七、黒い正体
「優ちゃん。今日の放課後、霊媒相談所に集合だよ」
昼休み、三村優が図書室の一角に座っていると、イワザルが入ってきた。その黒目がちの目をちらりと見て、「可愛いなあ」と癒やされつつ、まわりの目も気にしながら、机の下で小さく親指を立てて、了解のサインを送る。
するとイワザルは「何読んでるのー?」と、優の膝の上にちょこんと乗っかり、机の上へ顔を出そうと身を乗りだした。が、案の定、背が足りず顔が出なかったので、優はそっと持ち上げてあげようとしたのだが、その前にイワザルの尻尾が器用にバネのような動きをしたので、いらぬお世話だったかと手を引っ込めた。
――考えてみたら、天使なんだから飛べるよね?
机の縁にぶら下がって、ぶらぶらと揺れているその姿に、優はマスクの下で顔をかすかにほころばせた。
――可愛いっ。
霊媒相談所に到着すると、紫苑が席についてくつろいでいた。
「こんにちは、紫苑さん」
「こんにちは、優さん。みんなまだだから、座って座って。お菓子でもどうぞ」
普段ここの管理を任されている彼女は、何も依頼が入っていないときでも、大抵ここでこうして過ごしているのだという。
紫苑は霊能力を持たない一般人なのだが、それだけに初めて会ったときには、一体何者なのかと思わず警戒してしまった。だが織とも仲が良い様子だし、その人好きのする性格で、今ではすっかりみんなと打ち解けている。
ちなみに彼女の正体とは、峯霊寺の次期当主、兼霊媒相談所の創始者である峯崎 紫雲の妹――峯崎紫苑。霊能力を持たない彼女がここに居続ける理由を、優は前に少しだけきいたことがあった。
――小さい頃に慕っていた叔母さんが、神隠しにあったとき最後に見かけたのがここだったんだ。
この貸しビルの一室は、もともとはその叔母さんの借りていた部屋で、紫苑は幼い頃からよく出入りしていたのだそうだ。それが、ある日忽然と姿を消してしまい、捜索願いも出しているそうなのだが、いまだに見つからない。しかし、いつかは必ず帰って来るだろうと、紫苑は霊媒相談所と変わった今でも、この部屋に今日も入り浸り続けるのだと。
しばらくしてから、見慣れない男性が入ってきて、「峯崎紫雲」と名乗ったので、優はそこで初めて、三猿霊媒師の最高指導者である霊媒師との対面を果たしたのだと悟る。
「ビルの入り口で三猿の男の子二人にも会ったよ。一足お先に着いちゃったけどね」
と屈託なく笑う紫雲。それから幾分もしないうちに、黒川と環生が揃って入ってきた。と、黒川の顔色が心なし悪い気がして、心配した優は声をかけようと腰を浮かしかけた。だが、これまたなぜか気まずそうな表情の環生が、「やめておけ」と慌てて口だけを動かしながら優に知らせるので、黙ってまた席に腰を降ろす。
最後に大元織が顔を出して、全員が出揃ったところで本題に入るときにも、普段ならば「召集しておいて一番最後なんて……」と文句の一つでも言いそうな黒川は、相変わらず青白い顔をしたままずっと黙っている。それどころか、織の顔を見ようともせず、意図的に目を逸らしているその様子に、優はさらに心配を募らせた。ちらりと環生のほうを見やると、彼は訳知り顔で首を小さく横に振るだけだった。
「さて、集まっていただいたのは他でもない。先日、依頼の帰りにおいて三村優さんが襲われた件で、わかったことがあり、それをみんなに報告しておこうと思う」
今までは織が三人のまとめ役であったが、現在、そのさらに上司である紫雲がこの場を取り仕切っている。紫雲には上に立つ者としての威厳があり、なおかつ誰よりも実力者であった。
彼は霊界探訪において優の先祖をさかのぼると、そこで事情を知っている先祖たちから話しをきき回り、並の霊媒師ではとても行けないような深い階層のほうまで、単独で降りていった。降りれるところまで降りていき、あちこち捜し回ることで、やっとこさ優を襲った黒い塊の存在を感知できたのだという。
紫雲は問うた。
――お前は一体何者か。
すると、相手は太い男の声で答えた。
――鵺だ。
――鵺……得体の知れない存在か。では鵺よ。お前はなぜあの少女、三村優をさらおうとした。さらってどうするつもりだった。
――地獄へ。ともに堕としてやろうと思った。あの娘はクロの思い人の子孫だから、殺して堕としてやればあれはさぞ傷つき悲しむだろう。
――……クロとは誰のことだ。
――荻原家の先祖。黒川鉄矢の先祖だ。
鵺は心底可笑しそうに、キシキシと歯で笑った。嫌な笑い方だった。
――わたしはクロを恨んでいる。クロも、クロに優しくする奴もすべてが恨めしい。その子孫も、それを取り囲む者も……幸せになどさせない。暗闇に引きずり込んで、同じ痛みを味合わせ、傷つけ、悲しませ、心を歪ませたい。自分と同等か、それ以下まで堕としてやって、不幸になった彼らの姿が見たいのだ。
黒い塊が話しているうちに、だんだんとそれは人らしい姿になってきた。だがその姿が変化をやめ、完全に正体を現したとき、やはりそれは人間の形をしてはいなかった。
――長年の憎悪、怨恨が、わたしをこのようにしたのだ。もはや人の形には戻れぬ。それでもいい。皆このようになればいい!
そう叫んで、鵺は紫雲に飛びかかった。紫雲はすんでのところで避けて、そのまま逃げ出したが、鵺は霊界のどこまでも追いかけてきた。追いかけながら叫んだ。
――おお、逃げろ逃げろ! 実に滑稽だ。どこまでも追いかけ、追い詰めてやろうぞ! そうだ、夕が駄目なら鬼夜を……あの餓鬼の子孫を!
だが霊界の聖域に近づけば近づくほど、鵺の勢いは衰えていき、ついに聖域の門をくぐったときには、鵺の姿は消えていた。
「……で、つまり話を整理すると、俺の先祖が鵺に恨まれていて、おまけに優の先祖と俺の先祖が仲良かったせいで、優が襲われた、と?」
「仲良かったとか、マジで簡単にさらっと言ってくれちゃうよね?」
紫雲の話が終わり、しばしの沈黙の後、堪えきれなくなった黒川の一言に、環生が突っ込んだ。黒川のどことなく嫌そうな雰囲気にカチンときたのか、それとも隣に座る優の顔色が青くなったり赤くなったりと、いつになく忙しないその様子が気に食わないのか、最後にぼそりと「むかつく」という環生の声が、沈黙をさらに助長させたようだった。
堪えかねたように、紫雲が咳払いをする。
「たしかに、霊界は思った以上に複雑だ。そして、残酷で悲しいことも多い。騙されることだってある。だが、今回の探訪で得た情報は確かなので、信用していいだろう」
「根拠は?」
なおもふてぶてしい黒川に、紫雲は態度を崩すことなく対応する。
「優さんのご先祖様からの情報だからだ」
黒川と紫雲はお互いに見つめ合い続けたが、やがてふぅと息を吐いて、黒川が視線を外す。
「さて、ところで忘れていないかしら?」
ここで初めて大元が開口した。黒川は頑なに顔を見ようとしない。
「夕は、つまり優ちゃんのご先祖様のことよね? それじゃあ鬼夜って、誰のご先祖様なのかしら? 今度危ないのはその鬼夜の子孫なのであって、今、私たちが率先してやるべきは、その子孫を守ることではないかしら?」
大元のもっともな言葉に、三猿霊媒師たちは、はっと我に返ったように目を見開いた。
「そう、ですね……でも、一言で鬼夜と言われても、皆目見当もつかない……」
「大丈夫よ、植田君。もうこっちの方で調べはつけてある。今、その子孫には三猿天使たちを護衛につけているから」
そう優しく声かけたあと、大元は黒川に少しきつい目を向けて言った。
「森山喜代。黒川君、この名前を知っているよね?」
「……あぁ」
そこでようやく、黒川は大元と視線を合わせた。その表情には不安と戸惑いが見え隠れていた。
「高校の……同級生だ」
言った途端、何かが猛スピードで近づいてくる気配に紫苑以外の全員が気づいた。そして――
「森山喜代が危ない! ぐぇっ!?」
勢い余ったミザルが、環生の後頭部へ見事に激突した。
【小話】
黒川と環生が霊媒相談所の貸しビルの入り口に到着したとき、偶然にも大元と鉢合わせた。その隣には知らない男性がいて――大元と手を繋いでいた。
「あら、植田君に黒川君」
大元はいつもと変わらない朗らかな微笑みを浮かべて、繋いでいないほうの空いている片手を振った。
「師匠、こんにちは。紫雲さんもご無沙汰しています」
戸惑っている黒川を尻目に、環生は二人に向かって丁寧にお辞儀をした。
「こんにちは。久しぶりだね、植田君。そして、こちらは初めましてだね。君が黒川鉄矢君? 峯崎紫雲です」
「どうぞよろしく」と差し出された手は、つい先ほどまで大元の手を握っていた手で……黒川は呆然としながらも、ほとんど反射的にその手を握り返した。
「紫雲さんは、峯霊寺の次期当主、三猿霊媒師の総指導者よ」
「あと、霊媒相談所を立ち上げましたね」
大元と環生が、少し固まっている黒川に対して、紫雲についての情報を語る。ああ、この人がそうかと思いながらも、黒川にだって名前だけきけばそれくらいはわかるし、本当に知りたいことはもっと他にある。
そのことを察しているように、大元が口を開き、その言葉によって、黒川のなけなしの思考がさらに真っ白になった。
「それから、私の婚約者です」
その後、環生に激しく肩を揺さぶられ、ようやく気がついたときには、大元も紫雲もいなかった。大元がお手洗いにも寄りたいからと、先に行ってしまったらしい。
「えーと……大丈夫?」
「……お前、知っていたか?」
気遣わしげに顔をのぞき込む環生がわずらわしくて、思わず質問を質問で返す。
「まあ、師匠とは付き合い長いし……いつ言うのかな? とは思ってた」
「そうか……」
それからはずっと無言で、霊媒相談所の玄関に立った二人を取り巻く空気は、とても居心地の悪いものだった。