八、森山喜代
『らせつ【改稿版】』とリンクしています。
※残酷な描写があります。ご注意ください。
気がつくと、森山喜代は母校である高校の校舎内にたたずんでいた。廊下の窓から外を見渡せば、まだ昼間だというのにまったく人の気配が感じられない。校内も無人で、明るい場所なのに、かえってとても不気味だった。
たしか、自分は大学の帰りで立ち寄った駅のトイレにいたはずだ。それがなぜこんなところに? そもそも昼間ということ自体がおかしい。さっきまでは夕方だったのに……しかも、いつの間にか高校の制服姿で突っ立っているとなれば、これはもう本格的に夢でも見ているのではなかろうか。
そんなことを考えながら校内をうろうろとしていた森山だが、ふと思い立ち、かつて自分が所属していた教室を順々に訪ねてまわることにした。
――もし仮にここが夢の中だとすれば、私は何をやっても大丈夫だ。誰にも何をとがめられることもない。
一、二、三年と上がっていき、教室内を一通り眺めたあとで、最後に向かった先は講堂だった。入学式、彼と初めて出会った場所。たしかここら辺だったかと、森山はかつて黒川が座っていただろう席に近づいた。さすがにはっきりと覚えてはいないし、もし自分自身が他人にそんなことまで記憶されていたらと想像すると、我ながらどん引きする。どこまで執着心の強い馬鹿女だよ。
でも、そうか……彼はこういう光景を見ていたのだなと、なんだかしみじみとあたりを見渡した。彼は身長もかなりあったから、今自分の目に映っている世界とは、きっともっと違うのだろうけれど。それでも森山は、その席から見える講堂の空間を目に焼き付けたくて、一心に見渡し続けた。そして、やはり自分の執着心は恐ろしいもので、まだ未練たらたらなんだなとまざまざと感じられてしまい、思わず苦笑をもらした。
――本当、どんだけだ……
森山は極度に男性という存在に嫌悪感を抱いていた。それはもう自分でも不安になるくらい異常なほどに……それがなぜか、黒川鉄矢という人間に出会ったことから、徐々に緩和されていった。黒川から拒絶された後の今現在では、まったく気にならないとまではいかないが、近くに男性がいても冷や汗や動悸といった症状は少なくなったし、当たり障りのない会話もまあまあ自然にできるようになった。
それでも……視界に入るだけで、存在を感じるだけで、安心感を与えられる男性は黒川ただ一人だという事実も浮き彫りになったのだが。
――帰ろう。
講堂から出た森山は、そのまま昇降口へと足を運んだ。知っているようでよくわからないこの世界に、気がついたらいたのだから、同じように帰るときにも気がついたらというパターンかもしれない。下駄箱の並ぶ廊下の、正面をふと振り返れば、そこには懐かしい鏡張りの壁が広がっていた。よくこの壁鏡の前で、女子が身だしなみを整えていた。
はたと森山は鏡に近づき、自身の姿を凝視する。鏡の向こう側にいる自分は、首からだらだらと血を流していた。
――嘘だ……
首元に手を当てると、そこからは実際に出血しており、見る見るうちに両手や制服が赤く染まっていく。再度鏡に目をやると、今にも死にそうな青白い顔の自分が、恐怖と不安をあらわにしていた。だんだんと痛みが伴ってきて、森山はうずくまる。お腹も痛い……手をやってみれば、案の定、出血していた。
――助けて、誰か……助けて!
しかし口からは声が出て来ず、ただひゅーひゅーと空気の漏れる音だけがした。
――このまま死ぬんだろうか……
そんなあきらめにも似た絶望感を抱き始めた頃、昇降口の角から誰かが歩いて来る気配がした。森山は激痛の中、なんとか意識を保ちながらも、その誰かを待った。
そして現れたその姿に、森山は目を見開く。
あの日とまるで変わらない、こちらの心まで凍りつくかのような冷たい瞳――黒川鉄矢その人が、森山の全身を射抜いた。
「まだ死んでいなかったのか」
そう言って、彼は刃物を無造作に突きつける。刃物の切っ先がざくざくと近づいては離れ、堪えきれない痛みとともに、ずぶずぶと肉が切れていく感触が伝わる。新たな傷口が広がっていく。
――あぁ、私はこんなにも彼から恨まれていたなんて……なぜ? いつの間にここまでになってしまったのか。彼はなぜ、私をここまでにしなくてはならないのか。私は彼に何をしたのか……
森山は床に完全に倒れ込んだが、それでもなお、黒川の手が止まる気配はない。鏡の向こうの自分が、虚ろな目で見返してくる。それを最後に、森山は意識を手放した。
ミザルの知らせから急いで駆けつけた三猿霊媒師たちだったが、到着して早々に目撃した現場の、そのあまりの惨状に言葉が出なかった。あたり一面が血の海で、むせ返るような生臭い臭い。見れば、人らしくない形をした黒い塊が、森山に刃物を突き刺し続けている。否、本当に森山なのだろうか……八つ裂きにされて真っ赤に染まった肉の塊。
黒川は込み上げる吐き気を抑えながらも、隣でがたがたと震え上がっている優をさっと後ろに隠し視界を塞いでやる。間髪を入れず「見るな」と環生も黒川の真横に立った。それでもなお、鋭利な刃物が肉を突き刺す音は響く。
「勘弁してくれよ……めちゃくちゃグロいんだけど。いい加減、俺の先祖から離れてくれませんかね? 鵺さん」
黒川が発したその言葉に、環生が「どういうことだ」と黒川に視線を寄越した。
「あれが鵺だろう? それでもって、鬼夜の子孫と……お前の先祖って一体どこだよ?」
「鵺の中だ」
その瞬間、黒い塊は三猿霊媒師のほうを向いて対峙した。そして、内臓中に響き渡るかのような太い男の声が言った。
――そいつらも殺せ!
黒い塊がぶよぶよと拡散し始め、黒い霧となってあたりに広がっていった。その中心に人が一人立っているのが見えてくる。長身で彫りの深い顔に、切れ長の目をした、黒川とどことなく似通った雰囲気の男性――クロだった。




