俺の肩には、女神が尻を乗せている
ミーチャは、始終、反吐を吐いてるような男だった。
そして、戻って来るなり、また酒を飲むのである。
ミーチャというのは、無論ドミートリー・カラコーゾフのことだ。
正確には、ドミートリー・フョードロビチ・カラコーゾフだが、
フョードロビチとは父親のことで、
僕達の国ではこのように必ず父親の名前を名乗らされる。
それだけ、伝統的に父親の権利が強く認められている国と言いたいわけだが、
彼はどういった経緯からか、
なんとフョードルの眉間に風穴を開け、思考も呼吸も、
もちろん仕事帰りに一杯引っかけるなんて真似が二度とできない状態にしてしまった。
きっとフョードルの方だって、もう必要ないと言うだろう。
だというのに、父親の名前をつけて呼ぶのは、
なんというか僕の方に抵抗があったのだ。
ミーチャがどう考えてるかは知らない。
おそらく、バーテンが次のグラスを運んでくるのに後何分かかるかほども、
気にしていないように思えた。
それに僕が彼以外のミーチャについて語るなど、未来永劫有り得ないことだ。
だから、ミーチャはミーチャでいい。
もちろん僕がどう考えていようと、
父親殺しは重罪である。
そんなミーチャが今もバーで反吐を吐いていられるのは、
我が偉大なる祖国に死刑制度がなかったおかげだ。
もっとも、終身刑を言い渡されたのだから、
正妻であるアイリッシュウイスキーはもちろん、
ビールやポートワインといった彼の愛する娼婦達とも、
永遠に縁を切らされるはずだった。
だが、彼はこのときすでに兵役を経験していた。
おまけにズバ抜けて優秀な成績を修めていたのである。
当時、偉大なる祖国はあちこちで少数民族や異教徒達と内戦をやっていたわけだが、
国民のほうはもう飽き飽きしていた。
つまり志願兵を集めるのに苦労していた。
反対に、監獄は連日の大繁盛で、犯罪者達の肥溜めと化していた。
死刑制度がなくなっても、
陪審員の胸糞を悪くするようなイカレ野郎はいなくならなかったのだ。
政府だって、内乱や弾圧に対する国際社会の批判をかわすため、
死刑を禁止してみせただけに過ぎない。
ミーチャの口を借りるなら、だ。
「どうやったって、人間はクソをしなくちゃ生きていけねえ、
なあ? そうだろうが、ペルホーチン?
なのに、せっせと肛門にだけ栓をして、縫い付けちまったようなもんさ。
だったら、もう反吐を吐く以外にねえだろうが」
政府は、恩赦をエサに犯罪者からも志願兵を募ったのだ。
志願ということになっているが、
実際には長々とした説明の後に、
同意します以外に丸を付ける場所がないような
紙切れを渡されたのだという。
ミーチャはその紙きれで尻を拭いた後、便所へ流した。
だが翌週、前線行きを志願したとして徴兵されてしまったのだという。
「きっと看守の野郎が、俺のせいで詰まった便器から取り出した後、
代わりに丸をつけてくれたんだろうぜ」
ミーチャは兵舎で煙草を噴かしながら、そう教えてくれた。
この頃は、まだそれほど酒を飲んでいなかった。
彼が酔っていないのは、人を撃つときくらいなのだ。
僕がミーチャと出会ったのは入隊を迎えた、まさにその日だった。
初めはこの世にこんな恐ろしい顔をした男がいたのか、と驚かされた。
例えるなら、蛇である。
彼は一見、ひょろりと細長かった。
だが近くへ行くと、背が高いあまり、そう見えるだけだと気付かされる。
猫背気味なせいで、軍服を着ていても軍人らしく見えず、
それがどこか蛇が鎌首をもたげる姿に似ていたのだ。
そして、怖ろしく手が大きかった。
握手をするとき、明らかに人を殺すために鍛えられた身体だと圧倒された。
しかも、よりによって僕とミーチャは同室だった。
「これからよろしく頼むよ、えっと……ミーチャ?」
同じ隊の仲間が、彼をそう呼んでいるの聞いて真似てしまったのだ。
だが、ミーチャは爬虫類じみた瞳でぎょろりと睨んできた。
「ドミートリーさんだ」
「え?」
「俺をミーチャと呼んでいいのは、友人だけだ。
お前は、ドミートリーさんと呼べ」
思わぬ先制パンチを喰らわされた気分だった。
しかも僕が准尉待遇だったのに対し、
彼の階級はこのときまだ軍曹だったはずだ。
だが、僕の方が新参なのは間違いない。
ひとまずドミートリー軍曹と呼ぶことで、妥協してもらうことになった。
もっとも、僕が配属された部隊はやけに個性的な隊員が多く、
会話が通じるだけ、ミーチャはまだ“まとも”だった。
ここが終身刑を喰らった犯罪者だけを集めた部隊だとは、
最初、知らされていなかったのだ。
意外なことにそんなイカレた連中から、
ミーチャはやけに慕われてるようだった。
もちろん、僕は犯罪者というわけじゃなかった。
これでも大学では医学部を出たし、
田舎とはいえ自前の診療所だって持っていた。
ただ、今もそうなのだろうか?
意外に思うかもしれないが、
当時、僕の村では医者の地位は低いものとして扱われていた。
みんな、医者は患者に奉仕するのが当たり前と信じていて感謝もされず、
呪術師か何かのように胡散臭い存在として扱われた。
TVやラジオで報じられるような不正をしやしないか、
余分な薬を処方して金儲けをしようとしてるんじゃないか、
患者を平等に扱っていないに違いない、と
常に監視の目を向けられているようなところがあったのだ。
だから、小さなミスでも、よく大勢からよってたかって責められたし、
もう手の施しようがない患者の面倒を見た後でも、ツバを吐きかけられた。
そんな村でなぜ懸命に勉強してまで医者になったのかと言えば、
僕の父親も、祖父も、そこで医者をやっていたからだ。
つまり大昔から伝統的にそういう村だったのである。
だから、僕でさえ慣れっこになっていた。
ミーチャや他の隊員達が、衛生兵として従軍する僕を重宝がって感謝してくれるのを、
しばらく不思議に感じていたくらいである。
もっとも、村での生活も嫌なことばかりではなかった。
僕には、カテリーナがいた。
なんといっても、彼女は心の美しい人だった。
「私、この花が大好きなの!」
彼女は、少しも瞳を動かさずにそう言ってくれた。
診療所の前に植えられたカサブランカは、僕が世話をしたものだった。
やがて、僕達はこっそり二人で会うようになった。
なにせ、狭い村だ。発覚すれば、すぐ噂になってしまう。
うら若いカテリーナにとって、
それが耐え難いことだというのも理解できた。
なにより、二人だけの秘密というものが、
かえって僕を燃え上がらせていた。
とはいえ、彼女の父親は政府のお偉いさんとも繋がりを持つ、
地方の名士であった。
僕達の村はそのことで多くの恩恵を受けており、
しかもそれは、彼無しでは生活が成り立たないほど大きなものだったのだ。
つまり、小さな村においては、彼らこそ王侯貴族であり、
カテリーナはその三番目の娘だった。
僕は身の程知らずな野良犬と見なされても、
なんら不思議はなかったのだ。
二人の関係は、果たして認めてもらえるようなものなのか、
もう一方では不安を抱えていたのである。
そして、人生とは悪い方の予感ばかり、
的中するようにできてるらしい。
ある日を境に、突然、カテリーナが二人で会うことを
拒むようになったのだ。
理由を聞いても曖昧に濁されてしまうだけだったし、
人目があるような場所では問いただすわけにもいかなかった。
だからといって、彼女の実家へ乗り込んだりすれば、
たちまち、なにもかもご破算になってしまうに違いない。
僕は、手紙を書くことにした。
自分の気持ちはまだ変わっていないこと、
君に会えず寂しい気持ちでいること、
せめて理由だけでも知りたいという想いを綴った。
深夜、他人にみつからないよう細心の注意を払い、
そっと彼女の部屋の窓へ差し込んだのである。
けど、やはりどこかでミスをしていたらしい。
翌日、僕はあっさり彼女の父親から呼び出される羽目になった。
僕は単身、コヨーテの巣穴へ潜り込むような心境でオフィスを訪ねた。
けどそんな僕に、彼はまるで古い友人へ対するように親切だった。
おまけにこちらが恐縮してしまうほど、同情的でもあったのだ。
「実は、前々から君とは一度きちんと話したいと思っていたんだよ?
ところで、コニャックはどうかな?
村の者が飲む、アルコールばかり濃い安酒とは違う。
なに、遠慮はいらない。
いい酒というのは、酒に弱い者でもロックでぐいっといけるものさ
……どうだい?
そうか、口に合うようでよかった。
どうせ酔うなら、いい酒で酔うべきだ。
安い酒は、人間も安っぽくするものさ。
まったく、村の連中と来たら、その代表だね。
田舎者ばかりで困るよ、そうだろう?
町では、医者は尊敬される職業だ。
知らないわけじゃないだろう?
本当はそれが当たり前のことなんだよ。
だが最初にこの村へ来た医者がいけなかった。
100年も前の話だよ? 余所者で、おまけに村にも馴染もうとしなかった。
どこからともなく不正をやってるという噂が流れて、
真偽はわからなかったが、その男はさっさとしっぽを巻いてしまった。
そのせいで、真実ということになってしまったんだな。
だけど、いつまでも昔を引き摺ってちゃいけない。
君は若いし、誠実だ。
だけど、一度、狭い村の中で常識になってしまった習慣を変えるのは難しい。
おっと、もう一杯どうだい? ……そうこなくてはね。
そこで提案というか、君にはあらためて尊敬される地位に立ってもらいたい。
そう、お国のために戦った英雄というやつだ。
ああ、そうか君の耳にも入っていたんだね?
我々の村からも、志願兵を出すよう政府から指導があってね。
まったくそれのどこが志願だと言いたくなるが、
私の立場もわかってもらえるね?
やはり君は賢い! 一を聞いて十を知るとは、まさにこのことだな。
そんな君がカーチャを想ってくれているのは、素直に嬉しいことだよ。
まあ、そう慌てずとも、後で会わせよう。
それよりも、まずは男同士の話をしようじゃないか?
今のままでは、結婚に障害が大きいことは君もわかっているんだろう?
私も娘の将来を案じる一人の父親に過ぎないんだよ。
危険があることもわかっている。
だが君には医者の資格があるじゃないか?
戦場にもルールがあってね、
衛生兵を狙ってはいけないことになっている。
ああ、ああ、もちろん、もちろんだとも。
私にとっても、苦しい選択だよ?
君の身の安全を完全に保証してあげられるわけじゃないからね。
けど、だからこそ意味があるんじゃないのかな?
少なくとも、他の者が行くよりは生きて帰れる可能性も高いわけだし、
君が命を賭けてくれた以上、誰にも文句は言わせないさ。
村のために命懸けの仕事を果たし、
私の身内となってくれれば、
医者という仕事は、町と同じく、尊い地位に就けるはずだ。
本当は、それが正しいはずだろう?
こんな田舎の村だからって、いつまでも古いままじゃいけない。
間違いは正していかなくては。
もちろん、私も約束は守るつもりだ。
娘が、そう望む限りはね?」
いつの間にか、ドアのところにカテリーナが立っていた。
僕はようやく会えたという思いと共に、彼女の手を握っていた。
彼女もまた涙を浮かべたまま、まっすぐ僕を見ていた。
「お父様はずるいわ。貴方の苦しい立場を利用している」
「そんなこと言うものじゃないよ」
「本当は、私だって貴方を行かせたくない……
けど、それでも貴方は行くと言ってしまうんでしょうね?」
「ああ、愛しているよ、カーチャ」
「私も愛しているわ」
カーチャ――カテリーナは、少しも瞳を動かさずに言った。
少しも瞳を動かさない。
僕は彼女の真摯さこそ、もっとも愛していた。
だが、まさか最前線の、
それも犯罪者部隊のメディックを任されることになるとは、
とんだ運命の悪戯だったろう。
しかも、それはただ単に最前線へ立たされることだけを意味しなかった。
戦場の汚れ仕事を一手に押しつけられる便利屋としても扱われたのだ。
僕らは山岳地帯に暮らす少数民族の集落を
襲撃するよう命じられた。
この集落がゲリラに協力していたのは、疑いようがない。
食料や医薬品が貯め込まれていただけでなく、
地下へ隠した倉庫に大量の弾薬や小銃の部品まであるのを発見したのだ。
ただし大した抵抗はなく、
住民は1人残らず、広場へ集められることになった。
周りには草木の一本も生えず、
急な斜面には乾いた土と剥き出しの岩がゴロゴロ転がっている。
そこは山羊を飼う以外にどうやって暮らしているのか、
不思議に思うような土地だった。
上官は、彼らを皆殺しにするよう命じた。
食料と医薬品の補給だけなら、戦時法でも問題ない。
だが武器の補給は別である。
これを使って仲間が殺害されたかもしれないと言われれば、
否定のしようがなかった。
しかし、彼らは明らかに兵隊ではなかった。
若い男はほとんどおらず、老人ばかりが目立っていた。
他には、女と子供だけだ。
要は、他の集落への見せしめに過ぎなかったのだろう。
どうも、上官は最初からこうすると決めていたらしい。
おそらく、もっと上から降りてきた命令だったんだろう。
正直言って、僕はただ青ざめて立ち尽くしていた。
兵士というのは、命令には逆らえない。
しかも、他よりも明らかに粗暴な者ばかりを集められた犯罪者部隊が、
これからこの長閑な集落にどんな地獄を描き出すのか?
想像するだけでも怖ろしかった。
「他はかまわないが、女は撃てない」
突然、そう言った者がいた。
無論のこと、上官は烈火のごとく怒り出した。
「フェミニストにでもなったつもりか、ミーチャ!?」
「俺をミーチャと呼んでいいのは、友人だけだ」
そう、ミーチャだった。
「おたくには見えないかもしれないが、
俺の肩には、今も女の尻が乗っている」
「なんだと?」
「名前は、勝利の女神という。
女を撃つと機嫌を損ねる可能性がある、
だから女は撃てない」
上官は、ミーチャの眉間に銃口を押しつけた。
ミーチャはポケットからしおれた煙草を取り出すと、
ゆっくりした動作で火を点けた。
「撃てないと思っているのか? 貴様!」
「さあね、俺は女を引っぱたいたことなら何度もあるし、
泣かせた数はもっと多い。
だが、女を撃ったことは一度もない。それだけだ」
ミーチャが煙を吐き出す。
いつの間にか、その向こう側に数名の隊員が集まっていた。
皆、ミーチャを支持するように上官を睨みつけている。
だが、士官には当然、護衛の兵が付く。
彼らは即座に小銃をかまえ、
いつでも発砲できるようミーチャ達を包囲したのだ。
それ以外の隊員はにやにや笑いながら、
事の成り行きを見守っている。
「ほ、捕虜として、収容所へ送るのでは?」
たまらず、僕はそう口走っていた。
ただし、声が震えるのを隠し切れていなかったように思う。
「住民がいなくなれば、どうせ殺したと噂が立ちます」
無視されるかと思ったが、
ミーチャは火を点けたときと同じく、
ゆっくりした動作で煙草を踏み消した。
「さすがはペルホーチン先生、
悪くないアイデアだと思うがね」
「バカを言え! 手間が掛かり過ぎる」
だがそう言う上官の瞳にも、かすかに迷いが見て取れた。
「どのみち、死体の処理も俺達にさせるつもりなんだろう?
だったら自分の足で歩いてもらった方が、
こっちも楽ができるはずなんだがね、なあ?」
様子見を決め込んでいた隊員も、
これには同意を示したのだ。
上官は、自分がこの犯罪者集団から嫌われているのを知っていた。
そして戦場では、時折、背後から流れ弾が飛んでくることも。
「チッ、勝手にしろ」
結局、そう吐き捨てて、
引き下がってしまったのだ。
もっとも、ほっとしたのも束の間のことだった。
このゴタゴタのせいで、僕達の撤収は遅れることとなった。
なんと、その集落で一晩明かさねばならなくなったのだ。
ゲリラの補給地であるということは、
つまりここが彼らの勢力圏内であることも意味する。
そんなところにわずかな部隊で留まれば、
襲って下さいと言ってるようなものだったろう。
案の定、僕らは包囲され、夜襲を受ける羽目になった。
僕は、こういうとき星の光だけで敵を捜すのは、
余程訓練を積んでいなければ無理だということを学んだ。
できたことと言えば、心の中で祈るくらいだった。
神様とカテリーナが交互に現れ、
生と死の境界を何度も往復させられた。
やがて、銃声が止んだ。
爆音で馬鹿になった耳が、誰かから名前を呼ばれるのを聞いた気がした。
ペルホーチン准尉、すぐに来てください。
僕は、先程、爆音があったほうへ
足を引きずるようにふらふらと近づいていった。
そこには指揮所があるはずだった。
だが、それらしいものはどこにも見当たらない。
上官とその取り巻きは、まとめて吹き飛ばされていた。
たとえ、僕よりずっと優秀な医者だったとしても、
たとえ、将来どれだけ医学が進歩したとしても、
きっと同じ診断を下したことだろう。
つまり、もう手遅れだと。
「申し上げにくいのですが、
今、部隊で一番階級が高いのは、ペルホーチン准尉です。
指示をお願いできませんか、准尉?」
「……ドミートリー軍曹は?」
呆然としながらも、かろうじてそう聞いていた。
「はい、ドミートリー軍曹が包囲の外から攻撃してくれたのです。
おかげで、敵を追い払うことが出来ました」
「……わかった、とにかくこの場を離れよう。
捕虜は置いていく、かまってる余裕なんかないからね。
それから、実質的な戦闘指示は彼に任せるべきだ」
どうやらミーチャは襲撃を読んで、
最初から集落の外に自分の分隊を待機させていたらしい。
どこまでが事実か知らないが、
とにかく報告書には、こう書かれることになった。
『報告のあった集落を調査中、我、大量の武器弾薬を発見せり。
同時に、働き手となるはずの20-40代男性が極めて少ないことに気付く。
つまり集落は単なる補給地ではなく、
ゲリラ兵そのものも、補給している可能性が高いと判断。
住民は、ゲリラの家族である。
敵を誘き寄せるため、これを一時拘束することとした。
我々は臨機応変なる状況判断から、
普段は隠れ潜み、奇襲とテロを繰り返すゲリラ兵を
正面から多数撃破することに成功したものである。
この戦果に対し、
犠牲はわずかなものであった。』
これは僕の想像なのだが――
おそらくお偉いさんの中に、この犯罪者部隊が制御不能と判断されれば、
困ったことになる人がいたのではないだろうか。
ともかく、僕らは無事帰還を果たし、
事なきを得た。
その夜、僕は隊の仲間からミーチャの行きつけの酒場を聞き出していた。
果たして、彼はそこにいた。
僕は思いきって、ミーチャの隣へ腰を落ち着けたのである。
「同じ物を」
店の主人にそう言うと、なぜか苦笑いされた。
「ミーチャは、うちじゃ一番安い酒しか飲まない。
どうせ祝杯を挙げるなら、もっといい酒を頼んでくれるとありがたいんだけどね」
「とっておきは、いざってときまで残しておくものさ」
ミーチャは、グラスの中で氷が溶けていくのを
眺めているらしい。
「それに安い酒の方が、手早く酔える。
いい酒でなきゃ酔えないなんてヤツは、
反吐を吐かない代わりにクソを垂れてる。
どっちも酷い臭いだが、反吐を吐くほうが、
まだしも正しい酔っ払いってもんだろうさ」
「同じ物を」
僕は、もう一度繰り返した。
すると主人は諦めたようにグラスを運んできた。
「なにか用かい、ペルホーチン先生?」
「実は、貴方にお礼を言いたくて」
「よしてくれ。
連中は、自分の女や家族を取り戻そうとして攻撃してきた。
つまり男と男の勝負だった。
誰かに礼を言われる筋合いじゃない」
「もちろん、そのこともですが」
僕もミーチャと一緒になって、
氷が酒で溶けていくのを眺めた。
「虐殺を命じられたとき、反抗してくれたでしょう?
おかげで、その……誇りを捨てずに済みました」
そのとき、からんと音を立てて
グラスが笑ったような気がした。
「俺達は死刑の代わりに戦場へ送られてきた。
だが、どうせ死ぬなら納得して死にたい。
こいつになら負けてもしょうがないってヤツと戦って死にたいし、
せめて男のまま死にたかった、それだけだ」
「わかります」
「そいつは、意外だね」
僕は、一口グラスを傾けた。
安物の合成酒だった。
「僕には、結婚の約束をした女性がいるんです。
もし無抵抗な女性を撃っていたら、
もう彼女の前には立てなくなっていたでしょう」
ミーチャは、相変わらず氷を眺めている。
「だから、僕も男のままでいたい。
彼女の前では……いえ、たとえ彼女が見ていなかったとしても、
僕は男のままでいたい。ただし……」
「ただし?」
「僕は、男のまま生き残りたい」
残りの合成酒を一気に飲み干す。
最後まで言い切るには、勢いが必要だった。
「隊の仲間も、できれば死なせたくないと思ってます。
もちろん……軍曹のことも。
即死しない限りはですけどね」
ミーチャは少し可笑しそうにすると、
彼もまた一息にグラスを空けてしまう。
普段の彼は、この世の者とは思えぬほど恐ろしい顔をしている。
爬虫類が獲物を狙うときさえ表情を変えないような
不気味さを漂わせているのだ。
でもいったん笑うと、不思議なくらい人懐っこくなった。
今の彼は、まるで寂しげな子犬のように見えたのだ。
ミーチャは、グラスを主人の方へ突き出した。
「おかわりかい?」
「いいや、ウイスキーがいい。
本物のアイリッシュウイスキーがあったはずだ」
グラスは、当然のように2つ運ばれてきた。
彼の周りでは、よくあることだったのかもしれない。
言わば、ミーチャ流の儀式だったのだろう。
「いいんですか、ドミートリー軍曹?」
「ミーチャだ、先生。友人はみんな、俺をそう呼ぶ」
ミーチャが、グラスを差し出してくる。
軽く打ち合わせると、ガラスの澄んだ音色が心地よく響いた。
ストレートのアイリッシュウイスキーは少しきつかったが、
それまでの人生で、間違いなく一番美味い酒だった。
「よろしく、ミーチャ」
「よろしく、ペルホーチン」
アイルランドの至宝、ブッシュミルズ蒸留所のシングルモルト。
これこそミーチャにとって、とっておきの一本だった。
ミーチャと親しくなれたのは、
あらゆる面で幸運だったと思う。
僕は後方から支援することが多かったけど、
それでもポイントマンである彼の働きが
いかに大きいものかは感じ取れた。
ミーチャはズバ抜けて勇敢な兵士だったし、
彼の働きで危険を脱したことも数え切れないほど多かった。
確かに、勝利の女神でも肩に乗せていなければ、
こうはいかないという強運さえ持ち合わせていた。
彼がいなければ、
あるいは僕も生きて帰れなかったかもしれない。
なにより、前線で感じるストレスは出征する前に想像していたよりも、
はるかにずっと大きなものだった。
初陣の後、酒場で大口を叩いてしまったものの、
実際には助けられなかった仲間も多くいた。
なのに同室の彼とギクシャクしたままでは、
敵にやられるより先に、きっと頭がおかしくなっていたろう。
この頃、僕はよく二段ベッドの下に寝転がり、
カーチャから送られてくる手紙を繰り返し読んだものだ。
「彼女は花が好きなんだ」
「ああ、俺の行きつけのバーにも、
花が好きだって娼婦がよく来ていたぜ」
ミーチャは、その話には飽き飽きという風だった。
でも、気兼ねなく彼女の話が出来るだけでも、
僕にとっては大きな癒しだったのだ。
「花が好きな女性に、悪い人はいないよ。
そんな仕事をしてるのは、きっと事情があったんだろう」
「だろうな。あのスケも、なかなかいい尻をしていた。
すれ違い様に撫でてやったら、1ルーブル取られたよ」
さすがに少しむっとして、渋い顔になってしまう。
だけどミーチャは覗き込むように僕を見下ろすと、
例の人懐っこい笑みを浮かべたのだ。
「俺も、1つ格言を思いついたぜ、ペルホーチン」
「なんだろう?」
「花が好きな女に悪いヤツはいない。
ついでに、花好きな女を好きな男にも、悪いヤツはいない」
僕は、なんだか照れ臭くなったものだ。
それでも、汚れ仕事を回されるのはやはりつらかった。
捕虜収容所の防衛と言えば、まだしも聞こえはよかったろう。
けど、ときどき中から呼び出された。
僕らの隊には、拷問ならお手の物なんて連中も、
少なからず混じっていたのである。
ミーチャは曹長に出世していたが、
拷問は部下に任せきりで、自分はまるで興味がないように振る舞った。
でも実際にはイラつきを隠しきれておらず、
明らかにこの仕事が気に入っていない様子だった。
だけど僕も、そんな彼に気を使う余裕はなかった。
この仕事をもっともよく手伝わされたのは、
なにせ、僕だったのだから。
連中は、僕に自白剤を処方するよう命じた。
明らかに戦時法を無視した命令だった。
僕はこの薬が精神を破壊し、廃人同然にしてしまう恐れがあることを
説明しようとした。
連中は、言った。
拷問を続ければ、どうせ五体満足ではいられない。
同じ事ではないかと。
拷問の方がマシなのか、薬の方がマシなのか?
それは僕にもわからない。
ただ、良心の問題だった。
首を縦に振れないでいると、連中は僕に自分で捕虜を説得するように命じた。
薬を使わないなら、自分で吐かせてみろというわけだ。
僕は尋問室で、捕虜と対面した。
どうやら尋問というのは、繰り返すうち、
相手に対して不思議な愛着を抱かせるものらしい。
こちらはどうにかして自白させようと知恵を絞り、
相手もまた自分の誇りを守ろうと、あるいは損得を天秤に掛けようとした。
そこには、明らかに駆け引きがあり、勝負と呼べるものが存在した。
言わばお互いの人間性を浮き彫りにする行為だったのだ。
ときには奇妙な信頼関係さえ築かれたように
感じることもあったくらいだ。
だから、ときどきこちらの必死さが伝わることもあった。
僕が地獄の中の仏に感じるのだろう。
彼らがここでは人間扱いされていないことの証だった。
けど多くの場合、僕の会う者達は誇り高く、
それゆえに重要な情報を持ってると見なされていた。
「私はなにも知りません、
あなた方に教えられることはなにもありません」
その男は少しも瞳を動かさず、言い切った。
後はもう、貝のように口を噤んでしまったのである。
僕は、彼を廃人に追い込まなくてはいけなかった。
結果として、ゲリラの秘密基地を撃滅できたこともあった。
この行為が味方の命を救い、
平和への一歩に繋がったと言えたかもしれない。
でも、果たして薬を使うことが勝負と言えただろうか?
少なくとも、男と男の勝負とは言えない。
そのことが、僕を苦しめた。
銃声と砲声の轟く前線が、懐かしく思えるくらいだった。
けど噂によると、いよいよ内戦は終結を向かえつつあるらしい。
現実的にも、前線は遠のきつつあったのだ。
カーチャ……カテリーナ。
君の元へ帰れる日は近い。
でもどうしたわけか、最近、ときどき今いる場所のほうが、
自分の故郷のように感じることがあるんだよ。
ついに、政府は内戦の終結を発表した。
僕らは懐かしの前線へ戻されていたが、このところ大きな戦いはなく、
ミーチャは酒場で飲んだくれていたし、
隊の仲間は賭けポーカーで、ただでさえ薄い給料袋をさらに薄くさせていた。
要するに、ヒマを持て余していた。
戦争のような大きな出来事さえ、
こうやって尻すぼみに終わっていくものなのかもしれない。
だがすぐに故郷へ帰れるわけではなかったらしい。
新しい任務を言い渡されたのだ。
戦争は終わったはずじゃないのか?
いや、確かに戦闘は終わりを迎えた。
けど平和が来た以上、捕虜を解放しなくてはならない。
そうなると、戦時法を破るような
拷問や薬物の使用をしてきた事実が明るみに出てしまう。
きっとお偉いさんの中に、困る者がいたんだろう。
作戦自体は、シンプルなものだった。
なにも知らない捕虜達を広場へ集め、
四方八方から撃ちまくって皆殺しにするのだ。
拷問を受けた捕虜のうち、
生き残ったのは38名いた。
僕は全員の顔を知っていた。
僕らが選ばれたのは、たぶんそれが理由だった。
ミーチャは、少尉に昇進していた。
つまり、我が高潔なるヴィラン部隊の歴とした小隊長となっていたのである。
我が小隊長殿は、作戦決行の前夜、
いきなり捕虜収容所を襲撃するという暴挙に出た。
呆気にとられたのは看守達ばかりで、
僕を含めた隊員に、今さら驚く者はいなかった。
ミーチャとつき合っていれば、
こんなことは驚くに値しない。
とはいえ、いったいどういうつもりなのか?
ミーチャは捕虜を1人残らず広場へ連行してくるよう命じた。
気まぐれで作戦を半日早めたというだけか?
もちろんそうではなかった。
「お前らは明日、全員消される!」
捕虜達の反応は、意外なほど薄かった。
なんとなくは、察していたのかもしれない。
むしろ、ミーチャが次に起こした行動こそ、
彼らを驚かせた。
ミーチャは旧式のリボルバー拳銃に一発一発、弾丸を込めると、
それを捕虜達の前へ滑らせたのだ。
「実のところ、俺は前々からもったいないんじゃないかと思ってたんだよ。
つまり、この中にも1人くらいは本物の男がいるかもしれないってな」
ミーチャは自分用にもう一挺、
同じリボルバーを出して腰へ差した。
「その昔、俺達の国は男に決闘をする権利を認めていた。
男と男が納得ずくで決めたルールに従って戦うとき、
殺人ではないと考えていたわけだ。
もっとも、今は禁止されている。
だから、そんなのは古い考えだと言うヤツもいるだろう。
だがお前らは、明日、全員死ぬ!
男が男らしくいる権利は、とっくに失われてる。
同時に、男が背負うべき責任も消え失せたわけだが、
もともと本物の男というのは少ない。
俺はこんなときまで、ぬるま湯のほうがお好みだなんて言うホモ野郎に用はねえ!
犬死がお望みなら、料理長のところへ行って最後に何が食べたいかを言え。
ただし、できればママのおっぱい以外にしてくれると助かる。
料理長は男にしてはいいおっぱいをしたデブだが、ミルクを出すのは無理だろう。
ついでに自分の宗教も申告してくれると面倒が少ない。
どうせ、まとめて火葬にされるが、
間違って別の神様のところへ行っちまうと、あの世のほうで迷惑する。
だが、最期くらい戦って死にたいというヤツは、
今、前へ出な。
俺が相手になってやる」
こんなことになんの意味があるのか?
そう言いたい者もいたかもしれない。
明日死ぬか、今死ぬかの違いくらいしかない。
仮に勝てたとしても、
結局は殺されてしまうのだから。
選べるのは、死に方だけだ。
そのとき、捕虜達の中で一番若い男が前へ出た。
銃を拾うと、ミーチャと同じように腰へ差した。
「タイミングは、どうしましょう?」
「お前が撃ちたいと思ったときでいい」
ミーチャは、あの人懐っこい笑みになっていた。
2人が睨み合う。
静かな時間が流れた。誰もが息を止めていたのである。
不意に、若い男が動いた。
ミーチャは、ほとんど動かなかったように見える。
銃声は一発だけ。
男はリボルバーを落とすと、前のめりに倒れた。
だが、直後に別の男が飛びつくように
拳銃を拾ったのだ。
あっ、と声を上げるヒマもなかった。
銃口が、ミーチャを捉える。
引き金が引かれるのをスローモーションのように眺め……
次の瞬間、男の脳天が吹っ飛ばされた。
ミーチャのほうが、早かったのだ。
「ペルホーチン、銃口を下げろ!」
ミーチャに言われて、初めて自分が人を撃とうとしてたことに気がついた。
従軍しているとはいえ、僕の仕事はあくまで治療なのだ。
衛生兵でも銃を向ければ、反撃を受ける。
必要が生じない限り、発砲しないほうがかえって生き残りやすいと
自分を戒めてきたはずなのだ。
「1対1だ、ペルホーチン。
1人ずつ相手をする。
タイミングはそっち任せと言った以上、今のもルール違反じゃあない。
銃口を下げるんだ。
それとも、そいつのフルオート射撃でなにもかも台無しにしようていうのか?
そのほうが、あっけなく終わるだろうがな」
「いいや、少し驚いただけだよ、ミーチャ」
銃を下げて一歩下がると、その後は僕も見守るに徹した。
もう捕虜のほうも、こういった反則すれすれの手に出ることはなかった。
それは事情を知らぬ者の目には、
異様な光景と映ったかもしれない。
しかし、そこには奇妙な納得があるように見えた。
僕が尋問を通し、長い時間を掛けて築いた信頼と同じくらい尊いものを、
ミーチャは1人1人と一瞬一瞬のうちに交わしあったのではないか?
まるで厳粛な儀式でも行うように、
彼らは順番に出てきて、ただ撃ち殺されていった。
そうして、いよいよ最後の1人になる。
彼は、捕虜の中でも一番階級が高く、
この収容所における最重要人物と目されていた。
「礼を言います、ドミートリー少尉。
私は薬を使われ、何もかも話してしまいました。
正直言って、故郷で家族に合わせる顔がないと思っていましたから」
「くたばるつもりで出てきたなら、相手はしねえ。
俺は別に、自殺の手伝いがしたいわけじゃあないからだ」
「わかっています。短い間とはいえ、皆とは苦楽を共にしました。
彼らを倒されてしまったのは悔しい。
ただ、それはどこか爽やかな悔しさなのです、ドミートリー少尉」
ミーチャは、この人のことが気に入ったらしい。
「ミーチャでいい。友人はみんな、俺をそう呼ぶ」
「いいえ、ドミートリー少尉。
私は貴方の敵です」
結局、ミーチャは38回決闘を行い、
38回発砲することになった。
一発も外すことはなかった。
ただ、報告書にはまたも事実と少し違うことが書かれることになった。
『捕虜収容所において、捕虜達がどこからか拳銃一挺を入手。
暴動へ発展しつつあるのを認め、
鎮圧のため、やむなく発砲したものである。
残念ながら銃の入手経路は判明しなかったが、
捕虜の間で内戦終結と同時に暗殺されるという噂がまことしやかに囁かれており、
他の収容所でも同様の事件が頻発している。
我が方に死傷者がないことは、幸いであった。
だが今後はこういった事故を防ぐため、
捕虜解放の際は、いっそうの注意を促したい』
もちろん、僕らにとっても歓迎すべき内容だったが、
おそらくお偉いさんにとっても、都合がよかったに違いない。
それとも、やはりミーチャの肩には
女神の尻が乗っているのだろうか?
反対に虐殺者として、すべての責任を押しつけられたとしても、
少しも不思議はなかったはずだ。
なのに、きっちりと恩赦が下り、
彼は晴れて自由の身となったのである。
その夜、ミーチャはいつもの酒場でいつもの安酒を煽り、
けどいつも以上に酔っぱらっていた。
「仕方ない、仕方ないだろう、ペルホーチン?
平和が来た? 誰も人を撃たなくてもいいってわけだ!
だったら、もう酒を飲むくらいしかやることがないだろうが!
明日から、ここの連中は1人残らず失業者というわけだ。
乾杯、乾杯だ、ペルホーチン。
平和と平和なる失業者達に乾杯!」
強引にグラスを打ち合わされる。
「せっかく兵隊を当て込んでやってきた、酒場もプッシーも開店休業だな。
穴があっても入れる棒がなきゃ、宝の持ち腐れだぜ、
おい! 俺がファックしてやろうか?
街中の女をみんな呼んでこい、そう順番だ!
あんたとあんたも、いいだろう……なに? 旦那が帰りを待ってるだと?
ふざけるんじゃない! だったら、さっさと帰って旦那にファックしてもらえっ。
みんなと言ったが、やっぱりやめだ。
寂しい女だ、今夜寝る相手のいない寂しい女だけにしよう、
でなきゃ、俺の身がもたない」
「やめなよ、ミーチャ? そんなことして
君の女神様は怒らないのかい?」
「愛する女と寝るための女は違う」
少し、意外な気がした。
彼からそういった特定の女性がいる雰囲気を感じたことは、
それまで一度もなかったからだ。
「ペルホーチン、お前ももう帰れ!」
「そう言われてもね、今の君は酔い過ぎてるよ」
「放っといてくれ、俺のことなんか放っておくんだ、ペルホーチン。
お前にはカーチャが待ってる、ペルホーチン。
行って、幸せになって来い。
花好きな女が、花好きな女を好きな男を待っているんだぞ?」
「もちろん、明日にはそうする。
手紙にもそう書いてしまったしね」
そう、明日には僕も宿舎を引き払う。
待ちに待った日を迎えるはずだった。
どんな酷い場所だろうと、僕にとっては生まれ故郷なのだ。
村へ帰りたくないはずはなかった。
「けど、今夜はもう少し君の側にいるよ」
ミーチャは、カウンターに突っ伏したまま、
可笑しそうに肩を揺すった。
「ペルホーチン、お前は物好きなヤツだ」
「そうかもしれないね」
澄ましてグラスに口を付けると、
ミーチャはやぶにらみに瞳を上げた。
「おい、なにか言いたいことでもあるのか?」
「実は、カーチャに約束してしまったんだ。
帰るとき、友達を連れて行くって」
そう告白したとき、ミーチャが見せた顔はなかなか傑作だった。
きっと今後、彼が怒って、どんな恐ろしい表情をしたとしても、
気にならないだろうというくらい。
「返事はもらってないけど、たぶん大丈夫だろう。
なにより、僕がそうしたいんだ」
「イカレてるのか、ペルホーチン?」
「確かに、君は最高にイカレてるし、無礼で、飲んだくれで傍若無人だ。
そのくせ、シャイで寂しがり屋だったりする。
だから自分でもどうかしてるって思うんだけど、
僕達の結婚式にドミートリー・カラコーゾフがいないのは、
とても耐えきれない気がするんだよ」
さすがに、すぐには返事がなかった。
あるいは照れているだけだったのかもしれない。
「もちろん、先約があるなら諦めるけど」
間が持たず、そう言ってしまったものの、
これは少しズルい聞き方だったろう。
僕も風の噂で、ミーチャが父親殺しで収監されたことは知っていた。
そんな彼が故郷へ帰ったところで
居場所がないであろうこともわかっていた。
わかっていたからこそ、彼を誘ったのだ。
「OK、OKだ、ペルホーチン」
「よかった、じゃあ明日は……」
「いいや、今だ。今から出よう」
「なんだって?」
「俺はこんなに酔っ払ってるんだぞ?
明日になったら、全部忘れちまってるに違いない。
今行くしかないんだよ!」
「そうかもしれないけど、本気かい?
今からじゃ、飛行機の便だって出てないよ」
「なんとかなるさ!
それに、どうせ大して荷物なんかない。
いつでもすぐに出られる、お前は違うのか?」
「荷造りなら、もう済ませてるけど」
「だったら決まりだ!」
結局、ミーチャは主人からウイスキーのボトルとビールの6本パックを買って、
さっさと立ち上がってしまう。
彼は、言い出したら聞かない人間だった。
けど、あるいは僕も酔っていたのかもしれない。
この場に座っていられないくらい、
僕までわくわくしてきたのだ。
いったん基地へ戻ると、
ミーチャはビールをエサに、ヘリのパイロットを口説いてしまった。
なんと故郷の近くまで、乗せてもらえることになったのだ。
そこからさらにジープを借り、
ハイウェイをご機嫌な速度でかっ飛ばした。
この状態のミーチャに運転などさせられないから、
もちろんハンドルを握っていたのは僕だ。
自分にこんな陽気なマネができるとは、
その日まで知らなかったくらいである。
ミーチャはウイスキーのビンに直接口を付けて飲み、
僕も同じビンから飲んだ。
普段なら、そんな真似はしなかったろう。
戦争は終わった。隣には一番の友人がいて、
僕は、あの愛らしいカーチャと結婚するのだ!
今、有頂天にならなくて、
いつ有頂天になればいいのだろう?
そう、今だ。
今、自分の幸せな気分にフタをしてしまうくらいなら、
僕は一生幸せを知らぬままになる。
ほどほどの幸せに浸って、
最高の幸福を知らないまま墓場へ行く。
「そうだ、ペルホーチン。
女の穴から出て、自分の墓穴へ飛び込むまでが人生だ。
結婚を墓場なんて言うヤツもいるが、そうじゃあない。
そんなのは、本当の最悪を知らないヤツの言葉だ。
なあ、ペルホーチン? 俺達は今まで最悪だった。
だから、そろそろ最高の幸せってものを知ってもいい頃だろう?
飛ばせよ、ペルホーチン。
どうせなら、ぶっ飛ばしていけ!
最高な気分ってのは、ぶっ飛んでるもんなんだ」
僕もミーチャも、凄くハイになっていたのは間違いない。
その離れは、出征前、義父が僕とカーチャのために
建ててくれたものだった。
僕は静かにエンジンを切ると、
ミーチャの耳元へ、忍び込んで彼女を驚かせてみるのはどうか、
と持ちかけていた。
もう夜が明けかかっていた。
だから、見間違いではないはずだった。
ただ、僕は凄く酔っていたし、
夜通し運転して疲れ切ってもいた。
信じたくなかった。
いや、信じる信じない以前に
受け入れる準備さえ出来ていなかった。
カテリーナは、別の男の腕に抱かれて眠っていた。
村で、一番ハンサムだと噂されてる男だった。確か。
突然、ミーチャがベッドを蹴っ飛ばした。
2人は何事かと跳び上がった。
そのとき、男とカテリーナが同じデザインのエンゲージリングを
填めているのに気がついた。
ミーチャは、もう引き金を引いていた。
男の頭が吹っ飛び、もうハンサムかどうかなど、
どうだっていいような状態になって、ぶっ倒れた。
僕にも、手の施しようがないだろう。
半ば惚けたまま、いつか指揮所が爆弾で吹っ飛ばされたときのことを
思い出していた。
「……ペルホーチン?」
そのときカテリーナが、震える声で僕の名前を呼んだ。
ミーチャは片手で銃口を突きつけたまま、
彼女の手から指輪を抜き取った。
裏側には、2人のイニシャルと結婚した年月が刻印されていた。
「僕が……出征した、翌月だ」
最前線の犯罪者部隊へ放り込まれたのと同じとき、
カテリーナは別の男と教会にいたのである。
「違うのよ! まさか貴方が、こんなに早く戻ると思わなかったから」
「手紙には、こんなこと書かれていなかった」
「お願い、話を聞いて?
私のことを愛してくれてるんでしょう?」
ミーチャから銃口を突きつけられてるというのに、
カテリーナは、少しも瞳を動かさずに僕を見ていた。
ついでに言えば、そこに血まみれで倒れている男へ縋り付いて、
泣き叫ぶことさえしなかった。
僕は……捕虜収容所で、尋問を担当させられた。
捕虜は最初、質問されると、しきりに瞳を泳がせた。
怯えと緊張のためだろう。
けど、別の尋問官が入れ替わり立ち替わり現れて、
まったく同じ質問を浴びせていく。
すると、徐々に瞳の動きが少なくなっていくのだ。
嘘に慣れていくほど余裕が出てきて、
反対にそこだけ瞳を動かすまいとするようになる。
尋問室に設置された監視カメラ越しに、
その変化を観察するのだ。
僕らはこうやって、嘘を見破った。
何度も。
「君のお父さんから志願するよう頼まれたとき、
君の心は、とっくに僕から離れていたんだね?」
「違うわ、ペルホーチン! 私の瞳を見てっ」
彼女は、瞳を動かさない。
「僕を最前線の犯罪者部隊へ入れるよう指示したのも、
お父さんだったのかい?
そうすれば僕が死ぬか、仮に生き残っても、
僕らが戦場でやらかしたことをネタに、
約束を有耶無耶できるとでも考えたのか?」
彼女は、瞳を動かさない。
「そして、君達はお父さんが話を付けてくれるまで、
どこかに身を隠すつもりだったというわけだ」
「ねえお願い、私を信じて!」
彼女は、瞳を動かさない。
「無理だよ、カーチャ。
君はその後も、僕に嘘の手紙を送り続けた」
「貴方を愛していたわ、でも仕方がなかったの!
ねえ、お願いだから、その人に銃を下ろすように言って」
さすがのカテリーナも恐怖に耐え切れなくなったのか、
一瞬だけミーチャを見た。
彼は、この世の者とは思えぬ恐ろしい顔をしていた。
「俺達の祖国は死刑を禁じているが、間男を射殺する権利は認めている。
強姦だったというなら、夫が妻を助けるために
引き金を引くのも無理からぬという判例だってあるんだぜ?
だが、だがこいつはどうなんだろうな?」
「ペルホーチン、お願い!
この人に銃を下ろすように言って!!」
「スケはこう言っている。
ペルホーチン、お前が決めていい」
ああ、ここへ来るまでだった。
ここへ来るまでが、幸せの頂点だったのだ。
「結婚は、戦争と同じくらい人を狂わせる」
「そうよ! 私達っ、結婚するんでしょう!?」
ミーチャが、引き金に力を込めた。
乾いた炸裂音。
高そうな羽毛布団に風穴が空き、朝焼けに濡れる室内に白い羽根が舞った。
カテリーナは、腰を抜かしていた。
「なぜ邪魔をした、ペルホーチン?」
寸前、僕が彼の腕を掴んだせいだった。
「ダメだ、ダメだよ、ミーチャ。
君は、女を撃ったことがないんだろう?」
「まだわからないのか? こいつは二本足の豚だ!
女じゃあない」
「それでもダメだ。
勝利の女神が去ってしまったら、どうするつもりだい?
君は僕から、
たった1人の友人まで奪うつもりなのか?」
彼には、彼だけのルールがあった。
いつでもミーチャは、それに従ってきたはずだ。
命令よりも、軍規よりも、
ミーチャは自分自身のルールを一番大切にしていたはずだった。
そんな彼が、僕のためにルールを曲げようとしてくれた。
それで、それだけで充分だった。
不意に、どうしてミーチャが捕虜を1人1人、
自分の手で撃ち殺そうと思い立ったのか気が付いた。
きっと僕とミーチャは同じだ。
僕達には、最初から故郷などなかった。
帰る場所がないというのは、
こんなにも途方に暮れた気持ちにさせられることだったのか。
みんなが平和な世界に浮かれている中、
これからどこへ向かえばいいと言うのだろう?
大人になってからも、
迷子になることはあるのだ。
カテリーナは、ようやくトマトのように破裂した旦那の顔を眺めたが、
恐怖で近づくことが出来ず、ただ泣いた。
僕とミーチャは、引き返して裏口へ向かった。
キッチンを通るとき、
いつか彼女が好きだと言ったカサブランカが、
花瓶に生けられているのをみつけた。
カサブランカはお祝いのときに送れば、
『祝福』を意味する花になる。
また男と女の間に送られるとき、
それは『純粋で雄大な愛』となる。
来るときは、気がつかなかった。
花瓶の水は涸れ、花が萎んでいたから。
僕らはそのまま、国境を越える羽目になった。
離れを出るとき、ミーチャは電話線をブチ切っていたが、
それでも、よく逃げ果せたものだと思う。
もっともミーチャは捕まっても、
間男を撃ち殺しただけと主張するつもりだったんだろう。
けど、陪審員が前科のある彼の言い分を
認めてくれるとは思えなかった。
流れ流れて、今はサンフランシスコのバーで反吐を吐いて回っている。
それより詳しい場所は言えない。
僕らは、そういうご身分ではなくなっていたし、
人間はどんなことにも慣れるものだ。
これはこれで、案外、楽しくやってるつもりでいる。
ただ困らされたのは、どんな仕事でもミーチャは長続きしないことだった。
上司や同僚と揉め事を起こすことばかり上達するようで、
正直、頭が痛かった。
結局、まともな仕事に就くのは諦めねばならなかった。
もともと、ミーチャは地元でマフィアの用心棒をしていた時期もあったらしい。
要するに昔取った杵柄というわけだ。
軍で実戦を経験していたことも、
高く買われることになった。
ただ回ってくるのは、キナ臭い仕事ばかりだ。
大抵はどこかの誰かが、
見晴らしのいい丘へ置かれた石板に
名前と生没年を刻まれる羽目になった。
それでも仕事の前だけは、ミーチャも酒を飲むのをやめる。
普段から、彼の飲み過ぎに悩まされていた僕にとって、
これは歓迎すべき事だった。
酔っぱらったまま引き金を引くのは、敬意が足りない。
ミーチャはそんなことを言っていた。
彼の女神に対してか、死に対してか? それは、知らない。
どちらでも、大した違いはないだろう。
ともかく少しの間、彼の肝臓も休むことができ、
金を手に入れた後は、また酒を飲みに行った。
到底まともな生き方とは言えないだろうが、
まあ、最悪という程じゃない。
あとがき
チャールズ・ブコウスキーの短編集を読み終え、
自分もこんなアメリカンテイスト溢れたテキストを書いてみたい!
という勢いで、一気に書ききってしまいました。
ブコウスキーの作品は、まさしくみんながイメージするアメリカ!
それをそのまんま小説にしたような内容で、
影響を受けずにいられないほど面白かったです^^
本作はいわゆる習作であり、
普段、お仕事で書いてるような物とはだいぶ違いますね;
なんとなく、長編作品の
第ゼロ話的な内容になってしまった感はありますが
今のところ続きを書く予定はありません。
次に投稿するのも、
たぶん短編になる予定です。
ちなみにミーチャは、こんな悪役キャラがいたらいいな、
というところから始まったキャラクターでもあります。
戦えば無類の強さを発揮するものの、酒と女には弱い。
頼りにする友人は、ただ1人。
男が憧れる男というつもりでした。
気付いた人もいたかもしれませんが、
名前はドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のお兄ちゃんこと、
ドミートリー・カラマーゾフから。
読み切るにはかなりの気力を要しますが、
こちらのミーチャも実にいいキャラしてます。大好き!
興味のある方は、是非、読書の旅に!