敦盛との再会
創作話 「敦盛との再会」 作 大山哲生
寿永三年(1184年)のことであった。
源氏と平家の戦いは熾烈を極めた。京都を追われた平氏は果敢に戦ったが、源義経の山の急斜面を馬でかけおりるという奇襲に屈したのであった。東国の武士、熊谷直実もこの奇襲に加わっていた。後にいう一ノ谷の戦いである。
直実は波際を逃げようとしていた平氏の公達をみつけると一騎打ちを挑んだ。両者馬をぶつけあうと組み合ってどうと落ちる。そして直実は公達を組み伏せた。直実は首をとろうと顔を見ると、戦で死んだ息子と同じくらいの年の紅顔の少年なのであった。
「私は、熊谷出身の次郎直実だ。名を名乗られよ」というと、その公達は
「名乗ることはない。私の首をとって首実験すればわかることだ」と答えた。
直実は、まだ少年なのに度胸のすわったその態度に心が動いた。そして、戦で死んだ息子と面影が重なりどうしても刀を振り下ろせないのだった。
直実はその場にあぐらをかくと刀をおさめていった。
「わしには切れん。そなたはすぐにここから立ち去るがよかろう」
「私は平敦盛と申す。源氏方に命を助けていただいたのを私はよしとしない。ただいまをもって敦盛という武士は死んだ。私は名を変えて出家する」
「出家してなんとする」直実は訪ねた。
敦盛は続けた。
「戦で命を落とした者の弔いをする。敦盛という武士は二度とこの世には現れない。またどこかで会うこともあるだろうが、そのときは出家僧としてお目にかかるであろう」
そういうと、敦盛は立ち去った。
直実は、一騎打ちで首がとれなかったことから源頼朝から疎まれ、領地の一部没収の憂き目にあった。
熊谷直実は、その後も源氏方の猛者として多くの戦に出たがいつも死んだ息子のことや、敦盛のことが頭から離れないのであった。そしていつしか、世の無常や人の命のはかなさを感じるようになっていった。
数年の間、直実は悶々としていたが、心を決めて法然上人のおられる京都黒谷の金戒光明寺を訪れた。
そのとき、直実を迎えた若い僧を見て直実は驚いた。その僧こそ誰あろう、出家僧になるといって立ち去った平敦盛その人なのであった。
「そなたは」と思わず口にした直実は、そのあとの名前を決して言ってはならないことに気づき、「そなたは・・・私を出迎えてくださったか」と礼をのべた。
敦盛の僧は「どなたか存じませんが・・・お久しうござる」というと、法然上人の元に案内した。
直実は、法然上人より法力房蓮生という名を授かり、一日六万回の念仏を欠かさなかったということである。
だから、金戒光明寺には今でも平敦盛と熊谷直実の墓が並んでいる。