四、霊媒相談所
『慈烏反哺』『お稲荷様の縁結び』とリンクしています。
黒川たち三人は、とある小さなビルの一室を借りて作られた「霊媒相談所」に集まっていた。三猿霊媒師として初めての依頼を受けるのだ。部屋の空気はぎくしゃくとしている。今日は金曜日ということもあり、各々が学校帰りで、その日常生活の延長線にも似た雰囲気が多少、お互いの緊張感を和らげてはいたが、三人とも何も話すことなく、室内はとても静かだった。
今回の依頼はとても簡単なものだときいたし、大元もフォローとしてついてくれると言うので、そこまで心配する必要はないのだろうが……まったくと言っていいくらい経験のない今の自分たちで、本当に大丈夫なのだろうかと、拭いきれない不安は募るばかりだ。
なんとも居心地の悪い沈黙を破ったのは、黒川の携帯のバイブ音だった。さっと取り出して表示を確認すると、おもむろに立ち上がり、そのまま部屋を出て行く。どうやら電話だったらしく、扉が閉まる前に「はい」「何か用?」という彼の声がきこえた。残された二人はさらにぎこちなさを感じるも、しばらくの沈黙の後、堪えきれずに開口したのは環生だった。
「まだ来なさそうだね、大元さん。依頼人と落ち合って、今向かっている途中みたいだけど」
優もこくんとうなずいて答えた。
「もうそろそろって言ってたけどね」
それきりまた会話は途切れ、やってくる沈黙に対して、環生は内心頭を抱えた。どうも上手い具合に緊張を払えない自分がもどかしい。
すると、電話を終えた黒川が扉を開けて中に入ってくる。その様子にどことなく不機嫌なオーラが漂っていることにお互い気がついてしまい、ますます居心地悪さに拍車がかかってしまった。
「どうかした?」
「別に」
「そう……」
会話を続ける気すらもないのだと、もはやあきらめて大元の到着を待つしかなかった。
「みんなお待たせ!」
相談所の扉が開き、大元が見知らぬ長身の男性とともに中に入ってきた。その身長は黒川と良い勝負だ。
「この人が今回の依頼人の荻原さんです」
「荻原育です。今日はよろしくお願いします」
荻原は三人を順々に見ながら、丁寧に頭を下げるので、それに応えて三人も立ち上がり、それぞれ苗字を名乗った。そして依頼人と話すために席を移動する、ちょうどそんなタイミングでまた扉が開き、一人の若い女性が入ってきた。
「あ、今お茶をお出ししますね」
いそいそと給湯室へ姿を消すと、五人分のお茶を用意して戻り、それぞれの前に置いていく。
「また何かあったら呼んでください。隣の部屋にいるので」
「ありがとう、紫苑ちゃん」
大元が笑顔で会釈すると、彼女も会釈を返してから出て行った。
そうして始まった依頼の内容は以下のようなものだった。
荻原は大学一年生。両親と祖父の四人暮らしであったが、最近その祖父が亡くなってしまい、それによって残された者たちの間で、遺産相続問題が持ち上がっているのだという。なんでも、祖父に雇われていた弁護士が預かったという遺言書には、「荻原家の遺産は長男と次男とで半分ずつに分け与える」とあった。ところが、長男は二十年以上も前から行方不明となっており、そのため、もしも見つからなかった、あるいは死亡していた場合には、長男の財産はすべてその子どもに渡ることになることも書かれていたそうだ。
それを知った次男、つまり荻原の父は表情を険しくさせた。「今まで音信不通で何もせずにいた兄が、ずっとそばにいて支えてきた自分と同等の遺産を相続するなんて納得できない。さらには、今まで会ったことはおろか、存在さえ知らなかった子どもに渡るなんて」と。普段温厚な父が不快な感情をあらわにし、その姿を見た荻原自身もまた、素直に納得できなかったのだという。
法律上では、遺産は半分ずつ与えられることが当然だと、たとえ頭では理解できても、心まではついていけない。そういうこともある。
「話しによると、その子どもは僕と同い年なのだそうです。近々会うことになるとも思うのですが……」
そこまで言うと、ふっと短く息をついて目を伏せた。
「祖父はずっと伯父に関することを話しませんでした。だから僕も最近になって初めて知ったんです。従兄弟のこともそうです。祖父は従兄弟が今現在、伯父とは一緒に生活していない、母子家庭であることも知っていて、その上で、両親にも誰にも黙って一人、定期的に従兄弟の母親に支援金を送っていたのです。それでさらに遺産の半分を与えるとなると……こんなことで揉めるなんて、本当に嫌ですよね」
最後の言葉は苦笑混じりに吐き出された。
「それでも大事なことですから。本当は従兄弟とちゃんと顔を合わせて、話し合おうとも思ったのですが、つい先日、不思議な夢を見たのです」
夢には亡くなった祖父が出てきて、生前と変わらない穏やかな表情で「霊媒相談所を訪ねなさい」と言ってきた。まわりにはなぜか可愛らしい猿たちが飛んでおり、その中の一匹が荻原のもとに近づくと、一枚の名刺を差し出した。その名刺は、夢から目覚めれば当然のごとく消えてなくなっていたが、そこに書かれていたメールアドレス「sanen-reibaishi@*****.ne.jp」がとても印象に残っており、試しで実際に送ってみると返信が返ってきて、現在にいたるのだという。
「こんなもやもやとした心境のまま、顔を合わせるのも気持ちの良いことではありませんし、どうせならいっそのこと祖父の真意を知りたい。知った上で従兄弟と会いたい。ちゃんと向き合って話したいんです」
今回の依頼を請け負った責任者である大元の顔を、深刻な表情で見つめていた荻原は、そう締めくくると頭を下げた。
「わかりました。それでは、今回の依頼内容としましては、荻原さんのお祖父様の真意を知りたいということでよろしいですね?」
大元はとても丁寧に言葉を返した。その姿はとても自信に満ち溢れており、安定感のある、実に頼もしいものだった。
「はい。あと、できれば伯父さんの安否もお願いいたします。一度も会ったことのない人ですが、やはり心配なので」
「わかりました」
こうして、三猿霊媒師としての初仕事が幕を開けた。
話が終わると、大元はさらに奥の部屋へとみんなを案内した。
「大元さん、ここは?」
「あの世とこの世をつなぐ場所、とでも言えばいいかしら」
再びの沈黙が訪れる。その部屋は壁全体を白い布で覆われており、いくつかの椅子と一枚の巨大な鏡が置かれているだけの、簡素なところだった。
「霊能力のある人間がこの鏡に入ることで、その人間を通して、霊界の様子をのぞくことができるんです」
とてもそんな大それた場所には感じられない。騙されていると思われたりしないだろうかと、三猿霊媒師たちは恐る恐る荻原の様子をうかがった。
彼も目を丸くさせながら、しばらく思案している様子だったが、最後には大元の顔をまじまじと見つめてから、一言「お願いします」と言った。
椅子を一つ、巨大な鏡の前に持ってくると、大元は荻原に腰かけるよう促してから、三猿霊媒師の方を向いた。
「さて。それではさっそく、私たちは霊界へおもむくとします。これから先は何が起こるかわかりませんので、各自がしっかりと自覚を持ちつつ、私の指示に従って行動するように。くれぐれも軽率な行動は慎んでください。くれぐれも!」
強く発せられた最後の言葉は、主に黒川の顔を見ながらであったため、彼は露骨に顔をしかめた。
「良いですね?」
「はい……」
しぶしぶといった様子で返ってきた声に、それでも大元はにっこりと美しく微笑んでから、鏡の前へと歩み出た。
「念のため、荻原さんのことは三猿天使たちに任せてあります。荻原さん、あなたには見えないのですが、きちんと守られていますので安心して待っていてください。いざとなったときには、隣の部屋に先ほどの女性もおりますので。それでは……行きましょうか」
あたりを包んでいた霧が晴れると、目の前には美しい花畑が広がっていた。黒川は鏡の中に吸い込まれるように入って行った大元を追いかけて、その後に続いたまでは良いが、入った途端に見知らぬ通路が現れて、一方通行のそれを進んでいる内に霧に包まれ、いつの間にかこんな場所に座り込んでいたのだ。なんだか頭がくらくらする。
すぐそばに環生と優も座り込んでいたので安心したのも束の間、肝心の人物が見当たらない。
「なあ、あれってまさか……三途の川?」
環生のその言葉に遠くへ目を凝らして見ると、たしかに大きな川が流れているのが見える。もしもあれを自分たちが渡ったとした場合、一体どうなってしまうのだろうか。
あたり一面の花畑という、あまりに鮮やかで平和的な光景のために、ついつい危険な場所という認識が薄れてしまいそうだ。霊界は生きている人間にとって、未知の世界。そのまま引きずられてしまうかもしれない、危険な場所なのだ。心の底が薄ら寒くなる気がした。
「おーい、みんな! こっち、こっち!」
はっと声のした方を見ると――大元がふわふわと空中を浮遊していた。
「お前……軽率な行動はなんたら言っていたくせに、一番楽しそうじゃないか?」
「ふふふ。たしかに危険が潜む世界ではあるけれど、ここは霊界のロビーであって、そこまで危険なわけではないのよ? 霊能力を持たない普通の人間だと、また話は違ってくるけど」
大元はくるくると舞を舞うかのように弧を描きながら見事に着地して見せる。「ほおっ」と感嘆の声をもらしながら、パチパチと手を叩く環生の頬は赤かった。思わず不快感情が現れそうになった黒川は、必死にポーカーフェースを装う。それだけ見事だというだけのことだと、そう思いながら。
「あの川は渡っても大丈夫。ちゃんと戻って来られるから」
きらきらと眩しい笑顔の大元は、普段の倍以上美人に見えた。
川を渡りきると、大理石の立派な宮殿があった。亡くなって間もない人々が最初に来るのがここらしい。中に入ると、そこには大勢の人間が集まっており、なにやら談笑している者や、大きな画面に見入っている者もいた。
大元の足はさっさと迷わず動いており、黒川たちはそのスピードに合わせようと、必死に彼女の背中を追いかけた。
「すみません。受付お願いします」
彼女は歩いた先にいた、一人の美少年に声をかけると、彼はうなずいてさらに奥へと四人を案内した。一体誰なのか尋ねると、「天使」だと答えが返ってきた。
「こんにちは、織さん。今回はどなたをお捜しでしょうか?」
受付にはまた違う美青年が座っており、大元に微笑みかける。彼もまた天使なのだろう。だがその姿は、自分の今まで想像していたものといくらか異なっていた。頭には天使の輪もなければ、背中の翼もない。恐ろしいほどに美しい外見という以外には、人間と変わらないのだという事実を知った。
「はい。荻原治というかたは霊界に登録されていますか? あと、荻原圭次郎さんにお会いしたいのですが」
「畏まりました」
指定された部屋に入ると、そこには一人の優しそうな老人が待っていた。
「わたしが荻原圭次郎です」
「大元織です。突然すみません」
お互いに頭を下げた二人に従って、三人も頭を下げる。そして顔を上げたとき、黒川をちらっと見やった荻原圭次郎の顔は、不思議そうな表情の後に柔らかく笑った。少し戸惑った黒川だが、それでも一瞬の出来事だったため、たいして気にとめなかった。
「圭次郎さん、お孫さんである育さんからのお願いです。あなたの真意をきかせてください」
大元の言葉と同時に、どこからともなく鏡が出現した。
荻原育は、映し出された祖父の姿を認めた瞬間、「おじいちゃん!」と感極まった声で鏡にすがりついた。
「育や……」
「あぁ、おじいちゃん……本当に、おじいちゃんだ……」
鏡越しに涙を流す二人を、まわりは静かにそっと見守っていた。
「育や、すまなかった。結局わたしは育を傷つけてしまった……」
「そんな……僕はただ、おじいちゃんに会いたかった。顔が見たかった……」
育は首を横に振りながら言う。
「育……放蕩息子の話を覚えているかい?」
「……ルカ福音書、第一五章十一節」
「そうそう。さすがは育だね」
圭次郎は満足げに微笑みながらうなずき、育にその先を促した。
「ある人に二人の息子があった。弟は父に、自分の分の財産をもらうと出て行き、そして放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たした。食べることに困った彼は、息子としてではなく、僕として置いてもらうよう、父に頼むために家に帰った。しかし、帰った先に彼が見たのは、自分の帰りをいつまでも信じて待ち続け、戸口にたたずむ父の姿だった。息子に駆け寄った父は、僕として置いてほしいという彼の言葉を聞き入れずに、帰ってきた息子を祝う宴を開く。それに対して憤った兄に、父は言う。『あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』と」
育の口から紡がれる、つかえることなくなめらかに滑り出すその声は、まるで朗読をきいているかのような心地にさせた。
「育や、それと同じだよ。お父さんもきっとわかっている。大丈夫だよ、わたしの息子で、お前のお父さんなのだから」
「ん……」
すすり泣き、鼻を赤くさせながら、何度もうなずく育はまるで少年のようだった。
「……意味がわからない。結局、その放蕩息子であるところの、荻原家の長男は見つからなかったじゃないか」
黒川の不用意な物言いに、あわてたように環生が肘で小突くも、彼はお構いなしに先を続けた。
「一体何が言いたい? あなたの息子はまだ帰ってきていない」
「黒川!」
環生のほうを冷めた目で一瞥する、そんな黒川の様子を眺める圭次郎は悲しげに見えた。
「絵空事にしかきこえない。気に食わねぇ……偽善者」
ぽろりと出たその言葉に、黒川自身が驚いていた。自分は何をイラついているのか。さっきの言葉で、その場がどれだけ凍りついてしまったのか、今さらながらに気がついたが、もう遅い。一度出た言葉は取り戻せないのだ。
「黒川君、お父さんを恨んでいるかい?」
「は?」
圭次郎の突然だが優しい声かけにも、ついつっけんどんな反応をしてしまう。というより、今なんて……? 無意識にさあっと血の気が引く。
「なぜ……そう思う? 俺が、父親を……」
血の気が引いた後の、冷や汗が流れるのを感じる。そんな黒川に向かって、圭次郎がそっと近づいた。そして、
「おいで、鉄矢」
胸の底からじわじわと何かが押し上がってくる。苦しい。顔が、身体中が熱い。目頭がじんじん痛い。視界がかすむ……
「なぜ……」
その名前を? ときく前には、もうすでに抱きしめられていた。こんなふうにされたのは、記憶にある限り初めてかもしれなかった。
環生や優は何が何やらついていけずに、ただぽかんと眺めている。黒川自身もいまいち飲み込めていないのだが……
しばらくしてから圭次郎が身体を離すと、黒川をすっと鏡の前に誘導して、その向こうの育と対面させた。育のその表情は神妙なもので、彼も何かを悟っているのだということが窺われた。
「育や、彼がお前の……」
「うん。もうわかっているよ、おじいちゃん」
その会話で、表情で、自分の中でもようやくピースがはまった気がした。
――あぁ、そうか。そうだったのか。
「改めて、初めましてですね。黒川鉄矢さん」
――こいつの従兄弟とは、俺のことか。
あのとき、まだ荻原育の到着を待っていた頃、俺の携帯にかかってきた母親からの電話は、果たして偶然だったのだろうか。
「はい」
『あ、鉄矢』
「何か用?」
『……あなたのお祖父さんが亡くなったの』
「は!? いつだよ?」
『つい最近よ。心筋梗塞』
「……葬式はいつ?」
『もう終わったの。私一人で参列してきたから』
心の隅の方から、深々と感情が冷めていくのがわかった。自分のことを蔑むように見つめていた、その顔を思い出す。
「ふうん、そう。なんで?」
『……』
「なんで知らせなかったんだよ? もういないも同然ってことか?」
『違うわ……』
「じゃあ一体……いくらなんでも……」
『亡くなったのは、父方の祖父よ』
その言葉をきいた瞬間、ぷちんと何か切れたような感じがした。
「ふざけんじゃねぇ!」
そんなの、ますます初耳じゃないか。まるっきり、蚊帳の外じゃないか。近づいたと思っていた母親との距離が、また遠くなったと思った。
母親との電話をどう締めくくったのか、はっきりとは思い出せない。ただ、彼女の最後の言葉だけはいつまでも覚えていた。
『ごめんなさい……そのうち、お祖父さんの遺産相続の件で親戚と会うかもしれないから……それを伝えたかったの』
荻原治。自分の父親の名前をようやく知ることができたが、結局、彼は霊界にいなかった。それはつまり、まだ肉体を持って生きているということだが、行方不明という事実も変わらないのだ。
「黒川って苗字をきいたとき、なんとなくそんな気はしていたんだよ」
そう言いながら、育は照れくさそうな笑顔を向けた。彼とは、また時と場所を改めて話し合う約束を交わしてから、鏡越しの通信を一旦切った。
圭次郎とも別れを告げたとき、彼はもう一度抱きしめようとしてくれたのだが、黒川はそれを拒んだ。すると代わりに、頭をくしゃくしゃと撫でてくれて、どこまでも優しい人なのだと思った。
「さてと。帰りましょうか」
霊媒相談所の一室にて、育は霧のかかった鏡の中をじっと眺めていた。と、少しずつその霧が晴れていき、鏡の奥から四人がこちらに歩いて来るのが見える。自分の今の様子が彼らに見えるかはわからなかったが、それでも育は手を振らずにはいられなかった。
「お帰りなさい、皆さん。本当にありがとうございます」
鏡から次々と出てくる面々に、丁寧に頭を下げる。大元に、黒川に、環生……
「あれ、優ちゃん?」
大元が珍しく焦りの表情を見せた。三村優の姿が見えない。さっきまで自分たちの後ろを歩いていたというのに……
「師匠、あれ!」
環生は鏡に向かって指を突き付け、その示された方向に全員の目が向けられる。そこには優が、何か得体の知れないどす黒い塊に捕らわれて、どこかへと引きずられていく様子が映し出されていた。
「優ちゃん!?」
大元が叫んで、慌てて鏡に駆け寄る。黒川や環生も近づこうとしたが、
「来ては駄目!」
彼女がこれほどまでに余裕なく声を上げる様を、見たことがあっただろうか。ただならぬ雰囲気に気圧されて、大元以外は身動きが取れなかった。
そんなとき、今まで育のまわりをただよっていた三猿天使たちが、目にもとまらぬスピードで、さっと鏡の中に入っていった。その素早い動きで、どす黒い塊の周囲を瞬く間に取り囲むと、得体の知れないそれは優を引きずるのを止めて、まるで逃げ道を探すかのようにゆらゆらとうごめいて見えた。
「聖塩を!」
大元の声に従い、天使たちが白い粉を投げつける。するとゆらゆらうごめいていたものが、さらに苦しそうに身をくねらせた。その一瞬の緩みから抜け出した優は、制服のスカートがひるがえるのも構わず、必死の形相でこちらに走ってくる。
「優、早く!」
「あともう少しだ!」
だが、天使たちが取り囲んでいたはずの黒い塊が、いきなり縮んだかと思うと、勢い良く飛び上がって一気に優との距離をつめる。
――逃がさない。
ひやひやとただ見守っているしかない環生の耳に、突然そんな声がきこえたような気がした。身体中に鳥肌が立つ。この感覚は……
「いやぁああ!」
優の恐怖の金切り声が、環生の耳からその謎の声をかき消す。我に返った心地がした。大元に近づくなと言われていたにも関わらず、環生の身体はほぼ無意識のうちに動き出し、鏡から身を乗り出すと呼びかけた。
「つかまれ!」
今にも泣き出しそうに顔をゆがめた優。外されたマスクは背後に投げ捨てられ、恐怖と不安が顔中に現れているのがよくわかった。
優の小さな手が、自分の手に触れたと同時に、彼女の背後に黒い塊が降り立った。蔓のようなものが幾重にも優の胴体に巻きつく。「ひっ」と小さな声が漏れた。
「植田君。その手、離さないで」
有無を言わせぬ大元の声。ちらりと入った視界の隅で、彼女が九字を切る構えをしているのがわかった。三猿天使がまた周囲を囲っている。すっと真横からもう一つの手が伸びてきて、見れば黒川が優の両脇を抱えていた。
「引くぞ」
「ああ」
男二人で一気に引き上げるのと、黒い蔓が引っ張り返すのとで、その凄まじい力に優の身体は悲鳴を上げた。あまり長くは持たないだろう。
「臨兵闘者」
大元が素早く正確な動作で九字を切る。優に絡みついている、黒い蔓の力が緩む。
「皆陣列前行」
緩んだ隙に勢い良く引っ張り上げると、何の抵抗もなくなった優の小さな身体は、するりと簡単にこちら側へと戻ってきた。有り余った勢いで、後ろに仰け反った環生と黒川は、そのままどすんと尻餅をつく。そんな二人の身体の上に、優がころりと転がり落ちた。その身体をすかさず自らの後ろに隠した環生たちは、鏡に映るその光景を見てぞっとする。
大元の九字によって祓われたと思っていたそれは、あろうことか鏡から身を乗り出して、「ああぁぁぁああああ!」と断末魔ともつかない叫びを上げていた。それは人の顔のようにも見えたし、他の何かにも感じられたが、ぎらぎらと禍々しい目がこちらを睨んでいることだけはわかった。
手のようなものが、大元の首元に伸びてきて、締め上げようとする。だが、彼女の身体に触れた途端、バチッと電気が走ったかのようなすごい音が響き渡り、それからあきらめたかのように、黒い塊は鏡の向こうへと戻って見えなくなった。
その後、大元の手によって鏡が普通に戻されると、そこには自分たちの蒼白な顔が見返しており、他には恐怖の余韻にすすり泣く優の声が残った。
お読みいただき、ありがとうございます。
九字は宗派によって種類がありますが、今回のお話で出てきたのは、「九字の元祖、人によっては最も強力な九字」で、天台宗と神仙系が用いるそうです。
「元祖」「最も強力」ということで選びましたが、その他特に意味はありません。気分です(笑)
なにやら仏法やら聖書やら入り混じっておりますが、あしからずです。