アリ……ガト……」
タドタドしいその子の声と一緒に。
「んぅううううううっ!!!」
わたしはくぐもった悲鳴を上げていました。
その子とわたしの体が、ピッタリと重なり合いました。
その子のやわらかな唇が、わたしの唇に重なっていました。
その子の濡れた舌先が、わたしの中に入ってきました。
ドクンドクンドクンドクン。
心臓が、早鐘みたいでした。