キミのための魔法
「忘却!」
お師匠さまは、この世界に魔法をかけました。
今ではもう、お父さんも、お母さんも、この街の誰もわたしのことを覚えていません。
わたしが「一人前」になって、この世界に戻ってくるまで、世界はわたしのことを忘れてしまったのです。
いえ、2人だけ。
わたしが忘れて欲しくないと願った人を除いては。
1人は学校に行けなくなったわたしを心配して、親身に話を聞いてくれた、わたしの叔父さん。
そしてもう1人はあの子……時城コータくん。
「転界!」
お師匠さまが杖を振り、神池に光が満ちてゆきます。
こうしてわたしは、お師匠さまと一緒に深幻想界に渡りました。
クルルの森の奥にある、お師匠さまの屋敷に住み込んで、魔法の修行を始めたのです。
#
「エナさん。いけない!」
わたしは、コータくんとエナさんのところまで駆けよります。
頭から流れ出す血が止まりません。
学生服が、ベッタリ赤い血で濡れていきます。
「コータくん。エナさんはわたしが見てる。表通りまで走って、誰か呼んできて!」
「え、でも……」
「いいから、早く!」
「……わかった。ナっちゃん」
わたしの声に気圧されるように、コータくんがその場から立ち上がりました。
エナさんの体は、わたしが支えます。
コータくんが何度もこちらを振り返りながら、表通りまで駆けていきます。
コータくんの姿が見えなくなると、わたしはエナさんの頭に自分の手を添えました。
「治癒!」
わたしはそう唱えます。
シュウウウ。
エナさんの体が、水色の穏やかな光に包まれます。
流れ止まなかった血が止まりました。
なんとか傷は塞がったみたいです。
コータくんには、いったんこの場を離れてもらう必要がありました。
この世界の人間に見られてしまうと、半人前のわたしの魔法は大きく効果をそがれてしまうからです。
「うう……」
エナさんが、苦しげな声を上げました。
息がある。
よかったあ。
わたしはホッと息をつきます。
でもまだ安心できない。
治癒の魔法は、わたしのレベルでは傷を塞いで血を止めることは出来ます。
でも体の内側に負ったダメージまでは、癒すことができないのです。
病院に運んで、検査してもらわなければ。
「感覚拡大!」
わたしはそう唱えます。
目で見るモノ、耳で聞くモノの範囲が急に広がっていくのを感じます。
わたしの感覚が、道端を走るノネズミやネコたちの目や耳と次々に同期していきます。
救急車。
コータくんの呼んだ救急車。
わたしは目をこらし、耳をすまします。
いた。
1台。
ネコの目が目標を捉えました。
サイレンを鳴らしながら、こっちに向かって走って来る救急車。
でも遠い。
道路工事で大きく迂回している。
こっちに着くには、あと20分はかかるでしょう。
風の精の力を借りて、病院までエナさんを運ぼうか。
いえ、駄目です。
わたしの風の精では、エナさんとわたし2人を一緒に運ぶ力はありません。
それならば……。
「エナさん。ごめん、ここで待ってて」
わたしはエナさんの手を握り、そう呼びかけました。
わたしはエナさんの手をはなして、立ち上がりました。
「飛翔!」
わたしは小枝を振って、そう唱えました。
ビュウウウウウ……。
次の瞬間、風の精たちの巻き上げた風に乗って、わたしの体が夜空に舞い上がります。
救急車、救急車……。
あそこだ!
わたしは風の精にお願いして、コータくんが呼んだ救急車まで飛んでいきました。
この世界で、あんなに大きい、しかも動いているモノにあの魔法を使うのは初めてです。
上手く行くでしょうか。
失敗したら大事故かも。
でも、やらなければ。
わたしはギュッと、自分の唇をかみました。
道路に向かって、風の精とわたしは降下していきました。
トン。
わたしは風の精の腕を降りました。
そして、道路を直進する救急車の前に立ちました。
ギギー!
けたたましいブレーキ音とクラクションの音が、わたしの体を叩きます。
救急車が、わたしのすぐ目の前まで迫ってきました。
いまだ!
わたしは右手の小枝を振りました。
「跳位!」
わたしがそう唱えた、次の瞬間。
シュウウ……
わたしと、そして救急車の車体を、銀色の眩い霧が包みこみました。
#
「ナっちゃん。やっぱダメだ。救急車は来ないし誰もいないし……あ?」
「コータくん。よかった! 今、到着したよ」
エナさんのところまで戻って来て、わたしに何か言おうとしたコータくんが、目を丸くしています。
救急車はもう、エナさんの倒れた通りまで到着していました。
「あれ? あれ? なんでこんな所に?」
車から飛び出してきた救急隊の人たちも、首を傾げていました。
「まあいいや。この人ですね。早く搬送の準備を!」
「はい!」
隊員の人たちが慌ただしいです。
そして頼もしいです。
「よかった……」
わたしは胸を撫でおろして、右手の小枝をポケットに隠します。
「跳位」の魔法は、わたしが使える魔法の中でも1番凄いレベルなのです。
でも「空間移動」させたいモノに、ギリギリまで近寄らないと使えない、アブナイ魔法なのです。
#
「全く不思議だ。これだけ出血しているのに。わずかな裂傷しかない。骨にも異常なし。病院でスキャンをとるけど、たぶん軽い脳震盪だろう……」
救急隊の人が、ベッドに寝かされたエナさんを検査しながら不思議な顏。
どうやら傷は、たいしたことないようです。
「う、うーん……」
「エナ? エナ!」
「エナさん?」
エナさんが、うっすらと目を開けました。
身を乗り出すコータくんとわたし。
その時でした。
ギュッ!
エナさんの手が、わたしの右手を強くつかみました。
「……エナさん?」
「……………! …………!」
エナさんが、声にならない声でわたしに何か言いました。
わたしは、ドキッとしました。
エナさんの震える唇が、確かにわたしに、こう言っていました。
アリガトウ。
ゴメンネ。
エナさんは、わたしがやった事に、気づいているのでしょうか……?
#
「本当にありがとな、ナっちゃん。世話かけてさ」
「ううん。こういう時は、みんなでがんばらないと」
夜の病院。
わたしはコータくんと2人並んで、廊下の腰かけにすわっています。
「送っていくよ家まで。もう遅いだろ?」
「ううん。大丈夫。1人で帰れるから。それよりエナさんの家族が到着するまで、あの人のそばに居てあげて?」
コータくんの言葉がうれしい。
でも、わたしは首を振って腰かけから立ち上がりました。
まだ仕事は終わっていません。
公園に残してある荷物を回収して、お屋敷に持って帰らないと。
「あの……ナっちゃん!」
「うん?」
コータくんの声にわたしは振り向きます。
「また……また会えるよな?」
コータくんがわたしを見て、不思議そうに言いました。
「うん。また会えるって絶対。またすぐに!」
わたしはニッコリ微笑んで、コータくんにそう答えました。
#
「はーヤバイ。お師匠さまになんて言おう……」
クルルの森を歩きながら、わたしはブルーな声でそう呟きます。
両手には布の袋と、木の実をつめた瓶。
お師匠さまに言いつけられた材料です。
「転界」の魔法で、深幻想界に戻って来たのです。
でも、もう完全に日が暮れています。
てゆうか、深夜です。
お屋敷を出てから、いったい何時間たつのでしょう。
「まずい! まずい! おーこーらーれーるー!」
わたし首を振って、絶望の叫びを上げました。
明日までに猫人の村に届けないといけない。
ってそう言ってたし。
お師匠さまは、きっとカンカンです。
#
お屋敷に帰り着きました。
「あのー。今帰りましたー」
わたしは小さな声でそう言いながら、お屋敷の玄関口を開けました。
「ムッ! ナナオか……!」
仕事場の大鍋の前に座ったお師匠さまが、ギロリと金色の目でわたしの方を睨みます。
「すいません、お師匠さま! めちゃくちゃ遅くなって」
「…………」
頭を下げるわたしに、無言のお師匠さま。
あれ?
「ウム。言いつけた材料は揃ったんじゃな?」
「は、はい! それはもちろん!」
「ならばよし。今夜は徹夜じゃ。ナナオ、お前は早く寝ろ。明日もイロイロ、材料が要るかもしれん」
「あ……あえ?」
お師匠さまの、カミナリが落ちない。
いつもだったら、小一時間は怒鳴られまくるのに。
「あの、お師匠さま?」
「ん、なんじゃ」
「いえ、なんでも。おやすみ……なさいですぅ」
お師匠さまも、何かに気づいているのでしょうか?
わたしは小さな声でお師匠さまに挨拶します。
わたしは自分の部屋への階段を上りはじめました。
#
「はー。疲れたー!」
自分の部屋に辿り着いたわたしは、ベッドに転がって大きく息をはきました。
なんだか今日はいろんなことがありました。
頑張り過ぎて、もうヘトヘトです。
でも……
わたしは天窓からのぞく月を眺めながら、自分のペタンコな胸をおさえます。
なんだか素敵な1日でした。
「コータくん……」
わたしは銀色の月の光を浴びながら、そっとあの人の名前を呟きました。
いつか、コータくんにも打ち明けたい。
わたしが魔法を使えることを。
そしてわたしの本当の心を。
コータくんへの気持ちを!
でも、それは今ではありません。
それはわたしが「一人前」になった時。
お師匠さまから「魔法使い」の称号を許された時。
そして「転身」の魔法を修めて、本当の女の子になれた時。
その時コータくんは、わたしを好きになってくれるでしょうか?
それは誰にもわかりません。
さあ、早く眠らないと。
明日も魔法の勉強と、お師匠さまの次の言いつけが待っています。
猫人の村に、お薬を届ける仕事。
それにきっと、新しい材料集めもいっぱいです。
静かで穏やかな夜でした。
森を渡る夜風が、樹の枝をサラサラ鳴らすのが聞こえます。
天窓から覗いた満月が、とても大きくて、綺麗な夜です。