五、三村優
日曜日。窓の外を見れば、日が傾いて一日が終わろうとしていることを告げている。一昨日の出来事から落ち着いた私は、今日、織ちゃんと喫茶店で待ち合わせていた。
持参した文庫本を開く。梨木香歩『裏庭』。彼女の作品を好きだという女性は多いらしい。すべての作品を読んでいるわけではないが、とても胸に来るものが多いので、気がついたら手に取っている。今日は『裏庭』の気分だったので持ってきた次第だ。
たしか、鏡の向こう――死に近いような場所へ行く話だった。
鏡は嫌いだ。靄がかかったような磨り硝子のほうがまだマシだと思う。マジックミラーなんて最悪だと感じたりすることもある。
私は自分の顔が宇宙人みたいで好きではない。宇宙人は表情が乏しくて、笑っているのか怒っているのかわかりにくい印象があり、それは私自身にも当てはまることだと思っている。私も表情を作るのが苦手だ。というより、表情筋をあまり使わないのでわからない。笑い方など、とっくに忘れてしまった。だからマスクが手放せない。
こんなんだから、中学で「いじめまがい」にあうのだ。教室の片隅で、自分の席についたままじっと動かないで、自分の殻に閉じこもる。にこりともせず、険しい表情で。その様子はまさにハシビロコウだと思う。
いつからこんな人間だったのか。今さら原因を探し出すのも億劫だが、気がついたら誰にも心を開くまいと、依怙地になっている自分がいた。
母に言われた。「いつからか写真に写る顔から表情が消えた」と。
家族は何も悪くない。私が意地っ張りなだけだ。
「優ちゃん、お待たせ。結構待たせちゃった?」
「大丈夫。織ちゃん、お疲れ様」
見上げれば、一人の東洋系美人が聖母のごとく微笑んでいた。同性でありながらも、ついうっとりと見つめてしまう。
「あ、それ新しい本? この前のやつは……ミヒャエル・エンデの『鏡のなかの鏡』だっけ? 読み終わったの?」
「内容がよくわからなかったし、挿し絵が怖くて最後まで無理だった」
私はすぐに首を横に振って答えた。よくわからない悲しみに包まれた雰囲気の、あれはしばらく読めそうにない。
「そっか、そういうときもあるわよね」
織ちゃんが注文した分を置いて席につくと、じっと本に視線を向ける。
「裏庭」
「ああ、私も読んだことある! 面白いよね」
にこにこと私が話しやすい話題を振ってくれる。織ちゃんは今年で二十三歳になる、私の一番の親友であり、良き姉であり、大切な人だ。彼女と出会えたおかげで今の私がある、生命の恩人。
いつも柔らかくてあたたかいオーラに包まれているようで、意志が強くて真っ直ぐ。それでいて、しなやかさもある。堂々としていて格好いい。私も織ちゃんみたいになれたら良いのにと思う。
彼女のように常に正しくあれば、あんな得体の知れないものに狙われることもなかった……
「優ちゃん、今何を考えているの?」
はっと視線を合わせると、黒曜石のような瞳が私を捕らえる。思わずひゅっと息を飲んだ。
「何度も言うけれど、あれに襲われたのは、別に優ちゃんに隙があるとか、汚れているからとか、そんな理由じゃない。今、みんなで正体を突き止めているところだけど、たとえあれの正体が何であろうと、優ちゃんが気に病む必要はないよ。優ちゃんはきれいだもの」
「そんなことは……」
「あるの。自信持ちなって、ね?」
織ちゃんの言う「きれい」とは、私のどこを見て言っているのだろう。それに答えてくれるかのように、織ちゃんは上品に微笑んだ。
「あれの正体を調べるためにね、優ちゃんのご先祖様をさかのぼっていったんだけど、品行の正しい人が多かったし、どなたも優ちゃんのことを気にかけているふうだったわよ」
「……」
「優ちゃんからも、ご先祖様と同じような雰囲気が出ているのを感じるんだ。すごく愛されているよ」
――それなのに、私の心はなんでこんな……
「ねぇ、一日一ミリでも、神様に近づけると良いよね。一気に良い方向へ行こうとしなくていいの。一日一ミリで良いから」
「織ちゃん……」
「そうしたら、振り返ったときに変われている自分に気づける。そう思うよ?」
「うぅ……」
少しだけ涙がにじむ。人前でそうそう泣くわけにもいかないけれど、やっぱり織ちゃんはすごい人なんだと思った。
「織ちゃん、私……織ちゃんがうらやましい」
視線を下に向けたまま、私は今まで誰にも言えなかった心の内をさらすことにした。黒いものに襲われて、それが何かの転換期となっていくのではないかと。もしもそうであるのならば、自分を本当に変えるときは今しかないのではないかと。そんな心境で。
「織ちゃんは誰のことも愛せるし、誰からも愛されるし、すごい人なんだといつも思う……私は上手く人を愛せない。自分のことも好きじゃないし……自分の世界に閉じこもってばかりなのがいけないって、わかってはいるけれど、変わりたいとは思っている。でも……でもね、どうしても上手くできないんだよ。一度嫌いってなったら、なかなか愛せないし、初めての人はどう接すればいいのかわからないし、向こうから来てくれればって思うのも、甘えているってわかっている。『察してちゃん』は困るっていうこともわかっている……でもさ、なかなかできないんだよ。人の気持ちがわからない。本とばかり見つめ合って、生身と接しないから……もう、向き合い方もわからなくなった。それでも……」
いつまでも子どもとして甘えてはいられない。いくら考えて行動しても、現実は上手くいかないことが多い。そういう中で、生きていかなければいけない。自分として……それがどんなに嫌いな存在であったとしてもだ。
『人間はあまりにも辛い人生を生きると、感情をおさえてしまって無感情になるのだろう。』
新潮文庫版『裏庭』の解説に出てくる一行だ。『裏庭』は本文と解説を読むとさらに面白いときいたことがあるし、実際その通りだと思う。
私の人生がさほど辛いものだったとは思えない。しかし、感情をおさえてしまった要因は必ずあるはずで、今は思い当たらないが、いずれかは思い出すこともあるかもしれない。そうして再度傷つくのだろう。人生で傷つかない人間は一人もいないのではないかと思う。傷つくからこそ、また愛そうと思うのが人間なのだから。
「私にはまだ自己中心な部分も多いし、上がり下がりもあるけど……変わろうとは思っている。ありがとう。こういうふうに考えられるようになったのも、織ちゃんのおかげだから」
そんな私を、織ちゃんが嬉しそうに見つめてくる。なんだか恥ずかしいけれど、私も嬉しかった。
「目が生き生きとしているよ。良かった、優ちゃんが元気になって」
そう言って、頭をそっとなでてくれた。
やっぱり織ちゃんにはかなわない。ふと脳裏を横切る顔に、胸が切なくなった。口には決して出さないけれど……自分とはつり合わないと端からわかっていた。だが、そうであったとしても……黒川に少なからず思われている織ちゃんは、本当にうらやましいと思った。
引用文献
「裏庭」
著者:梨木香歩
平成十九年二月二十五日二十刷
発行者:佐藤隆信
発行所:株式会社新潮社
P.408 十四行目
【小話】
「そうそう、これ。この間みんなで撮った記念写真だって」
そう言われて、織ちゃんから渡された写真には、猿山の猿たちを背景にして、黒川と優のひきつった笑顔と、自然に笑う環生が映っていた。
(良いよね、こんなふうに笑えるなんて。きっと人生楽しいだろうな)
少しむっとした顔で思っていると、織ちゃんが横からのぞいてきて、写真の縁をなぞるように指をすべらせると、
「やっぱり三人揃うと良いわね。ほら、天使が映っている」
見ればたしかに、透き通った丸い光がまわりに浮かぶように映っている。つまり、三猿天使だけでなく、他の天使も集まってきていたということ?
「でも、やっぱり写真は苦手。写真を撮ろうとする人も苦手」
「植田君も苦手?」
「苦手」
即答する私を見て、織ちゃんは可笑しそうに笑った。
「でも、本当に彼は写真が好きよねぇ。将来は写真家かな? お祖父さんも写真家だったんですって」
そんな話の流れから、私は植田環生という人間の過去を知ることになった。