九、先祖の守り
あたしはずっと喜代を見守ってきた。生まれたときから。否、母親の胎内に宿ったそのときからずっと。
あたしが自身の一生の幕を閉じたとき、すべてのことにこれ以上なく絶望していた。そして自ら地獄へと堕ちて行った。そんなあたしを救い出して、子孫たちを愛することができる喜びをくれたあの方へのご恩は、永遠という時間をかけても返しきれないほど尊いものだった。
――大丈夫。あなたにもちゃんと、愛を知るときが来ますよ。
あのときの声は決して忘れない。生命の恩人――大元織様。
――おいおい、やっぱり過保護過ぎやしないか?
愛する喜代の魂を肉体ごと抱きしめて頬ずりしていると、そばにいた霊(喜代の曾祖父にあたる)が口を出してきた。
――生まれて早々、父親に抱かれたときの、まるでこの世の終わりみたいなあの泣き声には、とても同情するものがあるよ……鬼夜、いくら可愛くて仕方なくても、この調子でいくと本当に喜代のためにならない。見ろ、男性恐怖症がさらに凄まじいことになっている……
――だって……この子にはちゃんとした相手と結ばれて欲しいんだもの。間違っても変な血統を引く獣になんか、渡してやらないんだから!
――だからって父親からまで遠ざけなくても……いくらなんでもそれは酷だ。
――……さすがにやり過ぎたとは思ってる。だからさ、最近は態度が緩和したように見えない? ほら、ちゃんとお父さんに「お仕事行ってらっしゃい」って言ってるわよ?
そう言うと、喜代の曾祖父はやれやれといった様子で離れていった。
あたしが地獄から解放されて自由になったのち、これから生まれてくる最も愛おしくて初々しい赤子には、自分と同じ「キヨ」と名付けるようにと念を送った甲斐があった。喜代の実の名付け親は、このあたしなのだ。
生前のあたしが生んだのは男の子だったが、女の子も欲しいと思っていたので、なおさら可愛かった。
あたしは常に喜代のそばにいて、変な虫がつかないように必死になって守っていたのだが、その結果、中学に上がる頃には立派な男嫌いの少女となっており、それを見た他の先祖たちの慨嘆の叫びに、さすがに少しばかり身を退いておいた方が、これから社会で生きていかなければならない彼女のためかもしれないと思い始めた。
それと、あたし自身はまったく気づかなかったのだが……あたしの姿は、普通の霊に比べるといろいろと凄いらしい。どう凄いのかきくと、最初はみんな押し黙ってしまったのだが……詳しく問いただしてみた結果、なんでも羅刹みたいなのだとか。
まあ、地獄にいた時間が長かったせいもあるのだろうし、仕方ないのかもしれない……一人の女性としては納得いかないけど。
高校に入学したとき、彼だ! と直感した子がいた。クロの子孫だと一目でわかるくらい、雰囲気がそっくりだったから。彼は荻原家の血筋だったが「黒川鉄矢」と名乗っており、そういった点でも何か因果みたいなものを感じさせた。
鉄矢には霊能力が備わっており、あたしの姿も見えた様子だったので、心からの笑顔を送ったのだが、逆にひきつった顔をされてしまったので、正直かなり凹んだ。鉄矢の幼少期なんてわからなかったけれど、男の子の場合、小さい頃はあんなに可愛いのに、大きくなると途端に可愛げがなくなってしまうものなのだな……思わずそう感じてしまった。
なにはともあれ、あたしは入学祝いとして、鉄矢に霊能力のさらなる開花を促すことにした。すべては、彼が持てる力でまわりを幸せにできるようにと、願いを込めて。それが逆に仇になろうとは、少しも考えていなかった……
結果的に、喜代は鉄矢に恨まれてしまった。あたしはそのことに喜代以上にショックを受け、喜代の一世一代の告白の現場にはとても立ち会えなかった(その後に、立ち会うだなんてとんでもない! と他の先祖たちに叱られた……)。そして案の定、振られてしまった。本当に可哀想なことをした。
だが、喜代はあたしが思っていたよりも案外強い子で、鉄矢がいなくても生きていこうと前向きに立ち直った。あたし個人としてはクロの子孫と仲良くなって欲しい、そしてあわよくば、あたしが果たせなかった思いを成就させて欲しいと考えていたのだが……喜代のその様子を見て、あたしはようやく彼女のそばから離れてみようと思った。
鉄矢には何か見ていて不安にさせられるものがあった。その「不安」がよくわからないにも関わらず、変に力を与えてしまったものだから、鉄矢のまわりにはあまり良くない低級な霊が集まるようになってしまった。鉄矢の精神は確実に削られていき、ますます不安定になっていく。どこまでもあたしのせいだ……
鉄矢に気づかれないかたちで、どうにか鉄矢を救うことはできないものか。不器用で頭の足りないあたしには、鉄矢の手で元凶を叩かせるという方法しか思いつかなかった。
鉄矢の通う大学の途中に植わっている一本の木に隠れては、たまに鉄矢に叩かれた。根本的な解決にはならないけれど、たとえそうであったとしても、木を叩き続ける鉄矢の顔を見ていると、あのときのクロの顔を思い出してしまって、とても止めることができなかった。
――クロは今、どこで何を思い、どう過ごしているのだろう。会いたくても会えない……何か得体の知れないものに邪魔されているみたいだ。
そんなことを思っていたとき、
「そんなに叩かないでよ。ひどいわ、私のお気に入りの木なのに……」
急にきこえてきた、悲しげに訴えかけてくるその声は――忘れもしない生命の恩人。
――織様!?
どうやらあたしは、気づかないうちに生命の恩人にまで酷いことをしてしまっていた。冗談抜きで穴があったら入りたい……
寛大な織様は許してくれたが、あたしが隠れて叩かれていた木は、婚約者との思い出の木でもあったそうで、地面に頭を叩きつける勢いで土下座した。すると「せっかくの美人さんが台無しになっちゃうよ?」と、ぶつけた額を撫でられた。聖母だ……日本の聖母がここにいる!
それからのあたしは、夏休み中、峯霊寺で修行をしている三猿霊媒師たちを遠くから見守りつつ、たまに喜代の様子を見に行く日々。毎日が平穏無事に過ぎていくそんな中で、別に余計な手出しをしなくても、ただ見守っているだけで良かったのだと悟るような心境になった。
そうして今……あたしは大勢の悪霊たちに取り囲まれている。
――ちょっと、お願いだからそこをどいて……どいてください! あの子のもとに行かせて! お願いしますから……
あたしが離れすぎていたのがいけなかったのだろうか。織様から「地上で生きている他の人間を手助けしながら、修行しましょうか」と言われて、しばらく喜代を見に行っていなかった。
喜代が狙われている。そう知らせがあったときに、誰が止めるのもきかずに彼女のもとへ飛んで行けば良かったのだ。織様や紫雲様が何と言おうと、たとえ天使たちが護衛についていようと……
――駄目だ。たとえお前個人が救われようと、お前とお前の仲間が生前の俺たちにしてきたことは、帳消しにならない。何も出来ずに遠くから眺めて苦しめばいい。子孫がずたずたにされる様を!
――やめてぇ! 手ぇ出さないで、あたしの……あたしの大切な子どもなんだぁ!
泣きわめいたところでどうにもならない。相手を喜ばせるだけだ。まわりからキシキシという胸くそ悪い笑い声がきこえる。ぎゅっと唇を噛み締めた。
――我々は鬼部を赦さぬ。鬼部の血を引くお前も。たとえ地獄から這い上がり、行いを正そうとしたところで、お前の中に流れる罪は消えぬ。我々の恨みはそんなことで晴らされぬ!
――今こそ我らの恨みを晴らすとき! 赦すまじ、鬼部! 子を亡くす悲しみを味わえ!
あたしのまわりの悪霊たちが、「うおぉおお!」と獣のような雄叫びを上げて、こちらに襲いかかってきた。もう駄目かもしれないと、目を閉じたとき。
「悪霊よ、この場から立ち去れ!」
はっと目を見開くとそこには、紫雲様と織様が神々しい光を放ちながら立っていた。
――あぁぁぁああああああ…………
あれだけの数の恨みを持つ悪霊たちが逃げていく。到底敵いそうにない相手を一瞬で、しかもたった二人で……腰の力が抜け、へなへなとその場に座り込む。
「鬼夜、しっかり!」
二人に両脇を支えられながら立ち上がると、涙がぼろぼろと目からこぼれ落ちた。
「早く喜代のもとへ……彼女は強い力で霊界に引っ張られてしまった。上手い具合に結界を張られて、部外者である者は入れないんだ。はっきりとした場所も特定できない……だが鬼夜が入り込めれば、その隙間からなんとか入れるだろう。すまない。最後まで守りきれず、挙げ句の果てにこんなことを頼んで……」
――謝らないでください……それだけ恨みが深かったのです。本当に、感謝いたします。
そして、あたしは喜代のもとへ飛んだ。霊は行きたいところを想像するだけでそこに行くことができる。
喜代のいる場所に到着したあたしは、悲鳴を上げるのをすんでのところで我慢したが、それでも嗚咽の断片は漏れたかもしれない。鉄矢が喜代を……あんまりだった。
――傷つけるのはあたしだけで充分でしょう。あたしを刺して。それで気が済むのなら。
鏡越しに喜代の虚ろな目が見える。喜代が意識を手放した瞬間、あたしは自分の姿と喜代の姿を入れ換え、彼女の身代わりとなって刺された。




