6.鬼部
クロがかつて、まだ烏と名乗っていたとき、その女性と出会った。村の生き残りたちと決別し、一人で生きていくことになった烏は、しかしながら当然一人で生きていくことなどできずに、道端で野垂れ死ぬ瞬間を待っていた。すべてがどうでも良くなったような虚ろな目は、数多の道行く人間を写しては消していった。
そんな中で、ある旅の商人の娘が烏に手を差し伸べた。薄れ行く意識の中で、白く細長い手がそっと烏の頬を撫でて離れた。気がつくと、烏は筵に寝かされており、商人の夫婦とその娘に見つめられていた。
「良かった、元気になって」
そう言って、夕と名乗るその娘は心底嬉しそうに笑った。しかし、烏は助けてもらったことに対して素直に感謝することはなかった。
「余計なことを」
烏はどこまでも、人間らしい感情が欠如しているようだった。そんな烏に、夕の両親は呆れかえったが、夕自身は辛抱強く世話を焼いて、そばに居続けた。
「烏、ほら、蛙を捕まえたよ! 可愛いねぇ」
可憐な顔を興奮でほんのり赤くさせながら、烏に蛙を見せつける。可愛いと言いつつも、「今晩のおかずにしようね」とはしゃぐ、そんな夕を「あぁ、はいはい」と追い払うようにしながらも、烏はその蛙をちゃっかり受け取り、二人で焼いて食べた。
「ここが海だよ。初めて見た? 大きいでしょう! 浜によせる波がきれいだねぇ」
浜辺で砂を飛び散らせながら走りまわる無邪気な夕を、烏はどこか冷めた目でただ遠くから見つめていた。
「耳をすませてみて。草木が風にそよそよ動いて、まるで歌を歌っているみたい。気持ち良い風だね」
暑い日差しの中、木陰に入って休憩していると、本当に気持ち良い冷たい風が二人の間を駆け抜けていった。烏の汗ばんで張り付いた前髪を、夕の手がさらりと払っていった、その感触が不思議に残った。
「お花がきれいだねぇ。烏に見つめられて、嬉しそうに笑っているようだよ。たくさん咲き誇っていてすごいねぇ」
夕はいくつか花を摘んで、冠を作ると烏の頭に乗せて「似合っているよ」と微笑んだ。
「星が降るようにたくさん輝いて、まるで心が洗われるみたい。明日も頑張れそうだね、烏?」
満天の星空の深々とした姿に、烏の心にも何かが芽生えはじめ、夕の言葉にひとつうなずくと、小さく微笑んだ。
「雨だな」
烏が夕に話しかけると、夕は嬉しそうに「そうだね」と言った。
「湿った土が、良い匂いをさせている。新しい生命が芽生える音がきこえてきそう」
そうして雨宿りをしながら、二人して静かに耳を傾けていた。
烏は夕のおかげで、人間らしい感情を覚えていった。
ある日、烏が森のからすを見つけてから、ふと思い出したように「慈烏って呼んで」と言った。夕が「慈烏」と呼ぶと、照れくさそうに振り返って「ありがとう」と言った。
いつしか時は流れて、思春期を迎えていた二人は懇ろな間柄になっていた。どちらかともなく「好きだ」と言って、慈烏と夕は婚約した。夕の両親がやっていた商いを慈烏も受けついで、二人は両親のもとを離れた。慈烏の聡い頭はすぐに仕事の要領をつかみ、それなりに二人で生活していけるようになっていた。
何度も肌を合わせては、お互いに将来のことを考えて語り合って、希望と期待を込めた目をきらきらとさせていた。
すべての物事は順調に進んでいるように見えた。
鬼部と呼ばれる盗賊集団の噂をちらほら耳にするようになった。かつて慈烏の村を襲った奴らも、どうやら鬼部の一派らしかった。
「鬼かぁ……」
夕はめずらしく眉間にしわを寄せた、険しい表情を見せながらつぶやいた。
「強いモノ。邪しき鬼。まつろわぬ、法を犯す反逆者。この世界を脅かす異界の存在。姿の見えない、この世ならざるモノ。『モノ』って言うのは、怨恨を持った霊のことで、つまりは怨霊であり、邪悪な意味を持つんだって」
「相変わらず、夕は物知りだな」
のんきに感心していると、夕はふと慈烏のほうに向き直って両手を握ると、念を押すように言った。
「鬼は異性に化けて誘惑することもあるよ。気をつけなね」
「俺が夕以外の異性に惑わされたりするものか」
そう言って慈烏は夕を強く抱きしめると、その愛らしい唇に口付けた。
その数日後、ちょうど滞在していた村で夕たちは鬼部に襲撃され、慈烏以外の、夕を含む村人たちが惨殺された。慈烏は二度も生き延びる代わりに、鬼部たちによってかけがえのない大切な人を奪われたのだった。
それからの慈烏は、またかつての烏のような雰囲気をまとわせた陰気な青年となり、流れ者の何でも屋としてあちこちの国を渡り歩いた。
大切な人を奪った鬼部たちを探し出して、復讐を果たそうと。
そういうことがあってしばらく経ってから、慈烏はクロになって、そのさらに数年後、鬼夜に出会った。




